ベートーベン:15の変奏曲とフーガ 変ホ長調 「エロイカ変奏曲」 Op. 35
(P)アルフレッド・ブレンデル 1958年&1960年録音
Beethoven:15 Variations and a Fugue on an Original Theme in E-Flat Major, Op. 35, "Eroica Variations"
エロイカ変奏曲
ベートーベンは若い頃を中心に数多くの「ピアノのための変奏曲」を作曲しているのですが、その後も折に触れてこの形式によるピアノ曲を残しています。その中でも、とりわけ重要であり、しかしながら最後まで聞き通すにはかなりの忍耐を強いられるのが「ディアベリ変奏曲」でしょう。
しかしながら、あれはベートーベンの「ピアノのための変奏曲」の中においてみればモンスター的に異形なる存在であって、その大部分は当時の聴衆に人気のあったオペラなどの一節をテーマにしたものが大部分でした。
「変奏」とは一般的には「ある旋律のリズム、拍子、旋律、調子、和声などを変えたり、さまざまな装飾を付けるなどして変化を付けること」とされています。しかし、ベートーベンの「変奏曲」というジャンルにおける探求を跡づけていくと、「変化をつける」などと言う範疇に留まらないことに気づかされます。
いや、確かに最初は、オペラなどから拝借した旋律を面白おかしく変化させて聴く人の耳を楽しませる所からスタートしています。しかしながら、その到達点である「ディアベリ変奏曲」を聴くとき、そこには面白おかしく変化をつけて聴く人の耳を楽しませるなどという姿勢は吹き飛んでいます。
それでは、そこでベートーベンは何をしようとしたのかといえば、それは主題が内包する可能性を徹底的に汲み尽くすことでした。
よく知られているように、ディアベリによって示された「テーマ」は実に単純で陳腐なもののように見えました。しかしながら、外面的には「陳腐で単純」に見えたテーマの中に豊かな可能性をかぎつけたのがベートーベンの天才でした。
そのテーマが単純であるがゆえに、それを様々な音楽的スタイルの中においてみることが可能であり、そのスタイルによってはディアベリのテーマはほとんど姿を消しているように見えながらも、それもまた主題の可能性を最大限に追求した結果であるような音楽になっているのです。
そして、その最後の到達点と若い頃の作品を並べてみれば、ベートーベンという音楽家がその生涯においてどれほど長い距離を歩いたかが分かるのです。
ベートーベンにとって「ピアノ・ソナタ」という形式は常に実験の場であったのですが、「ピアノのための変奏曲」はそれ以上に実験的な場だったのかも知れません。そして、その実験的性格ゆえに、例えば「ハ短調変奏曲」と呼ばれることもある中期の作品などには作品番号を与えなかったのかも知れません。
そう考えれば、ベートーベンのこのジャンルにおける歩みを辿ってみることも意味あることなのかも知れません。
中期の頂点へと駆け上がっていく入り口にあたる作品
ベートーベンによるピアノのための変奏曲としては、この「エロイカ変奏曲」は「ディアベリ変奏曲」と並んで双璧を為す作品です。そして、「ディアベリ変奏曲」の場合は全曲を聴き通そうとすればかなりの忍耐を強いられるのに対して、「エロイカ変奏曲」の方はサイズも手頃ですし、何よりも変奏のテーマが耳になじんでいるだけに親しみが持てます。
そう言う意味では、ベートーベンの変奏の技を味わうにはもっとも手頃な作品だとも言えます。
ただし、この変奏曲の正式な名称は「15の変奏曲とフーガ 変ホ長調 Op. 30」であって、これを「エロイカ変奏曲」と呼ぶのが正しくないのは、作品76の「創作主題による6つの変奏曲」を「トルコ行進曲変奏曲」と呼ぶのが正しくないのと事情は同じです。
それは、作品番号を見ればすぐに了解できることであって、この変奏曲は作品36であって、エロイカ交響曲の方は作品55なのです。後の時代に作られた作品の旋律を使って変奏曲がかけるはずはないのであって、事情はその反対であって、この変奏曲で用いられた主題をエロイカ交響曲で使用して、そしてそれがすっかり有名になったのでこの変奏曲もまた「エロイカ変奏曲」と呼ばれるようになったのです。
ところが、さらに遡ってみればこの主題は初期の「12のコルトダンス(WoO14)」の第7曲に登場していて、さらには作品43の「プロメテウスの創造物」の終曲にも用いられています。ですから、このテーマはベートーベンにとってはよほどのお気に入りだったようで、その極めつけとしてエロイカ交響曲の終楽章にも用いて、それがすっかり有名になったというわけです。
なお、この変奏曲が面白いのはまず冒頭に低声部だけのシンプルきわまる序奏が置かれていて、その低声部だけで変奏が行われることです。こういうやり方で変奏曲が始められるのは非常に珍しいのですが、これもまたベートーベンの実験精神のあらわれです。
そして、その変奏が3回行われた後に初めてテーマが完全な形で登場して、その後はベートーベンの変奏の腕前に聞き惚れるばかりなのです。
そして、もう一つ注目すべき事は、主第の形が次第におぼろげになっていく最後の第15変奏が終わると、その後にフーガ(フーガ風?)のフィナーレが置かれていることです。15の変奏だけでもかなり規模の大きな作品なのですが、フィナーレにこのフーガが配置されることでより規模の大きな堂々たる作品にあっています。
それは、これからは新しい道を進むことを表明した時期の作品であり、ソナタで言えば「テンペスト」を含む作品31の3曲とほぼ同じ気に作られた作品です。その意味では、中期の頂点へと駆け上がっていく入り口にあたる作品だと言えます。
後年のブレンデルと較べれば、はるかに勢いの良さが前に出ている
ブレンデルは1958年と1960年の二度にわたってベートーベンの「ピアノのための変奏曲」をまとめて録音してくれました。
「ピアノのための変奏曲」というのは、ベートーベンのピアノ作品の中では傍流ですから、名のあるピアニストならば取り上げても精々が「ディアベリ変奏曲」か「エロイカ変奏曲」あたりまでです。それが、若い時代の作品番号が与えられていない作品まで触手を伸ばして数多く録音してくれたというのは、「ピアノのための変奏曲」を跡づけてみたいものにとっては有り難い話です。と言うか、実は順序が逆であって、こういう録音が存在していることに気づいたので、跡づけてみる気になったのです。
それにしても、ベートーベンの変奏曲というのは子供達のピアノ発表会などでもよく演奏されるような気がするのですが、ああいうのを聴くとまるでつまらない「練習曲」のように聞こえます。ところが、そう言う作品がブレンデルのようなピアニストの手にかかると魔法の如く別の姿が立ちあらわれるのです。
そう、まさに「魔法のごとき」です。
そして、練習曲風の変奏曲を聴かされてきた頻度が高ければ高いほど、その魔法の力には魅入られるはずです。そう思えば、「練習曲風の変奏曲」を聞かされ続けた労苦も報われるというものです。
ブレンデルの録音活動は「Philips」と強く結びついているのですが、それは1970年からスタートします。
この一連の変奏曲はアメリカの新興レーベルである「Vox」で録音されたものです。調べてみると、ブレンデルの若い頃の録音の大部分はこの「Vox」で行われています。そして、この一連の変奏曲の録音の後に、ブレンデルはこのレーベルでピアノソナタを次々と録音していきます。
つまりは、ブレンデルは「Vox」にとっても重要な位置を占めるピアニストになっていくのであり、そして、その事を踏み台として「Philips」というメジャー・レーベルとの契約にたどり着くのです。
そして、この「Vox」時代の録音を若い頃から順番に聞き続けていくと、最初は一刀彫りのような荒々しさが残っていたものが、次第に丁寧に作品を彫琢していくように変化していくのが分かります。そして、その変化は「変奏曲」のようなジャンルでは、作品の構造が実によく分かるので非常に好ましく思えるのです。
おそらく、「変奏曲」という形式は知的で真面目なピアニストにとってはもっとも相性のよいジャンルなのかも知れません。とは言え、後年のブレンデルと較べれば、はるかに勢いの良さが前に出ていることも事実であり、それもまたそれで魅力的です。
それから、余談ながら、ブレンデルという人は80年代から90年代にかけては、疑いもなく時代を代表するピニストだったのですが、その名前を聞かなくなってから随分と時が経ちます。ですから、すでに鬼籍には入られたのかと思っておられる方も多いかと思うのですが、実は今も存命です。
音楽家というのは、とりわけ指揮者とピアニストは「死ぬまで現役」という人が多いのですが、ブレンデルは珍しくも77歳で現役を引退したのです。2008年12月18日のウィーン・フィルとの公演がラスト・コンサートだったそうです。
そして、その後は教育活動に力を入れることになり、今も元気にレクチャーを行っているようです。
ブレンデルのピアノの特徴を一言で言えば、徹底的に考え抜かれた解釈によって繊細極まる造形を行うことにあります。それ故に、その様な完璧性が保持できなくなった時に、潔く撤退するだけの鋭い自己批判力があったと言うことなのでしょう。
引退した後のブレンデルのレクチャーを聴いた人の話によると、90歳を目前にした今もピアノの腕前はそれほど衰えていないように感じたというのですが、それもまた気楽な聞き手ゆえに言える言葉なのでしょう。
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