バルトーク:弦楽四重奏曲第6番 Sz.114
ハンガリー弦楽四重奏団 1961年6月&9月録音
Bartok:弦楽四重奏曲第6番 Sz.114 「第1楽章」
Bartok:弦楽四重奏曲第6番 Sz.114 「第2楽章」
Bartok:弦楽四重奏曲第6番 Sz.114 「第3楽章」
Bartok:弦楽四重奏曲第6番 Sz.114 「第4楽章」
ベートーベン以降最大の業績
バルトークの弦楽四重奏曲は、この形式による作品としてベートーベン以降最大の業績だといわれています。ところが、「そんなにすごい作品なのか!」と専門家の意見をおしいただいてCD等を買ってきて聞いてみると、思わずのけぞってしまいます。その「のけぞる」というのは作品のあまりの素晴らしさに感激して「のけぞる」のではなくて、作品のあまりの「わからなさ」にのけぞってしまうのです。
音楽を聞くのに、「分かる」「分からない」というのはちょっとおかしな表現ですから、もう少し正確に表現すれば、全く心の襞にふれてこようとしない「異形の姿」に「のけぞって」しまうのです。
とにかく古典派やロマン派の音楽に親しんできた耳にはとんでもなく抵抗感のある音楽です。そこで正直な人は、「こんな訳の分からない音楽を聞いて時間を過ごすほどに人生は短くない」と思ってプレーヤーの停止ボタンを押しますし、もっと正直な人は「こんな作品のどこがベートーベン以降の最大の業績なんだ!専門家の連中は馬鹿には分からないというかもしれないが、そんなの裸の王様だ!!」と叫んだりします。
しかし、作品そのものに関する専門家の意見というのはとりあえずは尊重しておくべきものです。伊達や酔狂で「ベートーベン以降の最大の業績」などという言葉が使えるはずがありません。今の自分にはとてもつき合いきれないけれど、いつかこの作品の真価に気づく日も来るだろう!ということで、とりあえずは買ってきたCDは棚にしまい込んでおきます。
そして、何年かしてからふと棚にバルトークのCDがあることに気づき、さらに「ベートーベン以降の最大の業績」という言葉が再び呪文のようによみがえってくるので、またまた魔が差してプレーヤーにセットすることになります。しかし、残念なことに、やはり何が何だか分かりません。
そんなときに、また別の専門家のこんな言葉が聞こえてきたりします。
「バルトークの弦楽四重奏曲を聴いて微笑みを浮かべることができるのは狂人だけかもしれない。」
「バルトークの弦楽四重奏曲は演奏が終わった後にやってくる無音の瞬間が一番美しい!」
全くもって訳が分からない!
しかし、そんなことを何度も繰り返しているうちに、ふとこの音楽が素直に心の中に入ってくる瞬間を経験します。それは、難しいことなどは何も考えずに、ただ流れてくる音楽に身を浸している時です。
おそらく、すごく疲れていたのでしょう。そんな時に、ロマン派の甘い音楽はかえって疲れを増幅させるような気がするので、そういうものとは全く無縁のバルトークの音楽をかけてみようと思います。ホントにぼんやりとして、全く何も考えずに流れきては流れ去っていく音の連なりに身を浸しています。すると、何気ないちょっとしたフレーズの後ろからバルトークの素顔がのぞいたような気がするのです。
それは、ヨーロッパへの訣別の音楽となった第6番の「メスト(悲しげに)」と題された音楽だけではなく、調性が破棄され、いたるところに不協和な音が鳴り響く3番や4番の作品からも感じ取れます。もちろん、それらの作品からは、「メスト」ではなくて「諧謔」や「哄笑」であったりするのですが、しかし、そういう隙間から戦争の世紀であった20世紀ならではの「悲しみ」の影がよぎったりするのです。
今までは全くとりつくしまのなかった作品の中に、バルトークその人の飾り気のない素顔を発見することで、なんだか「ウォーリーを探せ!」みたいな感じで作品に対峙する手がかりみたいなものを見出したような気がします。
そんなこんなで、聞く回数が増えてくるにつれて、今度はこの作品群に共通する驚くべき凝集力と、「緩み」というものが一瞬たりとも存在しない、「生理的快感」といっていいほどの緊張感に魅せられるようになっていきます。そして、このような緊張感というものは、旋律に「甘さ」が紛れ込んだのでは台無しになってしまうものだと納得する次第です。
また、専門書などを読むと、黄金分割の適用や、第3楽章を中心としたアーチ型のシンメトリカルな形式などについて解説されていて、そのような知識なども持ってバルトークの作品を聞くようになると、流れきては流れ去る音の背後にはかくも大変な技術的な労作があったのかと感心させられ、なるほど、これこそは「ベートーベン以降最大の業績」だと納得させられる次第です。
ざっと、そんなことでもなければ、この作品なじむということは難しいのかもしれません。
ユング君にとってバルトークの音楽は20世紀の音楽を聞き込んでいくための試金石となった作品でした。とりわけ、この6曲からなる弦楽四重奏曲は試金石の中の試金石でした。そして、これらの作品を素直に受け入れられるようになって、ベルクやウェーベルンなどの新ウィーン学派の音楽の素晴らしさも素直に受け入れられるようになりました。
音楽というのは、表面的には人の心にふれるような部分を拒絶しているように見えても、その奥底には必ず心の琴線に触れてくるものを持っているはずです。もし、ある作品が何らかのイデオロギーの実験的営みとして、技術的な興味のみに終始して、その奥底に人の心にふれてくるものを持たないならば、その様な作品は一時は知的興味の関心を引いて評価されることがあったとしても、時代を超えて長く聞き続けられることはないでしょう。なぜならば、知的興味というものは常に新しいものを求めるものであり、さらに新しい実験的試みが為されたならば古いものは二度と省みられることがないからです。
それに対して、一つの時代を生きた人間が、その時代の課題と正面から向き合って、その時代の精神を作品の中に刻みこんだならば、そして新しい技術的試みがその様な精神を作品の中に刻み込むための手段として活用されたならば、その作品の価値は時代を超えて色あせることはないはずです。その刻み込まれた精神が、それまでの伝統的な心のありようとどれほどかけ離れていても、それが時代の鏡としての役割を果たしているならば、それは必ず聞く人の心の中にしみこんでいくはずです。
おそらく、大部分の人はこの作品を拒絶するでしょう。今のあなたの心がこの作品を拒絶しても、それは何の問題ではありません。心が拒絶するものを、これはすぐれた作品だと専門家が言っているからと言って無理して聞き続けるなどと言うことは全く愚かな行為です。
しかし、自分の心が拒絶しているからと言ってそれをずっと拒絶するのはもったいなさすぎます。
人は年を経れば変わります。
時間をおいて、再び作品と対峙すれば、不思議なほどにすんなりとその作品が心の中に入ってくるかもしれませんし、時にはそれが人生におけるかけがえのない作品になるかもしれません。
心には正直でなければいけませんが、また同時に謙虚でもなければいけません。そのことをユング君に教えてくれたのがこの作品でした。
★簡単な作品の概略
○弦楽四重奏曲第6番 Sz.114(1939年作曲1941年初演)
全ての楽章の冒頭に「Mesto(悲しげに)」と表題が附されたこの作品は、ナチスドイツがポーランドになだれ込んで第2次世界大戦の幕が切って落とされた時期に作曲されました。
作品を依頼したのはハンガリー弦楽四重奏団の主宰者であるゾルタン・セーケイです。
バルトークはヨーロッパに戦火が広がるのを眺めながら、1938年の8月からスケッチに着手し、同年の11月に作品を完成させます。その後戦乱の中で作曲活動も思うに任せず、ついには翌年の10月に妻とともにアメリカの亡命することになるので、この作品はバルトークにとってはヨーロッパで作曲された最後の作品となってしまいました。
1938年の10月8日、ヨーロッパを去ることを決意したバルトークは最後のお別れコンサートを開いています。コンサートが終わっても彼をいつも支持し続けた若者たちは会場を去ろうとしなかったと伝えられています。しかし、その数日後にバルトーク夫妻は列車でスイスに向かい、その後フランス、スペイン、ポルトガルと移動して、最後は船でニューヨークに向かいます。
その道すがら、彼は「何度も祖国ハンガリーを振り返った」と語っています。
バルトークの音楽の根っこはいうまでもなく祖国ハンガリーの民謡の中にあります。その様な音楽家が生まれ育った祖国から根無し草の亡命者となることは、創作の源泉を失うことであり、それは痛苦の決断であったと想像されます。
この作品には、その様な痛惜の思いが塗り込められています。
(注:この作品は2005年5月の時点では著作権が消滅していません。この素晴らしい作品をアップできないというのはとても残念なことですが、後しばらく時を待ちましょう。)
マジャールの魂
バルトークの弦楽四重奏曲と言えば、ジュリアードやアルバン・ベルグに代表されるような精緻な音楽作りが定番となっていきました。そして、それはそれで素晴らしい音楽体験を私たちに与えてくれたことは事実です。
しかし、全てがすべて同じような切り口ではつまらないというのも、これまた一つの事実です。
そこで、このハンガリー弦楽四重奏団による演奏です。
よく知られているように、このカルテットの主宰者であるセーケイ・ゾルターンはバルトークとの親交が深く、ヴァイオリン協奏曲第2番や弦楽四重奏曲第6番などを依頼しています。前者の協奏曲はセーケイ自身の手で初演がなされて献呈もされています。弦楽四重奏曲に関しては、ナチスの台頭とそれに伴うヨーロッパの混乱の中でバルトークがアメリカに亡命せざるを得なくなり、結果として初演はセーケイが主宰するハンガリー四重奏団が引き受けることはできませんでしたが、その作品の成立に大きく寄与したことは間違いありません。
バルトークが友人のコダーイとともにハンガリー民謡やルーマニア民謡の収集と分析に力を注いだことはよく知られています。そして、その研究の成果は彼の作品に多大な影響を与えています。
言うまでもないことですが、その影響というのは、彼の作品の中にそのような民謡の旋律が使用されているというような単純なものではありません。そうではなくて、そう言う民謡の中に込められた魂みたいなものを、西洋の伝統的な音楽の中に融合させようとしたのです。それは、民謡独特の和声や旋法、リズムなどを伝統的な西洋音楽の中に取り込んで、彼なりにの新しい音楽を作ろうとしたのです。(うーん、ちょっと短絡的にすぎるかな^^;)
ですから、バルトークという人は、その根っこにおいてスメタナやドヴォルザークみたいな国民楽派の人たちと地下水脈でつながっているのかな、と思ったりもします。
もちろん、彼は基本的には「新しもの好き」な面もありましたので、時にはシェーンベルグの12音音楽にも接近したりしたので、その表面的手触りは随分異なったものになってしまっていますが、その根っこの部分にはマジャールの魂みたいなものがどっかりと腰を据えているような気がします。
最晩年の「管弦楽のための協奏曲」なんかは、そう言う側面が誰の耳のも分かるほどはっきりと刻印されていますよね。
そう言う思いを持ってハンガリー弦楽四重奏団の演奏を聞くと、なるほど、これはスメタナ以降、脈々と受け継がれてきた東欧圏の国民楽派の音楽だと納得させられます。
これを「緩い」ととるか「濃厚」ととるか、それは聞き手の判断でしょう。
しかし、残念ながら、バルトークの弦楽四重奏曲をこんな風に演奏する団体は絶滅してしまいました。誰も彼もが、ジュリアードやアルバン・ベルグをお手本にしてひたすら精緻な造形にしのぎを削る中で、こういう民族の魂をむき出しにしたような演奏は不可能になってしまっています。
全てがすべて同じような切り口ではつまらないというのが一つの事実だとすれば、これもまた貴重な存在価値と言えるのかもしれません。
よせられたコメント
2013-03-31:やもり
- 6曲まとめての感想です。
最初に聴いたときは確かに「緩い」と感じましたが、二度目には「重い」に変わりました。一貫して感じられるのは、一音一音を大切に「熱く」弾いているということです。この辺りが「濃厚」と通じるのかもしれません。
最近は「精緻な音楽作りが定番」とのことですが、そのアルバンベルクも、例えばケラー四重奏団の後で聴くと、凝縮感というか緊張感が足りないように感じます。デジタル録音時代は「精緻」が当たり前で、プラスアルファが必要なのかもしれません。演奏も進歩していると思いたいです。
バルトークの弦楽四重奏は、噛めば噛むほど味が出てきます。対位法などのテクニックが駆使されているのが一因でしょう。素晴らしい曲のアップ、ありがとうございました。
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