チャイコフスキー:白鳥の湖, Op.20 (抜粋)
ユージン・オーマンディ指揮 フィラデルフィア管弦楽団 1961年2月19日録音
Tchaikovsky:Swan Lake, Op.20 [1.Act Scene]
Tchaikovsky:Swan Lake, Op.20 [2.Act Waltz]
Tchaikovsky:Swan Lake, Op.20 [3.Act Pas de trios]
Tchaikovsky:Swan Lake, Op.20 [4.Ac2 Scene]
Tchaikovsky:Swan Lake, Op.20 [5.Ac2 Scene]
Tchaikovsky:Swan Lake, Op.20 [6.Ac2 Dances of the Swans, Coda]
Tchaikovsky:Swan Lake, Op.20 [7.Ac3 Spanish Dance]
Tchaikovsky:Swan Lake, Op.20 [8.Ac3 Hungarian Dance]
Tchaikovsky:Swan Lake, Op.20 [9.Ac3 Czardas]
Tchaikovsky:Swan Lake, Op.20 [10.Ac3 Mazurka]
Tchaikovsky:Swan Lake, Op.20 [11.Ac3 Pas de deux, Variation 1, Coda]
Tchaikovsky:Swan Lake, Op.20 [12.Ac4 Dances of the Little Swans]
Tchaikovsky:Swan Lake, Op.20 [13.Ac4 Final Scene]
初演の大失敗から復活した作品
現在ではバレエの代名詞のようになっているこの作品は、初演の時にはとんでもない大失敗で、その後チャイコフスキーがこのジャンルの作品に取りかかるのに大きな躊躇いを感じさせるほどのトラウマを与えました。
今となっては、その原因に凡庸な指揮者と振り付け師、さらには全盛期を過ぎたプリマ、貧弱きわまる舞台装置などにその原因が求められていますが、作曲者は自らの才能の無さに原因を帰して完全に落ち込んでしまったのです。
今から見れば「なぜに?」と思うのですが、当時のバレエというものはそういうものだったらしいのです。
とにかく大切なのはプリマであり、そのプリマに振り付ける振り付け師が一番偉くて、音楽は「伴奏」の域を出るものではなかったのです。ですから、伴奏音楽の作曲家風情が失敗の原因を踊り手や振り付け師に押しつけるなどと言うことは想像もできなかったのでしょう。
初演の大失敗の後にも、プリマや振り付け師を変更して何度か公演されたようなのですが、結果は芳しくなくて、さらには舞台装置も破損したことがきっかけになって完全にお蔵入りとなってしまいました。
ところが、作曲者の死によって作品の封印が解かれた事によってそんな状況が一変したのは皮肉としかいいようがありません。
「白鳥の湖」を再発見したのは、「眠れる森の美女」や「くるみ割り人形」の振り付けを行ったプティパでした。(くるみ割り人形では稽古に入る直前に倒れてしまいましたが)
おそらく彼は、「眠れる森の美女」や「くるみ割り人形」ですばらしい音楽を書いたチャイコフスキーなのだから、その第1作とも言うべき「白鳥の湖」も悪かろうはずがないと確信していたのでしょう。しかし、作曲自身が思い出したくもない作品だっただけに生前は話題にすることも憚られたのではないでしょうか。
ですから、プティパはチャイコフスキーが亡くなると、すぐにモスクワからほこりにまみれた総譜を取り寄せて子細に検討を始めます。そして、当然のことながら、その素晴らしさを確信したプティパはチャイコフスキーの追悼公演でこの作品を取り上げることを決心します。
追悼公演では台本を一部変更したり、曲順の変更や一部削除も行った上で第2幕のみが上演されました。結果は大好評で、さらに全幕をとおしての公演も熱狂的な喝采でむかえられて、ついに20年近い年月を経て「白鳥の湖」が復活することとなりました。
この後のことは言うまでもありません。
この作品は19世紀のロシア・バレエを代表する大傑作と言うにとどまらず、バレエ芸術というもののあり方根底から覆すような作品になった・・・らしいのです。(バレエにはクライのであまり知ったかぶりはやめておきます。)
ただ、踊りのみが主役で、音楽はその踊りに対する伴奏にしかすぎなかった従来のバレエのあり方を変えたことだけは間違いありません。
<お話のあらすじ>
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
序奏
オデットが花畑で花を摘んでいると悪魔ロッドバルトが現れ白鳥に変えてしまう。
第1幕 :王宮の前庭
今日はジークフリート王子の21歳の誕生日。お城の前庭には王子の友人が集まり祝福の踊りを踊っている。そこへ王子の母が現われ、明日の王宮の舞踏会で花嫁を選ぶように言われる。まだ結婚したくない王子は物思いにふけり友人達と共に白鳥が住む湖へ狩りに向かう。
第2幕 :静かな湖のほとり
白鳥たちが泳いでいるところへ月の光が出ると、たちまち娘たちの姿に変わっていった。その中でひときわ美しいオデット姫に王子は惹きつけられる。彼女は夜だけ人間の姿に戻ることができ、この呪いを解くただ一つの方法は、まだ誰も愛したことのない男性に愛を誓ってもらうこと。それを知った王子は明日の舞踏会に来るようオデットに言う。
第3幕 :王宮の舞踏会
世界各国の踊りが繰り広げられているところへ、悪魔の娘オディールが現われる。王子は彼女を花嫁として選ぶが、それは悪魔が魔法を使ってオデットのように似せていた者であり、その様子を見ていたオデットの仲間の白鳥は、王子の偽りをオデットに伝えるため湖へ走り去る。悪魔に騙されたことに気づいた王子は嘆き、急いでオデットのもとへ向かう。
第4幕 :もとの湖のほとり
破られた愛の誓いを嘆くオデットに王子は許しを請う。そこへ現われた悪魔に王子はかなわぬまでもと跳びかかった。激しい戦いの末、王子は悪魔を討ち破るが、白鳥たちの呪いは解けない。絶望した王子とオデットは湖に身を投げて来世で結ばれる。
『ウィキペディア(Wikipedia)』よりの引用終わり
私などは問題を感じないのですが、どうも世の女性達にはこの「エンディング」がいたって評判が悪いようです。
実は、妻と「白鳥の湖」を見に行ったときに、彼女はこのエンディングをはじめて知って「激怒」されました。「男というのはいつもこんな身勝手な奴ばかりだ!」とその怒りはなかなか静まりませんでした。
私などはこれで身勝手だと言われれば、ワーグナーの楽劇などを見た日にはライフルでも撃ち込みたくなるのではないかと懸念してしまいます。
ただし、ポピュラリティが全く違いますし、「白鳥の湖」の公演ともなれば女性が圧倒的に多いのです。
と言うことで、劇場側もこのストーリーは営業上まずいと思ったのでしょう。エンディングで悪魔の呪いがとけて二人は結ばれて永遠の愛を誓ってハッピーエンドで終わる演出もメッセレル版(1937年)以降よく用いられるようになっているそうです。
この変更は物語の基本構造に関わることなので、そんなに安易に変更していいものかと思うのですが、女性達の怒りにはさからえないと言うことなのでしょう。(当然のことながら、原典版のエンディングが許せないと怒っている男性には未だ私は出会ったことがありません。)
まずはお聞き遊ばせ
ジョン・ウィリアムズの作品がウィーン・フィルによって取り上げられたと言うことが少しばかり世間で話題になっているようです。レコード会社が宣伝しているように「歴史的なコンサート」かどうかは分かりませんが多少は興味をひかれたのでテレビで放送があったので見てみました。
率直に言って、そこで聞くことのできた音楽はどこか「薄さ」みたいなものを常に身にまとっていました。
ただし、ジョン・ウィリアムズがロンドン響やボストン・ポップス・オーケストラを指揮した録音と比較してみれば、その「薄さ」みたいなものは大幅に回避されていたことは事実です。
そして、その「薄さ」は決して否定的な意味を持つものでないことにも気づかされました。
考えてみれば、映画音楽というのは音楽だけで自立するものではありません。
より強くいえば音楽として自立してはいけない存在です。
何故ならば、それは常に映像と合わさることによって一つの世界として完結することが求められるのであって、音楽だけが前面に出て強く自己主張をし始めるのは決して誉められた話ではないのです。
しかし、今回のウィーン・フィルとのコンサートでは映像が伴いませんから(テレビ放送では部分的に伴っていましたが)、そう言う背景は無視をして「音楽」だけの作品として演奏しきっていました。それだけに、今までにない魅力を感じたのですが、それでもどこか「薄さ」を完全に払拭できていなかったことも事実です。
しかし、それは決してジョン・ウィリアムズの才能に責を負うものではなくて、それが映画音楽というものが持たざるを得ない宿命みたいなものなのでしょう。
そして、それと似たようなことがバレエ音楽にも言えることに気づかされました。
それもまた、舞台との融合によって成り立つ音楽であり、さらに言えば、その比重はより舞台上で踊りを披露するダンサーの方に重きがおかれれるからです。
それだけに、舞台を伴わずに音楽だけでバレエ音楽を聞かされると、それもまた色々な意味で「薄さ」を感じてしまいます。しかし、そんなバレエ音楽の中でその手の「薄さ」からもっとも縁遠いのがチャイコフスキーでしょう。
そして、それでもなお残る「薄さ」を徹底的に排除して華麗に美しく演奏して見せたのが、このオーマンディとフィラデルフィア管による録音です。
オーマンディは通常の組曲版は使わずに、より多くの音楽を取り込んでいるので録音クレジットとしては「ハイライト版」と記されています。そして、世間的にはこの「ハイライト版」というのはどうも低く見られる傾向があります。いや、もっと積極的に「否定的」な態度を取る人も少なくありません。
しかし、これは考えてみれば不思議な話で、組曲版はそう言うハイライト版よりもさらに曲数を減らしているにもかかわらず、そちらの方は「全曲版」に準ずる正規な作品として受け入れられるのです。
ところが、演奏者が全曲版からより全体像が把握しやすいようにより多くの作品を選び出して演奏すると「ハイライト版」と呼ばれて中途半端な存在として軽視され否定されるのです。
その背景には、組曲版は作曲家自身によってセレクトされたという錦の御旗があり、その錦の御旗が原典尊重が何よりも大切にされる時代にあっては絶対的な意味を持つからでしょう。
しかしながら、チャイコフスキーの場合で言えば、作曲家自身が実際に組曲版に編集したのは「くるみ割り人形」だけです。
それもまた自作によるコンサートが目前に控えているにもかかわらず手元に新作がなかったので、急遽作曲中の「くるみ割り人形」から8曲を抜き出して演奏会用組曲にするという、些か不純な動機に基づくものでした。
また「眠れる森の美女」に関しては、アレクサンドル・ジロティがチャイコフスキーに提案をして、その了承の元にジロティが編集したものです。
さらに、「白鳥の湖」に至っては、「出来が良いものと考えた曲を選んで組曲を作る」という手紙をチャイコフスキーからもらっていたと言うことを根拠に、全くの別人がチャイコフスキーの死後に勝手に編集したものでした。そして、その編集にあたってチャイコフスキーの意志が反映していた可能性は限りなく低いというのが現代の定説です。
ですから、オーマンディのように、演奏する側が全曲版の魅力を伝えるために、自らの判断で選曲するのは決して悪い話ではないのです。
例えば、チャイコフスキーお墨付きの「くるみ割り人形」であっても、私はいつも「花のワルツ」の後に「Pas de deux」が入っていないことが大いに不満でした。嬉しかったのは、あのムラヴィンスキーも同じ事を考えていたのか、彼が録音した「くるみ割り人形」の組曲には「Pas de deux」が追加されていました。
よって、個人的にはその一事だけでも、このオーマンディ版の方を歓迎します。
さらに付け加えれば、舞台を伴わない音楽だけでバレエ音楽を全曲聞き通すというのはかなりの忍耐力を必要とします。とりわけ、オペラなどでも同じ事が言えるのですが、実際の舞台を一度も見たことがない場合はほとんど「苦行」にちかくなります。
さらに言えば、「眠れる森の美女」に至っては短縮版で2時間、カットなしでやれば3時間も要します。
それを音楽だけで聞き通すのはあまりやりたい経験ではありません。
その意味では、選択する曲数を巧みに増やして、「ハイライト版」と言うよりは全曲の「短縮版」のように仕上げたオーマンディのやり方は十分に肯定されるべきものでしょう。
そう言えば、「眠れる森の美女」に関しては上演時間があまりにも長くなるので、これをバッサリと短縮して「オーロラ姫の結婚」というタイトルにして上演したディアギレフのような人もいました。
オーマンディもまた、そう言うディアギレフ的なエンターテイメント性を強くもっていた人なのです。しかしながら、どうにもこうにもそう言う方向性はこの島国ではあまり評価されないのです。
しかしながら、眉間に皺を寄せて聞くだけがクラシック音楽ではないのですから、「ハイライト版」というクレジットだけでスルーすることだけはないように、切にお願いします。
まずはお聞き遊ばせ・・・です。
よせられたコメント 2021-01-14:コタロー クラシック音楽を聴き始めたころの私にとって、ジョージ・セルがオーケストラの何たるかを教えてくれた指揮者だとすれば、純粋にオーケストラを聴く楽しさを教えてくれた指揮者がユージン・オーマンディであるといえるでしょう。
そういう意味で、この2人の指揮者は、自分がクラシック音楽に関わってきた過程で、欠かすことのできない恩人といえます(偶然ですが、ともにハンガリー出身ですね)。
オーマンディの「白鳥の湖」では、とりわけ第4幕の「小さな白鳥たちの踊り」など、何とも言えない哀愁を感じさせて印象深いです(これは組曲版には入らない曲ですね)。
なお、「白鳥の湖」のハイライト版では、ピエール・モントゥー指揮ロンドン交響楽団のものが選曲も妥当で、演奏にもエレガンスが感じられて、私の中では高評価です。 2021-01-14:yk バレー音楽をクラッシックの中でどのように位置づけるのか・・・と言うのは人によるのでしょうね。バレー音楽と言うのはyungさんも指摘するように当然「(踊りの)舞台との融合によって成り立つ音楽」であり、バレー無しの音楽だけで聴くと言うのは作曲の本来の目的から外れた変則的な・・・恐らく何らかの要素の欠落した・・・状況には違いありません。
私は、バレー音楽を・・・特にチャイコフスキー・・・を愛するモノですが、それでも「白鳥の湖」の音楽をその舞台(及び物語)と切り離して聴いているか・・・と言うと(恐らく)ソウではなくて何らかの形で舞台を頭で思い浮かべ物語を追いながら聴いている。そのバレーの舞台と言うのは勿論バレリーナたちの洗練され研ぎ澄まされた”舞踏芸術”を楽しむものに違いありませんが、同時に何といっても視覚的に美しいバレリーナがいてこその舞台であり、そこには所謂”脂粉の香り”漂う艶やかさ、バレリーナに憧れる女の子たちの憧れの吐息、必ずしも”高尚”だけとも言えないスノッブも入り混じった男性ファンの熱い視線、etc. etc. の入り混じった独特の雰囲気をもったもので、それは同じクラッシックの範疇の舞台芸術であるオペラの舞台とも大きく異なるところがある。おそらくyungさんが言うバレー音楽の”薄さ”はバレーのそう言った雰囲気とも不可分なものなのだと思いますが、逆に言えばそう言ったバレーの舞台・劇場の雰囲気の薄い演奏はバレー音楽としてはその魅力が半減するようにも(私には)感じられところがあります。その意味では、オーマンディの演奏はいかにも彼らしい鮮やかなものですが、どこか物足りないところもある演奏でした(もっとも、オーマンディ自身はバレー音楽に纏わりつく”脂粉の香”など余計なものとして意図的に排除した・・・・と言うことのようにも思いますが・・・)。 2021-02-12:谷村 私のクラ初心者の頃の愛聴盤は、モントゥー指揮の当曲のハイライト版でした
最後まで聞き進んで、フィナーレが鳴り響いた時の興奮を期待して聞いていた様な感じでした。いわれる通り、組曲版には、このフィナーレが入ってなくて、"えー?"てなもんでした。
モントゥーを近年聞いていません、フリーになっているハズですからお願いしますね。
ついでながら、このフィナーレは、スターウォーズ(最初の)のそれと双璧と思ってます。
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