ヘンデル:組曲「王宮の花火の音楽」, HWV 35
ルドルフ・ケンペ指揮 バンベルク交響楽団 1962年5月録音
Handel:Music for the Royal Fireworks, HWV 35 [1.Ouverture: Adagio, Allegro, Lentement, Allegro]
Handel:Music for the Royal Fireworks, HWV 35 [2.Bourree]
Handel:Music for the Royal Fireworks, HWV 35 [3.La Paix: Largo alla siciliana]
Handel:Music for the Royal Fireworks, HWV 35 [4.La Rejouissance: Allegro]
Handel:Music for the Royal Fireworks, HWV 35 [5.Menuets 1]
Handel:Music for the Royal Fireworks, HWV 35 [6.Menuets 2]
機会音楽
「水上の音楽」は名前の通り、イギリス国王の船遊びのために、そして「王宮の花火の音楽」は祝典の花火大会のために作曲された音楽だと言われています。
クラシック音楽の世界では、こういう音楽は「機会音楽」と呼ばれます。
機会音楽とは、演奏会のために作曲されるのではなく、何かの行事のために作曲される音楽のことをいいます。
それは純粋に音楽を楽しむ目的のために作られるのではなく、それが作られるきっかけとなった行事を華やかに彩ることが目的となります。ですから、一般的には演奏会のための音楽と比べると一段低く見られる傾向があります。
しかしながら、例え機会音楽であっても、その創作のきっかけが何であれ、出来上がった作品が素晴らしい音楽になることはあります。
その一番の好例は、結婚式のパーティー用に作曲されたモーツァルトのハフナー交響曲でしょうか。
そして、このヘンデルの2つの音楽も、典型的な機会音楽でありながら、今やヘンデルの管弦楽作品を代表する音楽としての地位を占めています。
機会音楽というのは、顧客のニーズにあわせて作られるわけですから、独りよがりな音楽になることはありません。
世間一般では、作曲家の内なる衝動から生み出された音楽の方が高く見られる傾向があるのですが、大部分の凡庸な作曲にあっては、そのような内的衝動に基づいた音楽というのは聞くに堪えない代物でなることが少なくありません。
それに対して、モーツァルトやヘンデルのような優れた才能の手にかかると、顧客のニーズに合わせながら、音楽はそのニーズを超えた高みへと駆け上がっていくのです。
そして、こんな事を書いていてふと気づいたのですが、例えばバッハの教会カンタータなどは究極の機会音楽だったのかもしれません。
バッハが、あのようなカンタータを書き続けたのは、決して彼の内的な宗教的衝動にもとづくのではなく、それはあくまでも教会からの要望にもとづくものであり、その要望に応えるのが彼の職務であったからです。
そう考えれば、バッハの時代から、おそらくはベートーベンの時代までは音楽は全て基本的に機会音楽だったのかもしれません。
些細なことにはこだわらない「劇場の人」としての側面が前面に出た演奏
ルドルフ・ケンペと言う指揮者の立ち位置というのはかなり微妙かもしれません。
今となっては堅実で手堅い演奏を行った中堅の指揮者と言うことになるのでしょうが、それでもその記憶はかなり薄れています。しかし、薄れながらもその記憶が消えてしまわないのは、70年代に「ドイツ本流の偉大なマエストロ」として大いに持て囃された過去を持っているからです。
ただし、そうやって持て囃されたのは日本だけだったと言うあたりがいかにも怪しい存在なのです。(^^;
この極東の島国では、ある演奏家に突如注目が集まるきっかけというのは「来日公演」というのが通り相場です。どれほどレコードで親しんでいようと実演に勝るものはなく、その実演がレコードで聞いていたときとは別次元の凄さだった日には一気に評価が上がるというものなのです。
その典型例がジョージ・セルでしょう。
私の中の典型はクラウス・テンシュテットでした。
もちろんその逆もあるのであって、来日公演のあまりの酷さゆえに一気に評価を下げるというパターンもあって、その典型はエルネスト・アンセルメでしょうか。
私の中での典型はリッカルド・シャイーです。
ところが、このルドルフ・ケンペの場合は病弱だったこともあったのか、結局は一度も来日していないのです。
にも関わらず不思議な形で評価が上がっていき、さらには、その上がっていく最中の60代半ばにしてこの世を去ってしまい、それが切っ掛けとなってさらに評価が加熱していったのです。
こういう日本だけの不思議な現象が起こると、「だから日本人は駄目なんだよ」という論調になって終わることが多いのですが、私は日本のクラシック音楽ファンの目利きはそれほど馬鹿にしたものではないと思っています。
レコード会社の仕掛けがあったとしても、その音楽を熱心に受け容れたという背景には、彼の音楽のどこかに日本人の琴線に触れる「何か」があったと見た方がいいのです。
そして、気づくのが、若い頃のケンペが大きな歌劇場でのポジションを歴任していたという経歴です。
1950年にはドレスデン国立歌劇場の音楽監督、1952年からはショルティの後任としてバイエルン国立歌劇場の音楽監督をつとめています。そして、1954年からはメトロポリタン歌劇場を主要な活動場所としているのです。
常々思うのは、このように劇場での経験が長い人というのは語り口が上手いと言うことです。そして、音楽を聞いての「楽しさ」というものを大切にすると言うことです。
それとは逆に、いわゆるコンサート指揮者というのは「つまらなく演奏」した方が偉く見えるという雰囲気があります。言い過ぎかな?(^^;
しかし、そう言う「つまらなくて」「難しげ」な音楽をウンウン言いながら聞いている方が偉く思えてくると言う「自虐」的な人が多いことも事実なのです。
しかし、演奏会であれ、レコードであれ、どうせお金を払って音楽を聞くのならば「楽しい」方がいいに決まっているのです。
そう言う意味で言えば、このケンペと言う指揮者はそう言う楽しく音楽を聞かせる術には長けていると言えそうなのです。そして、日本人というのは、聞く人の情にストレートに語りかけてくる音楽には機敏に反応するところがあるように思われるのです。
例えば、ここで紹介しているヘンデルやバッハというのは彼のレパートリーの中では周辺部にあるものなのでしょうが、実に楽しく聞かせてくれます。
面白いと思うのは、バッハの管弦楽組曲の冒頭部分などは金管が突出していて、どう考えてもバランスが悪いのです。
普通ならば録りなおすところなのでしょうが、ケンペは音楽の流れの中でその不都合を少しずつ修正して、序曲が終わる頃にはバランスを整えているのです。
そして、劇場的に言えばそれで事は足りているのであって、そう言う「些細」な不都合ゆえに音楽全体の流れを損なってまで切り貼りする必要は感じなかったのでしょう。
バッハの管弦楽組曲は1950年代のモノラル録音ですから牧歌的と言えば牧歌的な時代だったのです。
さすがに1962年に録音したヘンデルの「王宮の花火の音楽」ではそんな不都合はありません。しかし、音楽全体の勢いとそれによってもたらされる面白さを優先して、細部の明晰さに関してはそれほど重要視していないことは似たような雰囲気です。
そして、そう言う細部の明晰さとは響きの透明感にも留意を払うようになったのは、いわゆるコンサート・オーケストラの音楽監督に就任したことが契機となったように思えるのです。
例えば、晩年にドレスデンのオケと録音したリヒャルト・シュトラウスの管弦楽曲などでは、そのあたりのバランスが非常によくなっているように思えてるのです。
そして、そう言う変化を機敏に感じとったがゆえに日本のリスナーは彼への評価を高めたのかもしれません。
しかしながら、その様にして、まさにもう一つ高い次元へと移り変わっていく最中にケンペはこの世を去ってしまったわけです。
残念と言えば残念な話ではあったのですが、それでもこういう些細なことにはあまりこだわっていなかった「劇場の人」としての側面が前面に出た演奏も悪いものではありません。
何でもかんでも年のせいにしてはいけないのですが、それでも年を重ねると、こういうザックリとした音楽が好ましく思えてしまうのです。
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