シューベルト:交響曲 第5番 変ロ長調 D485
ゲオルク・ショルティ指揮 イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団 1958年5月録音
Schubert:Symphony No.5 in B-flat major, D.485 [1.Allegro]
Schubert:Symphony No.5 in B-flat major, D.485 [2.Andante con moto]
Schubert:Symphony No.5 in B-flat major, D.485 [3.Menuetto. Allegro molto - Trio]
Schubert:Symphony No.5 in B-flat major, D.485 [4.Allegro Vivace]
簡潔に仕上げられた音楽からは、急速に洗練さを深めていくシューベルトの成長を窺うことが出来る
シューベルト:交響曲 第5番 変ロ長調 D485
両端楽章はハイドン的な簡潔なソナタ形式であり、その簡潔に仕上げられた音楽からは、急速に洗練さを深めていくシューベルトの成長を窺うことが出来ます。そして、その間に挟まれた二つの楽章からは歌う人としてのシューベルトの美質が刻み込まれています。
第1楽章: Allegro
今までとは違って序奏部はもたず、変わりに4小節から鳴る短い導入部が第1主題を導き出します。
ハイドン風のきわめて簡潔なソナタ形式なのですが、その簡潔さの中にシューベルトの作曲技法の向上がはっきりと感じとることが出来ます。
第2楽章: Andante con moto
「歌う人」シューベルトの素晴らしさがいかんなく発揮された音楽になっています。AB二つの部分からな成り立っていて、一つはゆったりとした歌であり、もう一つは32分音符の細かい動きにのったメランコリックな主題です。
特にメランコリックな歌は絶妙な転調によって、それは未完成の第2楽章を予告する音楽になっています。
第3楽章: Menuetto. allegro molto-trio
このト短調で書かれたメヌエットからモーツァルトのト短調シンフォニーのメヌエットを思い出すのは容易でしょう。
ただし、トリオのゆったりとした歌こそはまさにシューベルトそのものではあるのですが。
第4楽章: Allegro vivace
最後は簡潔なソナタ形式によるハイドン的フィナーレとなっています。
初期シンフォニーの概要
シューベルトの音楽家としての出発点はコンヴィクト(寄宿制神学校)の学生オーケストラでした。彼は、そのオーケストラで最初は雑用係として、次いで第2ヴァイオリン奏者として、最後は指揮者を兼ねるコンサートマスターとして活動しました。
この中で最も重要だったのは「雑用係」としての仕事だったようで、彼は毎日のようにオーケストラで演奏するパート譜を筆写していたようです。
当時の多様な音楽家の作品を書き写すことは、この多感な少年に多くのものを与えたことは疑いがありません。
ですから、コンヴィクト(寄宿制神学校)を卒業した後に完成させた「D.82」のニ長調交響曲はハイドンやモーツァルト、ベートーベンから学んだものがつぎ込まれていて、十分に完成度の高い作品になっています。そして、その作品はコンヴィクト(寄宿制神学校)からの訣別として、そこのオーケストラで初演された可能性が示唆されていますが詳しいことは分かりません。
彼は、その後、兵役を逃れるために師範学校に進み、やがて自立の道を探るために補助教員として働きはじめます。
しかし、この仕事は教えることが苦手なシューベルトにとっては負担が大きく、何よりも作曲に最も適した午前の時間を奪われることが彼に苦痛を与えました。
その様な中でも、「D.125」の「交響曲第2番 変ロ長調」と「D.200」の「交響曲第3番 ニ長調」が生み出されます。
ただし、これらの作品は、すでにコンヴィクト(寄宿制神学校)の学生オーケストラとの関係は途切れていたので、おそらくは、シューベルトの身近な演奏団体を前提として作曲された作品だと思われます。
この身近な演奏団体というのは、シューベルト家の弦楽四重奏の練習から発展していった素人楽団だと考えられているのですが、果たしてこの二つの交響曲を演奏できるだけの規模があったのかは疑問視されています。
第2番の変ロ調交響曲についてはもしかしたらコンヴィクトの学生オーケストラで、第3番のニ長調交響曲はシューベルトと関係のあったウィーンのアマチュアオーケストラで演奏された可能性が指摘されているのですが、確たる事は分かっていません。
両方とも、公式に公開の場で初演されたのはシューベルトの死から半世紀ほどたった19世紀中葉です。
作品的には、モーツァルトやベートーベンを模倣しながらも、そこにシューベルトらしい独自性を盛り込もうと試行錯誤している様子がうかがえます。
そして、この二つの交響曲に続いて、その翌年(1816年)にも、対のように二つのシンフォニーが生み出されます。
この対のように生み出された4番と5番の交響曲は、身内のための作品と言う点ではその前の二つの交響曲と同じなのですが、次第にプロの作曲家として自立していこうとするシューベルトの意気込みのようなものも感じ取れる作品になってきています。
第4番には「悲劇的」というタイトルが付けられているのですが、これはシューベルト自身が付けたものです。
しかし、この作品を書いたとき、シューベルトはいまだ19歳の青年でしたから、それほど深く受け取る必要はないでしょう。
おそらく、シューベルト自身はベートーベンのような劇的な音楽を目指したものと思われ、実際、最終楽章では、彼の初期シンフォニーの中では飛び抜けたドラマ性が感じられます。
しかし、作品全体としては、シューベルトらしいと言えば叱られるでしょうが、歌謡性が前面に出た音楽になっています。
また、第5番の交響曲では、以前のものと比べるとよりシンプルでまとまりのよい作品になっていることに気づかされます。
もちろん、形式が交響曲であっても、それはベートーベンの業績を引き継ぐような作品でないことは明らかです。
しかし、それでも次第次第に作曲家としての腕を上げつつあることをはっきりと感じ取れる作品となっています。
シューベルトの初期シンフォニーを続けて聞いていくというのはそれほど楽しい経験とはいえないのですが、それでもこうやって時系列にそって聞いていくと、少しずつステップアップしていく若者の気概がはっきりと感じとることが出来ます。
この二つの作品を完成させた頃に、シューベルトはイヤでイヤで仕方なかった教員生活に見切りをつけて、プロの作曲家を目指してのフリーター生活に(もう少しエレガントに表現すれば「ボヘミアン生活」)に突入していきます。
そして、これに続く第6番の交響曲は、シューベルト自身が「大交響曲ハ長調」のタイトルを付け、私的な素人楽団による演奏だけでなく公開の場での演奏も行われたと言うことから、プロの作曲家をめざすシューベルトの意気込みが伝わってくる作品となっています。
また、この交響曲は当時のウィーンを席巻したロッシーニの影響を自分なりに吸収して創作されたという意味でも、さらなる技量の高まりを感じさせる作品となっています。
その意味では、対のように作曲された二つのセット、2番と3番、4番と5番の交響曲、さらには教員の仕事を投げ捨てて夢を本格的に追いかけ始めた頃に作曲された第6番の交響曲には、夢を追い続けたシューベルトの青春の色々な意味においてその苦闘が刻み込まれた作品だったといえます。
弦楽器を主力に演奏できる作品を選択した賢さ
いろいろとあったイスラエルフィルとの初録音だったのですが、「Decca」はその翌年からも録音を継続します。その背景には経営陣の一人であるローゼンガルテンの強い意向が働いていたことは言うまでもありません。そして、ショルティもまたこの1958年の録音に駆り出されるのです。
ショルティの人生を変えたのは1958年9月に行われた「ラインの黄金」の録音でした。そのレコードは想像もしなかったような売れ行きを見せて「Decca」にとっても多大な利益をもたらしたからです。ただし、その記録的な売り上げは何らかの僥倖に恵まれたためであって、続けて「ワルキューレ」以降を録音しても上手くいかないだろうというのが経営陣の判断だったとカルショーは嘆いています。
とは言え、ショルティにとってはその成功によって「駆け出しの若手」という立場から「レーベルの屋台骨を支える指揮者」へと階段を駆け上がったことは事実でした。
ですから、この同じ年の5月に行われたイスラエルでの録音は、若手指揮者としての最後のしんどい仕事だったのかもしれません。
ただし、ショルティもカルショーも前年の経験は無駄にしていなかったようで、58年に計画された録音は以下の通りでした。
メンデルスゾーン:交響曲第4番 イ長調 作品90 「イタリア」
シューベルト:交響曲 第5番 変ロ長調 D485
モーツァルト:セレナード第13番ト長調 K.525 「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」
なるほど、録音プログラムとはこのようにして決めるのものかという、見本のような選択です。
「Decca」というレーベルは録音のクオリティが売りでしたから、録音会場の選択に関しては非常にシビアでした。しかし、イスラエルに出向いて録音しなければいけないこのセッションでは、そう言う「Decca」の基準を満たすような会場は何処を差がしてもなかったのです。さらに言えば、イスラエルフィル自体もロンドンやウィーンのオケと較べれば問題の多いオーケストラでした。とりわけ問題だったのは金管の弱さでした。
ただし、弦楽器の素晴らしさは今も昔も変わらぬこのオケの美質でもありました。
ならばどうするか!
答えは簡単で、レーベルのカタログとの関係で録音する必要のあるプログラムの中から、出来る限り弦楽器主体で演奏できる作品を選べばいいのです。
メンデルスゾーンの「イタリア」ならばホルンとトランペットがそれぞれ2名必要ですが、表に出てくるのは第3楽章中間部のホルンくらいでしょうか。もっとも、表に出てこないからどうでもいいと言うことではないのですが、縁の下の力持ちくらいの仕事ならばやれるだろうということなのでしょう。
シューベルトの5番ならば金管はホルンの2名あれば足りますし、モーツァルト場合は弦楽合奏だけで事が足ります。
つまりは、イスラエルフィルが持っている問題点が出来る限り顕在化しないように、そしてイスラエルフィルが持っている美質が最大限に引き出せるような演目を選んでいるのです。
実にクレバーです!!
そして、カルショーはこのイスラエルフィルとの数年にわたる共同作業は結果として大きな成果をもたらすことはなかったと総括しているのですが、いやいやどうして、ここでのメンデルスゾーンやシューベルトは決して悪い演奏とは思えません。
とりわけ、第2楽章の「Andante con moto」(メンデルスゾーンもシューベルもともに第2楽章は「Andante con moto」だ!!)からは、青々と広がる草原を吹き渡っていく爽やかな風を思い出させてくれます。確かに、これこそはただの「Andante」ではなくて「Andante con moto」です。
ショルティと言えば、「イタリア」の第1楽章「Allegro vivace」のようにグイグイと強引に引っ張っていくイメージがあります。それがさらに「Piu animato poco a poco」というように煽り立てていくことが要求されればその強面の姿はさらにあからさまになっていきます。
しかし、そう言う姿と同時にこのように爽やかに清潔感の溢れる歌を紡いでいくのもショルティのもう一つの得意技でもあるようなのです。
ただし、モーツァルトにおいてもそれらと同じようなアプローチで迫っているのですが、個人的にはあまり上手く言っていないような気はします。おそらく、メンデルスゾーンやシューベルトというのは純粋器楽の世界であり、それ故に一音も蔑ろにすることなく精緻に構成していけば自ずからその姿が明らかになっていくのでしょうが、モーツァルトというのはどうもそう言うやり方だけでは取りこぼしてしまう部分があるようなのです。
そして、そう言う辺りに、トスカニーニからセルやライナーにつながっていく系譜にショルティをおいたときに、なんだか上手くつながらないなと思ってしまう要因があるのかもしれません。
意外と思う人もいるかもしれませんが、セルの音楽を長年にわたって聞き続けてきた身からすれば、彼の音楽の根っこには世紀末ウィーンの匂いがしみついています。つまりは、セルというのは外面的にはニコリともしない「笑わん殿下」のような姿を見せながら、その内実はとんでもないロンティストなのです。
ただし、そのロマン主義はともすれば荒れ狂う牛の角のようなもので、それを自由にさせれば音楽を傷つけてしまうことを知っていたのです。ですから、セルという男は常にザッハリヒカイトという綱を己に括りつけて音楽を傷つけないように律し続けたのです。
ただし、セルにしてもライナーにしても賢いなと思うのは、そうやって律し続けても、決して角を矯めて牛を殺すような愚かなことにはしなかったことです。彼らは、荒れ狂う角の暴力を最後まで体の奥に抱え込んでいたのです。
それと比べると、オケを強引にドライブしていくショルティからは「荒れ狂う角の暴力」は感じられないのです。
誰かが、ショルティの演奏を評して「感心はするけれども感動はしない」と言っていたのは、そう言う荒れ狂う角の暴力がそこには存在しないからかもしれません。
もしかしたら、ショルティの内面にあったのはロン万主義ではなくて、実用主義だったのかもしれません。彼にとってのザッハリヒカイトとは、オケの響きとバランスを整えて一定以上のレベルを実現するためにもっとも効率的で有用なイデオロギーだったのかもしれません。
もっとも、その辺りはもう少しよく考えてみる必要があるのですが、それでも実用主義が強く要求するのが「行動」であることを考えれば、ショルティがその晩年までこの上もなくアクティブだったことの理由も見えてくるような気がします。
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