チャイコフスキー:交響曲 第6番 ロ短調 作品74「悲愴(Pathetique)」
シャルル・ミュンシュ指揮 ボストン交響楽団 1962年5月12日録音
Tchaikovsky:Symphony No.6 in B minor, Op.74 "Pathetique" [1.Adagio - Allegro non troppo]
Tchaikovsky:Symphony No.6 in B minor, Op.74 "Pathetique" [2.Allegro con grazia]
Tchaikovsky:Symphony No.6 in B minor, Op.74 "Pathetique" [3.Allegro molto vivace]
Tchaikovsky:Symphony No.6 in B minor, Op.74 "Pathetique" [4.Adagio lamentoso]
私は旅行中に頭の中でこれを作曲しながら幾度となく泣いた。
チャイコフスキーの後期の交響曲は全て「標題音楽」であって「絶対音楽」ではないとよく言われます。それは、根底に何らかの文学的なプログラムがあって、それに従って作曲されたというわけです。
もちろん、このプログラムに関してはチャイコフスキー自身もいろいろなところでふれていますし、4番のようにパトロンであるメック夫人に対して懇切丁寧にそれを解説しているものもあります。
しかし6番に関しては「プログラムはあることはあるが、公表することは希望しない」と語っています。弟のモデストも、この6番のプログラムに関する問い合わせに「彼はその秘密を墓場に持っていってしまった。」と語っていますから、あれこれの詮索は無意味なように思うのですが、いろんな人が想像をたくましくしてあれこれと語っています。
ただ、いつも思うのですが、何のプログラムも存在しない、純粋な音響の運動体でしかないような音楽などと言うのは存在するのでしょうか。いわゆる「前衛」という愚かな試みの中には存在するのでしょうが、私はああいう存在は「音楽」の名に値しないものだと信じています。人の心の琴線にふれてくるような、音楽としての最低限の資質を維持しているもののなかで、何のプログラムも存在しないと言うような作品は存在するのでしょうか。
例えば、ブラームスの交響曲をとりあげて、あれを「標題音楽」だと言う人はいないでしょう。では、あの作品は何のプログラムも存在しない純粋で絶対的な音響の運動体なのでしょうか?私は音楽を聞くことによって何らかのイメージや感情が呼び覚まされるのは、それらの作品の根底に潜むプログラムに触発されるからだと思うのですがいかがなものでしょうか。
もちろんここで言っているプログラムというのは「何らかの物語」があって、それを音でなぞっているというようなレベルの話ではありません。時々いますね。「ここは小川のせせらぎをあらわしているんですよ。次のところは田舎に着いたうれしい感情の表現ですね。」というお気楽モードの解説が・・・(^^;(R.シュトラウスの一連の交響詩みたいな、そういうレベルでの優れものはあることにはありますが。あれはあれで凄いです!!!)
私は、チャイコフスキーは創作にかかわって他の人よりは「正直」だっただけではないのかと思います。ただ、この6番のプログラムは極めて私小説的なものでした。それ故に彼は公表することを望まなかったのだと思います。
「今度の交響曲にはプログラムはあるが、それは謎であるべきもので、想像する人に任せよう。このプログラムは全く主観的なものだ。私は旅行中に頭の中でこれを作曲しながら幾度となく泣いた。」
チャイコフスキーのこの言葉に、「悲愴」のすべてが語られていると思います。
ラストに向かって整然と盛り上がっていく第3楽章は見事の一言に尽きます。
ミュンシュのベートーベンの9番がFlacデータベースの方にはアップされていないので、是非アップしてくださいというメールをいただきました。
そんな馬鹿な、そんな音源はとっくの昔にアップしてますよ・・・と思いながら確認してみると、何とアップしていませんでした。(^^;
そこで、慌ててアップしたような次第なのですが、さらに調べてみると、既にパブリック・ドメインになっているミュンシュの音源が大量に放置されていることに気づきました。
どうしてこんな事になってしまったのかと自分でも不思議だったのですが、思案の巡らせている内に思い出しました。
切っ掛けは2007年に実施した「
大好きな指揮者は?~天国編 」というアンケートでした。
そこでのミュンシュへの評価は驚くほどに低いものでした。
「逆に信じられない思いだったのがミュンシュの不人気ぶりです。実力もあり残された録音も素晴らしいものが多いだけにちょっと考えられない結果でした。」と言う私のコメントも残っていました。
そこで、これではイカンと言うことで、2008年から2009年にかけて、まとまった数のミュンシュの音源を追加して再評価をはかったのですが、これが見事に撃沈!!
驚くほどにユーザーの方からはノー・リアクションだったのです。
そこで、体勢を立て直すべく(^^;、音源の追加を一度中止をしたのですが、結果から言えば、そのまま失念してしまったのです。
何だ、お前も結局は忘れてしまったんじゃないかと言われそうなのですが、1960年代にはいると録音の数も一気に増えてくるので、一度視野から外れるとそのまま沈んでしまうと言う典型のような話でした。
ただし、こういうチャイコフスキーの録音を聞き直してみると、彼が何故に多くの人の視野から消えつつあるのかと言うことが少しは理解できるような気もします。
ミュンシュにとってチャイコフスキーというのはメインのプログラムでないことは明らかです。私の記憶に間違いがなければ、交響曲ではこの「悲愴」と4番しか録音を残していませんし、「悲愴」に関して言えば40年代の古いモノラル録音がもう一つだけあるだけです。
ですから、そう言う部分は割り引く必要があるのでしょうが、上手くいっている部分とそうでない部分がはっきりした録音になっているような気がします。
ミュンシュという人は最晩年にパリ管と録音をしたブラームスの1番とベルリオーズの幻想で評価される人です。
しかし、彼が長く音楽監督を務めたボストン時代の録音は、そのパリ管のものとは随分テイストが違います。
もっと分かりやすく言えば、あのパリ管の圧倒的な狂瀾怒涛の音楽を期待してボストン時代の録音を聞くと、全ては肩すかしを食ってしまうのです。
ボストン時代のミュンシュもベルリオーズのスペシャリストとして評価されたのですが、そこではベルリオーズの「狂」的な部分をさらけ出すのではなく、巨大に膨張した彼の音楽を分かりやすく整理してみせる能力によって評価されたのでした。
そして、その事はこのチャイコフスキーの音楽にもあてはまります。
一番上手くいっているのは行進曲風に突き進んでいく第3楽章です。このラストに向かって整然と盛り上がっていく音楽は見事の一言に尽きます。
そして、それ以外の部分でもこれと同じテイストで突き進んでいけば、それはそれなりに面白い音楽に仕上がった思うのですが、何故か妙な山っ気を出してあちこちで変にテンポを動かしたりしてしまっています。
もちろん、それが上手く当たればいいのでしょうが、きっとやっている本人も「上手くいかないなぁ」などと思っていたのではないでしょうか。
ミュンシュという人はリハーサルと本番では全く違うことをやらかしてしまうことで有名でした。
本番ではお客さんの反応なども感じながらあざといことをやってしまう人だったのです。
そして、それが一回限りのライブならばそれなりに受けることもあるのでしょうが、何度も聞かれることになるレコードでは、あざとさはあざとさでしかなくなってしまいます。第1楽章の極限のピアニシモから爆発するフォルテの間でテンポが揺れたりするのは、ライブならば印象的であってもレコードだといかがなものかと思ってしまうのなどがその一例です。
また、これもまたミュンシュのラテン的明晰さへの指向なのでしょうが、弦楽器の分厚い響きをベースにしてオケの響きを作るのではなくて、あくまでも全ての楽器の響きが明確に聞こえるようにバランスを保持しようとします。
そのために、ぼってりとした厚塗りの響きで彩られたロシアの憂愁を期待すると、とりわけ弦楽器群が薄味に感じてしまうかもしれません。
個人的にはこういう響きはありだとは思うのですが、不満に思う人がいても不思議ではありません。
ミュンシュと言えば「爆発的な熱気あふれる音楽表現で高い人気を誇った」と言われるのですが、これはあくまでもパリ管の2枚の録音を基準にした話であって、彼の録音活動のほぼ全てを占めるボストン時代の業績をまとめる言葉としてはミスリード以外の何ものでもありません。
おそらく、こういう辺りにも、ミュンシュに対する評価の原因があるのかもしれません。
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