クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~

シベリウス:交響曲第4番 イ短調 Op.63

ジョージ・セル指揮 クリーブランド管弦楽団 1966年11月1日録音



Sibelius:Symphony No.4 in A minor, Op.63 [1.Tempo molto moderato, quasi adagio]

Sibelius:Symphony No.4 in A minor, Op.63 [2.Allegro molto vivace]

Sibelius:Symphony No.4 in A minor, Op.63 [3.Il tempo largo]

Sibelius:Symphony No.4 in A minor, Op.63 [4.Allegro]


本当に理解されているのでしょうか?

この作品は、シベリウス自身の指揮で1911年4月3日にヘルシンキで初演が行われています。
当時シベリウスの名声は固まっていましたから、聴衆の多くは期待をもって集まったと思われます。
しかし、実際に演奏された4番はとてつもなく晦渋な音楽であり、評論家も含めてどんなリアクションをとっていいものやら大いにとまどったそうです。

この初演時のとまどいこそが正直な反応なんだと思います。
なにしろ、冒頭から実に不気味な響きがします。そこには喉の腫瘍によって死の淵をのぞき込んだ恐怖が塗り込められていました。

この不気味な響きは、専門的に言うと隣り合う音同士がすべて全音となる4度の音程が引き起こしていて、それを三全音というそうです。
よく分からないので、Google先生に聞いてみるとこういう事でした。

例えば「ドーファ」を分析してみると、「ドーレ」が全音、「レーミ」が全音なのですが、「ミーファ」は半音となります。
つまり、隣り合う音どうしが全て全音になっていないので、これは「三全音」ではなくて、「完全4度」ということになります。

ところが、「ファーシ」を分析すると、「ファーソ」も「ソーラ」も「ラーシ」すべて全音になります。これが三全音です。
「完全4度」に対応する言い方をすれば「増4度」ということになります。

そして、この「三全音」の響きはルネッサンス時代から嫌われてきた響きでした。
「音楽の悪魔」とか「死の象徴」などと言われ、この響きを回避するためにフラットの調性が生み出されたとも言われています。

しかし、シベリウスはこの不気味な響きを意図的に使用しているのです。

おそらく、この交響曲全体を支配する何とも言えないいがらっぽい雰囲気はこの響きに負うところが大きいのです。
また、初期のシンフォニーを特徴づけていた息の長い美しい旋律は跡形もなく消えてしまい、変わって短い複数のモティーフが組み合わさることで音楽が形作られています。

ですから、20世紀の初頭にこんな音楽をいきなり聞かされたら戸惑うのは当たり前なのです。

ところが、シベリウス研究の権威であるセシル・グレイが、「最初から最後まで、余分な音符は一つとしてない」とのたまい、第7番と並ぶ最高傑作という御宣託もあって評価が固まったという経過があります。
へそ曲がりな私などは、「それなら、4番以外の交響曲のどの部分が余分な音符なのか教えてくれよ」と言いたくなるのですが、権威好きの日本人はそれ以後4番こそがシベリウスの最高傑作と言うことになりました。

でも、シベリウスが大好きな人でも、本音は4番が嫌いな人が多いですね。
証拠になるかどうかは分かりませんが、コンサートのプログラムで一番多く取り上げられるのは2番と1番でしょう。
おそらく4番はそんなに多くないはずです。。

でも、セシル・グレイ大先生はこう言っているんですね。

「この作品は官能的に訴えるものが全然ないから、通俗曲にはならないであろうが、少数の人々にとっては、シベリウスの最も偉大な作品となるであろう。彼はおそらくこれ以上のものを書かなかった。」

「少数の人々にとっては、シベリウスの最も偉大な作品となるであろう」なんて、実にくすぐる言葉です。馬鹿には分からないと言っているのですから、それが分かるオレってちょっと凄くない、という感じになれます。

まあここまで言われたら、へなちょこ評論家は恐れ入ってしまうでしょうね。
しかし、私はきっと馬鹿だからなのでしょう、どの演奏を聞いてもこの作品が好きになったことはありませんでした。
ちなみに、シベリウスは大好きです。
しかし、4番だけはどうしても駄目でした。

そんな私が初めて面白く4番を聞かせてくれたのは、ケーゲルの演奏です。
しかし、聞き終わってから、これはシベリウスの音楽ではなくて、ケーゲルの音楽だなと気づかされました。
ケーゲルという人は時に、強引に音楽をねじ曲げて自分の方に引っ張ってくるという力技を発揮しますが、このシベ4もその典型みたいな演奏でした。そして、そういう演奏で初めて面白く聞けたと言うことに、私とこの曲の相性がよく現れています。

しかし、最近になって一点だけ思いが変わっているのはケーゲルの演奏に対する評価です。
もしかしたら、この作品を本当に理解し共感していたのはケーゲルだけだったのかもしれません。

この作品ほど幸福感から縁遠い音楽はそんなに存在しないでしょう。
特に、この作品が生み出された時代というのが、未だに二つの世界大戦も核兵器の脅威も経験していない時代だったことを考えれば、この「虚無感」と「絶望感」は異形と言うしかありません。
そして、その深い絶望感がその様な社会的背景をもったものとしてではなく、全くの個人的な経験から発したものとして考えるならば、今も希有な存在であることは事実です。

おそらく、ケーゲルの演奏は日常的に聞くような音楽でないことは確かです。
一切の幸福感から切り離された、深い絶望と虚無を個人的体験として共有したのはこの二人だけだったのかもしれません。
ただし、この深い虚無感をシベリウスは乗り越えて再び此岸に帰ってきたのですが、ケーゲルは彼岸へと旅だっていきました。
その事が、彼の演奏をより悲劇的なものにしていることが、「強引に音楽をねじ曲げて自分の方に引っ張ってくるという力技」と感じた理由かもしれません。

しかし、さらに年を重ねると、こういう切り詰めた簡素な響きが少しずつ身に添うようになってきていることにも気づかされます。
逆に、マーラーのような音楽は五月蝿く感じられて、そこに手が伸びることはほとんどなくなっていることに気づくのです。

ただし、それを「進歩」だという気は全くありません。いや、それは「進歩」どころか、パワーの枯渇による「退歩」でしかない可能性の方が高いのです。
ただし、偉い先生というのはたいがい年寄りなので、若者であれば、年寄りは年寄り向きの音楽を高く評価すると言うことは頭の片隅留めておいた方がいいかもしれません。


悲痛な歌の美しさ


おそらく、クリーブランド管定期演奏会のライブ録音だと思われます。
セルのシベリウスと言えば2番が有名で、実際何度もコンサートで取り上げ、録音もしています。最初で最後となった1970年の来日公演で最後を飾ったシベリウスの2番は圧巻でした。
フィナーレの圧倒的な金管群のファンファーレはオーケストラ芸術にその生涯をかけた男の総決算のように聞こえたものでした。

しかし、4番となると、これは非常に珍しい録音だと言えます。
セルは同じ年の10月(これもおそらくは定期演奏会だと思われます)にお得意のシベリウスの2番を取り上げていますから、そう言うシベリウスへの「流れ」みたいなものがあったのかもしれません。

録音のクオリティは演奏会の様子を「記録」するという意図を超えるものではなく、マイクセッティングもホールに備え付けてあるマイクをそのまま使ったように聞こえます。
いわゆる、編集などと言うものも一切行われていない、録りっぱなしと言う感じです。
そう言うわけで、細かい部分などは余りよく分からないところもあるのですが、逆にコンサートホールでの自然な佇まいはうまく拾っています。

そう言う細かい部分が今ひとつはっきりしない部分はあるのものの、オーケストラの演奏精度という点では、入念なセッションを組んで録音された渡邊&日本フィルを圧倒していることは明らかです。
セルの演奏は、スタティックに冷静に、作品からはある程度距離を取ってこの理解しづらい作品の姿を客観的に描き出しています。
こういうスタイルで音楽をやるためには、精度の高いアンサンブルが必要不可欠ですから、その意味ではセル&クリーブランド管らしい演奏です。

しかし、この理解されにくい作品を熱い共感を持って描ききっているのは渡邊&日本フィルによる録音です。
おかしな話ですが、演奏のテイストは渡邊の方がライブのようで、セルの方がセッション録音のように聞こえてしまいます。

ライブであれ、セッションであれ、基本的な音楽のかたちは変えないのがセルのスタンスですから当然と言えば当然です。
ただし、第3楽章の切れ切れに歌われ、歌い継がれる悲痛な歌の美しさは出色です。

渡邊が共感の強さゆえにそのクリスタルな美しさが充分には表現し切れていないのに対して、この音楽はこうやって演奏するんだよ言わんばかりのセルの演奏です。
録りっぱなしのライブ録音で、この難しい作品をこれだけ楽しく聞かせてしまうセルという男は、当然のことかもしれませんが、ただ者ではありません。

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