チャイコフスキー:交響曲 第6番 ロ短調 作品74「悲愴(Pathetique)」
ピエール・モントゥー指揮 ボストン交響楽団 1955年1月26日録音
Tchaikovsky:Symphony No.6 in B minor, Op.74 "Pathetique" [1.Adagio - Allegro non troppo]
Tchaikovsky:Symphony No.6 in B minor, Op.74 "Pathetique" [2.Allegro con grazia]
Tchaikovsky:Symphony No.6 in B minor, Op.74 "Pathetique" [3.Allegro molto vivace]
Tchaikovsky:Symphony No.6 in B minor, Op.74 "Pathetique" [4.Adagio lamentoso]
私は旅行中に頭の中でこれを作曲しながら幾度となく泣いた。
チャイコフスキーの後期の交響曲は全て「標題音楽」であって「絶対音楽」ではないとよく言われます。それは、根底に何らかの文学的なプログラムがあって、それに従って作曲されたというわけです。
もちろん、このプログラムに関してはチャイコフスキー自身もいろいろなところでふれていますし、4番のようにパトロンであるメック夫人に対して懇切丁寧にそれを解説しているものもあります。
しかし6番に関しては「プログラムはあることはあるが、公表することは希望しない」と語っています。弟のモデストも、この6番のプログラムに関する問い合わせに「彼はその秘密を墓場に持っていってしまった。」と語っていますから、あれこれの詮索は無意味なように思うのですが、いろんな人が想像をたくましくしてあれこれと語っています。
ただ、いつも思うのですが、何のプログラムも存在しない、純粋な音響の運動体でしかないような音楽などと言うのは存在するのでしょうか。いわゆる「前衛」という愚かな試みの中には存在するのでしょうが、私はああいう存在は「音楽」の名に値しないものだと信じています。人の心の琴線にふれてくるような、音楽としての最低限の資質を維持しているもののなかで、何のプログラムも存在しないと言うような作品は存在するのでしょうか。
例えば、ブラームスの交響曲をとりあげて、あれを「標題音楽」だと言う人はいないでしょう。では、あの作品は何のプログラムも存在しない純粋で絶対的な音響の運動体なのでしょうか?私は音楽を聞くことによって何らかのイメージや感情が呼び覚まされるのは、それらの作品の根底に潜むプログラムに触発されるからだと思うのですがいかがなものでしょうか。
もちろんここで言っているプログラムというのは「何らかの物語」があって、それを音でなぞっているというようなレベルの話ではありません。時々いますね。「ここは小川のせせらぎをあらわしているんですよ。次のところは田舎に着いたうれしい感情の表現ですね。」というお気楽モードの解説が・・・(^^;(R.シュトラウスの一連の交響詩みたいな、そういうレベルでの優れものはあることにはありますが。あれはあれで凄いです!!!)
私は、チャイコフスキーは創作にかかわって他の人よりは「正直」だっただけではないのかと思います。ただ、この6番のプログラムは極めて私小説的なものでした。それ故に彼は公表することを望まなかったのだと思います。
「今度の交響曲にはプログラムはあるが、それは謎であるべきもので、想像する人に任せよう。このプログラムは全く主観的なものだ。私は旅行中に頭の中でこれを作曲しながら幾度となく泣いた。」
チャイコフスキーのこの言葉に、「悲愴」のすべてが語られていると思います。
プロ中のプロ
指揮者というのはそのお国柄というものがよくあらわれる職種だと思います。
典型的なのはハンガリーです。
ザッと数え上げると、フリッツ・ライナー、ジョージ・セル、ユージン・オーマンディ、ゲオルク・ショルティという感じです。ハンガリーというのは小国であるにもかかわらず、怖ろしく恐くて、そして怖ろしく完成度の高い仕事をする指揮者を輩出しました。
そこにあるのは、ファナティックなまでの完璧さへの執着です。
今時、「本場」などと言う言葉は胡散臭いだけなのですが、それでもクラシック音楽の世界ではオーストリア・ドイツ系の指揮者がそれに当たることになっています。そんな「本場」の指揮者と較べれば、言葉はよくないのですが、彼らにはどこか「狂」という字がついて回る雰囲気があります。
ここからさらに東に進んでロシアにまで行くと、ムラヴィンスキーとかマルケヴィッチみたいな同族もいるのですが、さすがにロシアは大国なので、スラブのパワーを爆発させる全く別種の生き物も数多く棲息しています。
それに対して、今度は西に進んでいくとフランスなどと言う国があります。(^^;
主だった指揮者をあげればピエール・モントゥー、シャルル・ミュンシュ、アンドレ・クリュイタンス等が数え上げられるのですが、ここから読み取れる共通点は明晰さへの指向です。ただし、その指向はハンガリー系のような独裁によってではなくて知性とウィットによって成し遂げられているように見えます。
もちろん、こう言ったからとて、ハンガリー系の面々に「知性」が欠如していると言っているわけではありません。
その知性が要求する音楽を、怖い人たちはファナティックなまでのスパルタによって実現しようとするのに対して、フランスの指揮者の多くはウィットによって実現しようとするように見えるのです。
セルにしてもライナーにしても、彼らが要求する水準までにオケが達しなければ、待っているのは地獄の特訓です。
しかし、モントゥーにしてもクリュイタンスにしても、彼らは自らの指揮技術で実現できなければそれはそれで仕方無しとして、その範囲の中で音楽をまとめてしまいます。ただ、凄いと思うのは、その高い指揮技術によって、凡な指揮者ならば入念にリハーサルを繰りかえす事で実現できるレベルよりも高い水準に引き上げてしまうことです。
クリュイタンスのウィーンフィルでのエピソード、「あなた方はこの曲をよく知っている。私もよく知っています。では明日。」というのは有名ですが、これはいかにもフランス的なのです。もちろん、この背景には練習嫌いなウィーンフィルの面々の支持を得るためという算段もあったのでしょうが、本質的には自分の指揮技術に自信がなければ言える言葉ではありません。
そして、その様なフランス的精神を最もよく体現した指揮者がモントゥーでした。
彼の音楽の特徴は明晰なるものへの徹底した指向でした。
しかし、それ以上に彼という指揮者をよく表している言葉は「独裁せずに君臨する」でしょう。
それは、ドイツ・オーストリアを対称の軸として東西でこれほども対照的になるのかと驚かされるほどです。
不思議なのは、彼の棒にかかると、オケは結構下手くそであっても音楽の内部構造がよく分かることです。しかしながら、下手くそであってもオケは怒られもせず、「俺たち結構いけてる!」というマジックにかかるので、結果として音楽に勢いとパワーが漲るのです。そして、その勢いとパワーは時には他では得られない魅力を生み出してしまったりするのです。
そして、そう言う下手くそなオケをモントゥーという人は長い時間をかけて熟成させていき、数年も経てば、これがあのサンフランシスコのオケ(言っちゃった^^;)なのかというレベルにまで高めてしまうのです。
私はセルやライナーという指揮者が大好きで、彼らこそが「プロ中のプロ」だと確信しているのですが、モントゥーのような指揮者に出会うと、プロの形も色々あることに気づかされます。
今回紹介したチャイコフスキーの後期の3つの交響曲はボストン響を振ってのものですからオケは下手ではありませんが、同時代のシカゴやクリーブランドみたいな凄みはありません。しかし、それでもモントゥーの棒にかかると、チャイコフスキーの交響曲は古典派のシンフォニーのようにその姿が明晰に立ち上がります。
聞くところによると、この一連の録音は当初1955年に録音された第6番「悲愴」だけの約束だったようです。
しかし、そのレコードが大好評でよく売れたので、続けて4番と5番も録音されることになったそうです。
考えてみるとこれは実に幸運なことでした。
何故ならば、「悲愴」という音楽は明晰さだけではどこか不満が残る部分があるのですが、4番と5番に関しては、その様なモントゥーの方向性が万全に威力を発揮しているからです。
もしかしたらムラヴィンスキーの録音にも肩を並べられるだけの素晴らしさに達しているかもしれません。
本当に、ボストン響とのコンビでこの録音が為されたことは幸せなことでした。
よせられたコメント
2016-09-04:Joshua
- 第4楽章4分58秒目ルフトパウゼ直後の鋭い弦の切込み、40年前中学生の時聴いた時も今も、この個所に来ると録音であることを忘れさせてくれます。
春の祭典を初演された指揮者ですから、(モントゥにとっては)当たり前のことを積み重ねていくだけで、こんな驚愕をリスナーに与えてくれるんでしょう。
も少し早く小生が生まれていれば、この人が振るエロイカをフェス(建前前の)あたりで聴けたんでしょうね。
その後、ヨッフムは聴けましたが、ムラヴィンスキーはキャンセルとなり、ヤンソンス代理を聴くことになりました。
モントゥーさんを最初に聴けたのは(LPですが)、BACHのドッペルコンツェルト。
Vnは十代のメニュヒンとその師ジョルジュ・エネスコ、オケはパリ交響楽団、とありました。
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