ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番 ト短調 作品26
(Vn)ユーディ・メニューイン ワルター・ジュスキント指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1958年録音
Bruch:Violin Concerto No.1 in G minor, Op.26 [1.Vorspiel: Allegro moderato]
Bruch:Violin Concerto No.1 in G minor, Op.26 [2.Adagio]
Bruch:Violin Concerto No.1 in G minor, Op.26 [3.Finale: Allegro energico]
ブルッフについて
今日ではヴァイオリン協奏曲とスコットランド幻想曲、そしてコル・ニドライぐらいしか演奏される機会のない人です。ただし、ヴァイオリニストにとってはこの協奏曲はある種の思い入れのある作品のようです。
と言うのは、ヴァイオリンのレッスンをはじめると必ずと言っていいほど取り上げるのがこの協奏曲であり、発表会などでは一度は演奏した経験を持っているからだそうです。ただし、プロのコンサートで演奏される機会は決して多くはありません。
しかし、ロマン派の協奏曲らしくメランコリックでありながら結構ゴージャスな雰囲気もただよい、メンデルスゾーンの協奏曲と比べてもそれほど遜色はないように思います。
第1楽章
序奏に続いて独奏ヴァイオリンの自由なカデンツァが始まるのですが、最低音Gから一気に駆け上がっていくので聴き応え満点、けれん味たっぷりのオープニングです。力強い第一主題と優美な第二主題が展開されながら音楽は進んでいき、いわゆる再現部にはいるところでそれは省略して経過的なフレーズで静かに第2楽章に入っていくという構成になっています。(・・・と、思います^^;)
第2楽章
ここが一番魅力的な楽章でしょう。主に3つの美しいメロディが組み合わされて音楽は展開していきます。息の長い優美なフレーズにいつまでも浸っていたいと思わせるような音楽です。
第3楽章
序奏に続いて,独奏ヴァイオリンが勇壮なメロディを聞かせてくれてこの楽章はスタートします。。前の楽章の対照的な出だしを持ってくるのは定番、そして、展開部・再現部と続いてプレストのコーダで壮麗に終わるというおきまりのエンディングですが良くできています。
血が出るような穏健さ
メニューヒンというヴァイオリニストに対する評価は難しい面を持っています。
10代で神童としてデビューした早熟の音楽でありながら、その後はあれこれの技術的な弱さが指摘される人でした。しかし、その名声を活用してナチスの戦犯容疑からフルトヴェングラーを解放するという活動を行った人でもありました。そして、その見返りとしてユダヤ人社会が大きな力を持つアメリカの音楽界から追放される憂き目にあうのですが、それでも己の信念を曲げることなく活動の本拠をロンドンに移す「気骨」の人であり「人道」の人でもありました。
そして、そう言う「人道主義者」としての側面に思い入れを持って聞く人は、彼の演奏のことを、「今、窓から飛び降りようとしている人に向かって、懸命に語りかける演奏」だとしてその高い精神性を褒め称えるのですが、そう言うことに「価値」を認めない人はただの下手な演奏だと切って捨てるのです。
そういえば、随分昔に、彼の2度目のバッハの無伴奏録音(1956年)をアップしたときにも、私もまた何とも言えず歯切れの悪い書き方をしていました。
「ヨハンナ・マルティの無伴奏を聴いてしまうと、今までは実に豊かで流麗と思っていたメニューインの演奏のあちこちに「キコキコ」した部分が気になって仕方がありません。もっとも、その「キコキコ」が、あまりにも気持ちよく横に流れていくことを「拒否」する解釈からくるものなのか、ボーイングの不備から来るものなのか、素人の私には断定できません。ただ、今まではシゲティの対極にあるバッハとして喜んで聴いていたものが、その向こうにマルティという存在がいることを知ってしまうと、私の中での存在価値が下がってしまったことは否めません。」
若者の最大の強みは「知らない」事です。
そして、知らないがゆえに己の信じるものを衒いもなく絶対の自信を持って表現しきることができます。未だ10代だったメニューヒンが30年代に録音した無伴奏の録音からは、やんちゃ坊主そのままの勢いに満ちた好き勝手な演奏が展開されているのですが、その好き勝手ぶりの何と魅力的なことか!!
50年代以降のメニューヒンの「不調」は一般的には第2次大戦下の過労とそれに伴う体調不良に帰されることが多いのですが、変わり目を迎えた時代のメニューヒンの録音を聞いてみると、その奥にはフルトヴェングラーとの交流の中で「知ってしまった」事への「恐れ」があったのではないかという気がしてきます。「恐れ」を知らなかった若者が(彼がフルトヴェングラーの擁護を買って出たのは31歳の時でした)、この偉大な指揮者と音楽活動を重ねることで「恐れ」を知ってしまったのです。
そう言えば、彼は、フルトヴェングラー以外とは共演したくない、みたいなことを語っていました。
ところが、そのフルトヴェングラーが54年に亡くなってしまうのです。
彼は何も語っていませんが、このフルトヴェングラーの死は彼にとって大きな衝撃であったはずです。音楽というものが持っている底知れない世界への扉が開け放たれて、そこへ一人で放り出されたのです。
そこで「恐れ」が生じなければ嘘です。
ですから、私がかつて感じた50年代の無伴奏の録音に対する疑念は半分は当たっていたのかもしれません。
あそこで感じた「流麗さ」は、実は「穏健さ」だったのです。
もっときつい言い方をすれば、それは「流麗なバッハ」というマルティのような「信念」に裏打ちされたものではなく、「恐れ」を知ってしまったがゆえに、どこからも文句が出ないように気配りを張り巡らした「穏健さ」の産物だったのです。
そして、その思いは、この時代に集中的に録音されたバッハ演奏を聴いているうちに、次第に確信に変わっていきました。
フルトヴェングラーが亡くなってからは「音楽の捧げもの」「ブランデンブルグ協奏曲」「管弦楽組曲」というバッハ作品を集中的に録音しています。そして、その演奏スタイルは時代の潮流に沿った小規模のアンサンブルでありながら聞こえてくる音楽はきわめて「穏健」で「保守的」なものなのです。
この時代は、パイヤール、シモーネ、マリナー、ミュンヒンガーなどが活動を始めた時期であり、さらにはドイツではリヒターがミュンヘン・バッハ管弦楽団を率いて意欲的な活動を始めた時期でした。そう言う動きの中にこのメニューヒンの録音を置いてみると、「穏健」という言葉しか思い浮かびません。
もちろん、メニューヒンのバッハは、かつての大指揮者達がフルオーケストラをたっぷりと鳴らして豊かに歌い上げていた「古いバッハ」とは全く異なります。しかし、演奏の基本的なスタイルは時代の潮流に沿ったものでありながら、そう言う古い価値観の側から突っつかれて言い逃れができるような音楽であることも事実なのです。言葉をかえれば、そう言う古いバッハにも捨てきれない価値があることを「知って」しまったのです。
やはり音楽というのは人の魂に訴えかけるものでなければ存在価値がありません。
新しい表現スタイルが一時的に人の関心をひいたとしても、それが「新しさ」だけであればいつか捨てられてしまいます。この時代のバッハで、今も多くの人の心に響くがリヒターのバッハであるという事実がその事を如実に証明しています。
おそらく、メニューヒンがフルトヴェングラーから学んだ最大のものがこの事だったのではないでしょうか。しかし、ここでのメニューヒンのバッハから聞こえてくるのは「知ってしまったが故の恐れ」であり、それを突き破れないもどかしさです。
おかしな表現かもしれませんが、その意味では、この「穏健さ」は「血が出るような穏健さ」なのです。
そして、その一見すれば穏やかに見える表情の奥にその様な思いがあるがゆえに、そこから「今、窓から飛び降りようとしている人に向かって、懸命に語りかける」姿を聞き取るのでしょう。
しかし、対象となる音楽がそう言う重さを持たないものであるならば、メニューヒンは一気に自由になるようにも見えます。
シベリウス(軽いと言えば語弊はあるでしょうが・・・)、パガニーニ、そしてブルッフにサン=サーンスなどの作品となると、かなり自分の意志を前面に出してぐっと踏み込んでいく姿が伺えます。そして、それは非常に魅力的であるがゆえに、このスタイルに自信を持って何にでも立ち向かえば良かったのに・・・と思うのですが、それができないところに「伝統」というものの怖さがあるのでしょうね。
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