ドヴォルザーク:響曲第9番 ホ短調 作品95 「新世界より」
ウィレム・メンゲルベルク指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団 1941年4月1日録音
Antonin Dvorak:Symphony No. 9 In E Minor, Op. 95 "From The New World" [1.Adagio. Allegro Molto]
Antonin Dvorak:Symphony No. 9 In E Minor, Op. 95 "From The New World" [2.Largo]
Antonin Dvorak:Symphony No. 9 In E Minor, Op. 95 "From The New World" [3.Scherzo: Molto Vivace]
Antonin Dvorak:Symphony No. 9 In E Minor, Op. 95 "From The New World" [4.Allegro Con Fuoco]
望郷の歌

ドヴォルザークが、ニューヨーク国民音楽院院長としてアメリカ滞在中に作曲した作品で、「新世界より」の副題がドヴォルザーク自身によって添えられています。
ドヴォルザークがニューヨークに招かれる経緯についてはどこかで書いたつもりになっていたのですが、どうやら一度もふれていなかったようです。ただし、あまりにも有名な話なので今さら繰り返す必要はないでしょう。
しかし、次のように書いた部分に関しては、もう少し補足しておいた方が親切かもしれません。
この作品はその副題が示すように、新世界、つまりアメリカから彼のふるさとであるボヘミアにあてて書かれた「望郷の歌」です。
この作品についてドヴォルザークは次のように語っています。
「もしアメリカを訪ねなかったとしたら、こうした作品は書けなかっただろう。」
「この曲はボヘミアの郷愁を歌った音楽であると同時にアメリカの息吹に触れることによってのみ生まれた作品である」
この「新世界より」はアメリカ時代のドヴォルザークの最初の大作です。それ故に、そこにはカルチャー・ショックとも言うべき彼のアメリカ体験が様々な形で盛り込まれているが故に「もしアメリカを訪ねなかったとしたら、こうした作品は書けなかっただろう」という言葉につながっているのです。
それでは、その「アメリカ体験」とはどのようなものだったでしょうか。
まず最初に指摘されるのは、人種差別のない音楽院であったが故に自然と接することが出来た黒人やアメリカ・インディオたちの音楽との出会いです。
とりわけ、若い黒人作曲家であったハリー・サンカー・バーリとの出会いは彼に黒人音楽の本質を伝えるものでした。
ですから、そう言う新しい音楽に出会うことで、そう言う「新しい要素」を盛り込んだ音楽を書いてみようと思い立つのは自然なことだったのです。
しかし、そう言う「新しい要素」をそのまま引用という形で音楽の中に取り込むという「安易」な選択はしなかったことは当然のことでした。それは、彼の後に続くバルトークやコダーイが民謡の採取に力を注ぎながら、その採取した「民謡」を生の形では使わなかったののと同じ事です。
ドヴォルザークもまた新しく接した黒人やアメリカ・インディオの音楽から学び取ったのは、彼ら独特の「音楽語法」でした。
その「音楽語法」の一番分かりやすい例が、「家路」と題されることもある第2楽章の5音(ペンタトニック)音階です。
もっとも、この音階は日本人にとってはきわめて自然な音階なので「新しさ」よりは「懐かしさ」を感じてしまい、それ故にこの作品が日本人に受け入れられる要因にもなっているのですが、ヨーロッパの人であるドヴォルザークにとってはまさに新鮮な「アメリカ的語法」だったのです。
とは言え、調べてみると、スコットランドやボヘミアの民謡にはこの音階を使用しているものもあるので、全く「非ヨーロッパ的」なものではなかったようです。
しかし、それ以上にドヴォルザークを驚かしたのは大都市ニューヨークの巨大なエネルギーと近代文明の激しさでした。そして、それは驚きが戸惑いとなり、ボヘミアへの強い郷愁へとつながっていくのでした。
どれほど新しい「音楽的語法」であってもそれは何処まで行っても「手段」にしか過ぎません。
おそらく、この作品が多くの人に受け容れられる背景には、そう言うアメリカ体験の中でわき上がってきた驚きや戸惑い、そして故郷ボヘミアへの郷愁のようなものが、そう言う新しい音楽語法によって語られているからです。
「この曲はボヘミアの郷愁を歌った音楽であると同時にアメリカの息吹に触れることによってのみ生まれた作品である」という言葉に通りに、ボヘミア国民楽派としてのドヴォルザークとアメリカ的な語法が結びついて一体化したところにこの作品の一番の魅力があるのです。
ですから、この作品は全てがアメリカ的なもので固められているのではなくて、まるで遠い新世界から故郷ボヘミアを懐かしむような場面あるのです。
その典型的な例が、第3楽章のスケルツォのトリオの部分でしょう。それは明らかにボヘミアの冒頭音楽(レントラー)を思い出させます。
そして、そこまで明確なものではなくても、いわゆるボヘミア的な情念が作品全体に散りばめられているのを感じとることは容易です。
初演は1893年、ドヴォルザークのアメリカでの第一作として広範な注目を集め、アントン・ザイドル指揮のニューヨーク・フィルの演奏で空前の大成功を収めました。
多くのアメリカ人は、ヨーロッパの高名な作曲家であるドヴォルザークがどのような作品を発表してくれるのか多大なる興味を持って待ちかまえていました。そして、演奏された音楽は彼の期待を大きく上回るものだったのです。
それは、アメリカが期待していたアメリカの国民主義的な音楽であるだけでなく、彼らにとっては新鮮で耳新しく感じられたボヘミア的な要素がさらに大きな喜びを与えたのです。
そして、この成功は彼を音楽院の院長として招いたサーバー夫人の面目をも施すものとなり、2年契約だったアメリカ生活をさらに延長させる事につながっていくのでした。
メンゲルベルクお得意のパターンか?
こういう録音に出会ってしまうと、化石とも言えそうな音源を発掘してきて紹介することにもそれなりの意味があるようです。
ただし、その前に「録音」のクオリティについて確認しておくべき事が必要があります。
こういう音源は基本的には状態のいいSP盤からの板おこしというのが基本です。
1940年代はナチスドイツのもとで実験的にテープ録音は始まっていましたが、それはごく限られた範囲の話でした。
ほぼ全ての音源はワックス盤に直接カッティングされたものがマザー音源でした。
言うまでもなく、このワックス盤は経年劣化で腐食しますから、このマザー音源に該当するワックス盤が良好な状態で保存されていることはまずありません。
ですから、SP盤の復刻は出来る限り状態のいい盤を探してきて板おこしするのがベターと言うことになります。
しかしながら、未使用のSP盤はほとんど存在しません。
また、最もスタンダードな鉄針でSP盤を再生する時は、一面毎にその鉄針を交換することが推奨されていました。それを怠ると、再生音が歪むだけでなく、レコードの損耗もひどくなりました。
しかしながら、SP盤の再生時間が僅か5~6分ですから、1回聞くたびに鉄針を取り替えない人も少なくはなかったでしょう。
また、一回ごとに交換していても、軽針圧で再生可能なLP盤と較べればレコード面へのダメージは比較にならないほどに大きかったので、パチパチノイズのないSP盤などとは奇蹟でもない限り残っていないのです。
そこで、SP盤からの板おこしの場合に、このパチパチノイズをどのように処理するのかと言うことが重要な問題となります。
一つは、徹底的にノイズリダクションをほどこして、このパチパチノイズを消してしまうと言う方法です。
一例としてアーベントロートの「悲愴」をあげておきます。
ヘルマン・アーベントロート指揮 ライプツィヒ放送交響楽団 1952年1月28日録音
これは放送音源なのでSP盤からの板おこしではないとは思うのですが、「はじめて蘇る原音」と銘打って徹底的にノイズリダクションを施した復刻盤からリッピングした音源です。
見事なまでにノイズがカットされていますから、一見すると非常に聞きやすくなっているような気がするのですが、聞き進んでいくうちに、アーベンロートならではの「熱さ」みたいなものまでが、見事なまでにリダクションされていることに気づきます。
要するに、オケの響きが中抜けのスカスカで、そこに変なリバーブのようなものまで付加されている疑惑すら感じます。
もちろん、引き替えにノイズは徹底的に除去されていますのでこれをよしと感じる人もいるでしょうが、好きではありません。ノイズがイヤならば、最初からこういう「化石音源」など聞かなければいいのです。
「化石音源」を聴きたい人にはそれを聞きたい理由があるはずです。
そこで、二つめの選択肢として、そう言うパチパチノイズには目を瞑って、そのノイズの向こうにある「熱い原音」を出来る限り丁寧にすくい取るべきだという考えが出来てきました。
最近はこの手法がほぼ主流になっていて、その選択の正しさはこのメンゲルベルクによる「新世界より」でも証明されています。
こういう「化石音源」に不慣れな方は最初はギョッとするのですが、人間の耳というのはうまくできていて、慣れてくると必要な情報だけを聞き取れるようになるのでパチパチノイズも気にならなくなってきます。
そして、そのパチパチノイズに目を瞑ることで、音源に刻み込まれていたオケの響きがしっかりと再現されているのです。
その違いは、この2つの音源を聞き比べてみれば一目瞭然ならぬ一聴瞭然です。
そして、最後に指摘しておかなければいけないのは、こういう「化石音源」の中には、そう言うパチパチノイズをくぐり抜けてでも聞いてみたくなる「魅力」があると言うことです。
それは「昔は良かった」という安易なノスタルジックではなくて、聞いてみて文句なく楽しいという、現在にも通用するエンターテイメントとしての「魅力」です。そして、それこそが「化石音源」を聴きたい人にとっての理由なのです。
第1楽章は驚くほどにザッハリヒカイトな雰囲気で驀進していきます。
第2楽章では一転して、ドヴォルザークの故国への郷愁を入念に歌い上げる、しつこいまでの「歌の世界」が繰り広げられます。
そして何よりも驚かされるのが、メンゲルベルク節が炸裂する第3楽章です。
この面妖な歌い回しには驚かされるのですが、この歌い回しゆえにドヴォルザークの故国への深い懐旧の念が迫ってきます。
そして、最終楽章では再び何事もなかったように驀進していく姿を見ていると、これってチャイコフスキーの弦楽セレナードの時とよく似ていることに気づきます。
両端楽章はキリッと引き締めて枠を作っておき、その枠の中で真ん中の二つの楽章は好き勝ってやると言うスタイルです。
そして、この枠の中で「好き勝手やる」というのが実に楽しいのです。
これってもしかしたらメンゲルベルクのお得意のパターンだったのでしょうか。
そして、この好き勝手を充分に楽しむためには、ノイズと一緒に熱さもリダクションされてはたまったものではないのです。ですから、パチパチノイズには目を瞑りましょう。
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