モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番ニ短調 ,K.466
(P)ギオマール・ノヴァエス:ハンス・スワロフスキー指揮 ウィーン交響楽団 1954年発行
Mozart:Concerto No.20 In D Minor For Piano And Orchestra, K.466 [1.Allegr]
Mozart:Concerto No.20 In D Minor For Piano And Orchestra, K.466 [2.Romance]
Mozart:Concerto No.20 In D Minor For Piano And Orchestra, K.466 [3.Rondo: (Allegro Assai)]
広大な感情の領域を彷徨う音楽
モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番ニ短調 , K.466
ウィーン時代のモーツァルトは大きな浮き沈みを経験します。それは人気ピアニストとして多くの収入を獲得した前半と、予約演奏会を開いてもほとんど人が集まらなくなった凋落の時代です。
そして、多くの日本の評論家達は、その分かれ目となったのがこのニ短調の協奏曲だったと書いていました。ですから、私も、このあまりにも時代の先を行きすぎたモーツァルトの音楽にウィーンの人々はついて行くことが出来ず、その無理解故にモーツァルトの人気は凋落し、その結果として若くして亡くならざるを得なかったと信じていました。
おそらく、今でもその「説」を信じておられる方は多いのではないでしょうか。しかし、残された手紙などを調べてみれば、このニ短調協奏曲が披露された予約演奏会には多くの人が申し込み、そしてその「素晴らしい音楽」に多くの聴衆は拍手を送ったのです。
ただし問題は、父レオポルドがその演奏会に様子をザルツブルグにいる娘のナンネルに送った手紙の次の一節です。
「6回のコンサートの内最初の演奏会に出かけけましたが、
身分の高い人たちがたくさん集まっていました。
何気ない一節ですが、問題はモーツァルトの予約演奏会に参加をしたのは「身分の高い人たち」。つまりは上流貴族が大部分を占めていた事です。そして、彼らの音楽的教養は非常に高くて、おそらくはニ短調という特殊な調性で書かれた第1楽章に少しは驚きもしたでしょうが、それもまた一つの面白い趣向として受け入れるだけの音楽的教養を持っていました。
確かにその音楽は憂鬱であり、当時の常識から言えば広大な感情の領域を彷徨う音楽であり、それは疑いもなくロマン派の時代の音楽を予見させるものでした。しかし、そんな事ぐらいで彼らはモーツァルトを見限るわけはなく、これに続いて21番のハ長調協奏曲等の新作を含む自主興行で、レオポルドは息子が559グルテンを稼いだと手紙でザルツブルグに知らせているのです。
つまりは、モーツァルトを支えた上流貴族達は次々と進化していくモーツァルトを受け入れることはあっても、決して見捨てることはなかったのです。
また、モーツァルトもまたこの憂鬱な第1楽章の気分を振り払うように、最終楽章では明るくハッピーな気持ちで終わらせているのです。つまり、モーツァルトは基本的には作曲家であり演奏家であると同時に興行師でもあり、そのたりの仕掛けには抜かりはなかったのです。
それ故に、ロマン派の時代になると、このニ短調協奏曲の第1楽章は賞賛の対象となっても最終楽章の評判は悪かったのです。とりわけ、若きベートーベンはピアニストとしてこの作品を自分自身の重要なレパートリーとしていたのですが、このハッピーエンドがよほど気に入らなかったようで、自らの手でより悲劇的な形で終われるようにカデンツァを書いていて、これが現在でも最もよく用いられるカデンツァとなっています。
つまりは、ウィーンにおけるモーツァルトの凋落はその音楽の有り様が変化したためではなく、彼を支持していた「上流貴族」達がウィーンを去ってしまったことが最大の原因だったのです。
モーツァルトがこの作品を披露したのは1785年です。そして、その時には1789年のフランス革命に向かう導火線に火はついていて、その影響はハプスブルグ帝国にも及んでいました。長年のプロイセンとの戦争で疲弊し、さらにはハプスブルグ領だった各地で反乱が起こり、またフランス啓蒙思想の影響を受けたヨーゼフ2世の施策はことごとく失敗に帰してその混乱にさらなる拍車をかけました。
そして、そのヨーゼフ2世が亡くなると、そのあとを弟のレオポルト2世が引き継ぐのですが、彼は兄の墓に「善良な意志であるにもかかわらず何事にも成功しなかった人ここに眠る」と記して、兄の開放的な政策から一転して強圧的な政策を次々に実行しはじめたのです。そして、その変化はウィーンに滞在していた上流貴族達にも深刻な影響を与え、彼らの多くは次々と自分の領地に引き上げてしまったのです。
つまりは、モーツァルトの凋落はウィーンの人たちが彼の音楽を理解しなかったのではなくて、彼を支えていた「身分の高い人」達がウィーンを去ってしまったことが最大の原因だったのです。
そして、時代は1789年のフランス革命という発火点を契機として、時代の主役は貴族から市民階級にうつっていくのです。しかし、この時代の市民階級には未だにモーツァルトのような音楽家を支えるだけの力は持ち得ていませんでした。
モーツァルトは1756年に生まれていますが、ベートーベンは1770年に生まれています。この14年の差はこの時代にあっては決定的でした。
ベートーベンがウィーンに出てきたのは1792年であり、ブルク劇場で第1響曲などを公演して交響曲作家としても評価されるようになるのは1800年のことでした。そして、その時には彼は貴族ではなくて市民階級を対象として音楽を書き、フリーランスの作曲家として生きていくことが出来たのでした。
まさに、父レオポルが何気なく手紙にしたためた「身分の高い人たちがたくさん集まっていました。」の一言は途轍もない重しとなって晩年のモーツァルトにのしかかったのでした。
ウィーン時代後半のピアノコンチェルト
- 第20番 ニ短調 K.466:1785年2月10日完成
- 第21番 ハ長調 K.467:1785年3月9日完成
- 第22番 変ホ長調 K.482:1785年12月16日完成
- 第23番 イ長調 K.488:1786年3月2日完成
- 第24番 ハ短調 K.491:1786年3月24日完成
- 第25番 ハ長調 K.503:1786年12月4日完成
9番「ジュノーム」で一瞬顔をのぞかせた「断絶」がはっきりと姿を現し、それが拡大していきます。それが20番以降のいわゆる「ウィーン時代後半」のコンチェルトの特徴です。
そして、その拡大は24番のハ短調のコンチェルトで行き着くところまで行き着きます。
そして、このような断絶が当時の軽佻浮薄なウィーンの聴衆に受け入れられずモーツァルトの人生は転落していったのだと解説されてきました。
しかし、事実は少し違うようです。
たとえば、有名なニ短調の協奏曲が初演された演奏会には、たまたまウィーンを訪れていた父のレオポルドも参加しています。そして娘のナンネルにその演奏会がいかに素晴らしく成功したものだったかを手紙で伝えています。
これに続く21番のハ長調協奏曲が初演された演奏会でも客は大入り満員であり、その一夜で普通の人の一年分の年収に当たるお金を稼ぎ出していることもレオポルドは手紙の中に驚きを持ってしたためています。
この状況は1786年においても大きな違いはないようなのです。
ですから、ニ短調協奏曲以後の世界にウィーンの聴衆がついてこれなかったというのは事実に照らしてみれば少し異なるといわざるをえません。
ただし、作品の方は14番から19番の世界とはがらりと変わります。
それは、おそらくは23番、25番というおそらくは85年に着手されたと思われる作品でも、それがこの時代に完成されることによって前者の作品群とはがらりと風貌を異にしていることでも分かります。
それが、この時代に着手されこの時代に完成された作品であるならば、その違いは一目瞭然です。
とりわけ24番のハ短調協奏曲は第1楽章の主題は12音のすべてがつかわれているという異形のスタイルであり、「12音技法の先駆け」といわれるほどの前衛性を持っています。
また、第3楽章の巨大な変奏曲形式も聞くものの心に深く刻み込まれる偉大さを持っています。
それ以外にも、一瞬地獄のそこをのぞき込むようなニ短調協奏曲の出だしのシンコペーションといい、21番のハ長調協奏曲第2楽章の天国的な美しさといい、どれをとっても他に比べるもののない独自性を誇っています。
これ以後、ベートーベンを初めとして多くの作曲家がこのジャンルの作品に挑戦をしてきますが、本質的な部分においてこのモーツァルトの作品をこえていないようにさえ見えます。
カラリとした空気感
ギオマール・ノヴァエスの存在を知ったのは1951年1月7日のニューヨークフィルの定期講演会のライブ録音によってでした。演奏したのはショパンのピアノ協奏曲第2番で指揮者はジョージ・セルでした。
セルという指揮者は協奏曲のソリストの選定に関しては極めて五月蝿い人で、とりわけピアニストに関しては自らも一流のピアニストだっただけにその先帝に関しては非常に厳しい指揮者でした。そして、調べてみれば、セルとのニューヨークフィル定期での協演はそれ以外に5回もあったようなのです。
- 1951年12月13日:モーツァルト:ピアノ協奏曲第9番変ホ長調 , K.271 「ジュノーム」
- 1951年12月14日:モーツァルト:ピアノ協奏曲第9番変ホ長調 , K.271 「ジュノーム」
- 1951年12月16日:ショパン:ピアノ協奏曲第2番 ヘ短調 作品21
- 1952年12月20日:ベートーベン:ピアノ協奏曲第4番 ト長調 作品58
- 1952年12月21日:ベートーベン:ピアノ協奏曲第4番 ト長調 作品58
1951年1月7日のライブ録音に関してはすでに紹介してあります。それはセルを相手にしていると言うことを考えれば実に驚くべき演奏で、ノヴァエスはセルの支配下にはいることなく十分すぎるほどに自己主張を行っています。そして、その「凄さ」故に第1楽章が終わったあとに会場から思わず拍手がこぼれているのです。
しかし、その事をセルは決して苦々しくは思わなかったようで、率直に彼女の実力を認めたようです。そんな言葉がどこかに残っているというわけではないのですが、上で紹介したようにその後の5回の協演という事実が証明しています。
そして、ここで紹介しているモーツァルトはセルとのライブ録音ではないのですが、この力強さに溢れたピアニストがモーツァルトとどの様に向き合うのかいささか興味がひかれる録音ではあります。
言うまでもないことですが、モーツァルトのピアノ音楽を力強くガンガン鳴らせば、それは実に困ったことになります。
そう言えば、あのルービンシュタインは自分が演奏するピアノの音はすみずみまで聞こえなければいけないといってモーツァルトをガンガンならしまくった録音が存在します。レコード会社は編集で手直しが可能な分は可能な限り手直しをして発売したものの、どうにもこうにも編集のしようがない録音は最終的にお蔵入りになってしまったという逸話が残っています。
もちろん、セルとのショパンのように力強く、そして丹念に旋律線を浮かび上がらせるスタイルをそのままモーツァルトに採用は出来ないことはいうまでもありません。
おそらくノヴァエスにとってモーツァルトはそれほど相性の良い音楽ではないと思うだけに、そう言う「興味」はいささか悪趣味であるとは思うのですが、セルとのショパンがあまりにも凄かった故にお手並み拝見という思いがどうしても出てきてしまうのです。
しかし、聞いてみれば、若い頃に「神に愛でられたピアニスト」と言われただけのことはあって、リリー・クラウスを思わせるような力強さを保持しながらその歌わせ方は彼女ならではのニュアンスに満ちた微笑みに溢れています。そして、それはピアノ単独のソナタ作品よりも、オケと共同作業で作りあげる居箏曲の方がその美質がより強く出るようです。
「ジュノーム」にしてもニ短調のコンチェルトにしても、ロマン派好みの強い思い入れではなくて、どこかカラリとした空気感が聞き手に不要な緊張を求めないのは好感を持てます。
ただし、ソナタ作品に関してはもう少しモーツァルトらしい愛想があってもいいのにと思う場面もあるのですが、そう言えばこの時代のギーゼキングのモーツァルトのソナタも結構無愛想な感じがしたものです。そう言う時代の精神みたいなものが背景にあったのかもしれません。
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