クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~

ハイドン:交響曲第94番 ト長調 Hob.I:94 「驚愕」

カール・リヒター指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 1961年3月17日-20日録音





Haydn:Symphony No.94 in G major, Hob.I:94 [1.Adagio cantabile - Vivace assai]

Haydn:Symphony No.94 in G major, Hob.I:94 [2.Andante]

Haydn:Symphony No.94 in G major, Hob.I:94 [3.Minuet - Trio]

Haydn:Symphony No.94 in G major, Hob.I:94 [4.Finale. Presto]


ザロモン演奏会の概要

エステルハージ候の死によって事実上自由の身となってウィーンに出てきたハイドンに、「イギリスで演奏会をしませんか」と持ちかけてきたのがペーターザロモンでした。
彼はロンドンにおいてザロモンコンサートなる定期演奏会を開催していた興行主でした。
当時ロンドンでは彼の演奏会とプロフェッショナルコンサートという演奏会が激しい競争状態にありました。そして、その競争相手であるプロフェッショナルコンサートはエステルハージ候が存命中にもハイドンの招聘を何度も願い出ていました。しかし、エステルハージ候がその依頼には頑としてイエスと言わなかったために、やむなく別の人物を指揮者として招いて演奏会を行っていたという経緯がありました。
それだけに、ザロモンはエステルハージ候の死を知ると素早く行動を開始し、破格とも言えるギャランティでハイドンを口説き落とします。
そのギャラとは、伝えられるところによると、「新作の交響曲に対してそれぞれ一曲あたり300ポンド、それらの指揮に対して120ポンド」等々だったといわれています。ハイドンが30年にわたってエステルハ?ジ家に仕えることで貯蓄できたお金は200ポンドだったといわれますから、これはまさに「破格」の提示でした。
このザロモンによる口説き落としによって、1791年1792年1794年の3年間にハイドンを指揮者に招いてのザロモン演奏会が行われることになりました。そして、ハイドンもその演奏会のために93番から104番に至る多くの名作、いわゆる「ザロモンセット」とよばれる交響曲を生み出したわけですから、私たちはザロモンに対してどれほどの感謝を捧げたとして捧げすぎるということはありません。

第1期ザロモン交響曲(第93番~98番)
1791年から92年にかけて作曲され、演奏された作品を一つにまとめて「第1期ザロモン交響曲」とよぶのが一般化しています。この6曲は、91年に作曲されて、その年に初演された96番と95番、91年に作曲されて92年に初演された93番と94番、そして92年に作曲されてその年に初演された98番と97番という三つのグループに分けることが出来ます。

<第1グループ>

  1. 96番「奇跡」:91年作曲 91年3月11日初演

  2. 95番 :91年作曲 91年4月1日or4月29日初演


<第2グループ>

  1. 93番:91年作曲 92年2月17日初演

  2. 94番「驚愕」:91年作曲 92年3月23日初演


<第3グループ>

  1. 98番:92年作曲 92年3月2日初演

  2. 97番:92年作曲 92年5月3日or5月4日初演



91年はハイドンを招いての演奏会は3月11日からスタートし、その後ほぼ週に一回のペースで行われて、6月3日にこの年の最後の演奏会が行われています。これ以外に5月16日に慈善演奏会が行われたので、この年は都合13回の演奏会が行われたことになります。
これらの演奏会は「聴衆は狂乱と言っていいほどの熱狂を示した」といわれているように、ザロモン自身の予想をすら覆すほどの大成功をおさめました。また、ハイドン自身も行く先々で熱狂的な歓迎を受け、オックスフォード大学から音楽博士号を受けるという名誉も獲得します。
この大成功に気をよくしたザロモンは、来年度もハイドンを招いての演奏会を行うということを大々的に発表することになります。

92年はプロフェッショナルコンサートがハイドンの作品を取り上げ、ザロモンコンサートの方がプレイエルの作品を取り上げるというエールの交換でスタートします。
そして、その翌週の2月17日から5月18日までの12回にわたってハイドンの作品が演奏されました。この年は、これ以外に6月6日に臨時の追加演奏会が行われ、さらに5月3日に昨年同様に慈善演奏会が行われています。

第2期ザロモン交響曲(第99番~104番)

1974年にハイドンはイギリスでの演奏会を再び企画します。
しかし、形式的には未だに雇い主であったエステルハージ候は「年寄りには静かな生活が相応しい」といって容易に許可を与えようとはしませんでした。このあたりの経緯の真実はヤブの中ですが、結果的にはイギリスへの演奏旅行がハイドンにとって多大な利益をもたらすことを理解した候が最終的には許可を与えたということになっています。
しかし、経緯はどうであれ、この再度のイギリス行きが実現し、その結果として後のベートーベンのシンフォニーへとまっすぐにつながっていく偉大な作品が生み出されたことに私たちは感謝しなければなりません。

この94年の演奏会は、かつてのような社会現象ともいうべき熱狂的な騒ぎは巻き起こさなかったようですが、演奏会そのものは好意的に迎え入れられ大きな成功を収めることが出来ました。
演奏会はエステルハージ候からの許可を取りつけるに手間取ったために一週間遅れてスタートしました。しかし、2月10日から始まった演奏会は、いつものように一週間に一回のペースで5月12日まで続けられました。そして、この演奏会では99番から101番までの三つの作品が演奏され、とりわけ第100番「軍隊」は非常な好評を博したことが伝えられています。


  1. 99番:93年作曲 94年2月10日初演

  2. 101番「時計」:94年作曲 94年3月3日初演

  3. 100番「軍隊」:94年作曲 94年3月31日初演



フランス革命による混乱のために、優秀な歌手を呼び寄せることが次第に困難になったためにザロモンは演奏会を行うことが難しくなっていきます。そして、1795年の1月にはついに同年の演奏会の中止を発表します。しかし、イギリスの音楽家たちは大同団結をして「オペラコンサート」と呼ばれる演奏会を行うことになり、ハイドンもその演奏会で最後の3曲(102番?104番)を発表しました。
そのために、厳密にいえばこの3曲をザロモンセットに数えいれるのは不適切かもしれないのですが、一般的にはあまり細かいことはいわずにこれら三作品もザロモンセットの中に数えいれています。
ただし、ザロモンコンサートが94年にピリオドをうっているのに、最後の三作品の初演が95年になっているのはその様な事情によります。
このオペラコンサートは2月2日に幕を開き、その後2週間に一回のペースで開催されました。そして、5月18日まで9回にわたって行われ、さらに好評に応えて5月21日と6月1日に臨時演奏会も追加されました


  1. 102番:94年作曲 95年2月2日初演

  2. 103番「太鼓連打」:95年作曲 95年3月2日初演

  3. 104番「ロンドン」:95年作曲 95年5月4日初演



ハイドンはこのイギリス滞在で2400ポンドの収入を得ました。そして、それを得るためにかかった費用は900ポンドだったと伝えられています。エステルハージ家に仕えた辛苦の30年で得たものがわずか200ポンドだったことを考えれば、それは想像もできないような成功だったといえます。
ハイドンはその収入によって、ウィーン郊外の別荘地で一切の煩わしい出来事から解放されて幸福な最晩年をおくることができました。ハイドンは晩年に過ごしたこのイギリス時代を「一生で最も幸福な時期」と呼んでいますが、それは実に納得のできる話です。

一点一画も疎かにしない演奏


バッハ演奏からスタートしたリヒターは少しずつその守備範囲を広げていきました。そして、最後はブルックナーなんかも録音するようになっていってしまうのですが、私としては、それはどこかで進むべき道を誤ったような気がしてなりませんでした。
おそらく、バッハからスタートしてハイドンやモーツァルトへと少しずつ活動範囲を広げていくあたりは何の問題もなかったことは、この録音を聞いて確信できます。

ベルリン・フィルを相手にした録音と言うことなのですが、不必要に音楽は肥大化することもなく、まさに一点一画も疎かにしないハイドンはジョージ・セル等と似ているようでいながら、セルのように音楽全体を一つのバランスの中に構築しようとはしていないあたりに違いがあるような気がします。
どういう事かと言えば、セルなどはそうやって全体のバランスの中でハイドンを再構築することによって音楽全体を非常に流麗なものに仕上げています。しかし、リヒターの場合はハイドンが書いたあるがままの音を正確に再現すれば自ずからバランスは取れるように書かれているという確信があります。
ただし、正確なだけでは音楽は硬直しますから、そこで再現される一つ一つの音は生々しく響かせていて、そこにはベルリン・フィルの能力が大きく寄与しています。

そして、この録音を聞いていて、ふと、書道をやっている知人の言葉を思い出しました。
彼は、「アートとしての書道は私みたいな奴でも書けるが、本当にきちんとした楷書は書けない」というものでした。そして、その言葉を実感したのは、同じ職場でとんでもなく字の上手な若い子に出会ったときでした。
彼女の実家は書道教室をやっていたそうで、幼い頃から一日何枚と決められて徹底的に筆を握らせて「正しい楷書」を書かされたそうです。そして、夏休みになるとその枚数は一日に200枚にもなって、時にはそれが嫌で押し入れに隠れて泣いていたそうです。しかし、結局は母親に見つかって、かけられた言葉は「泣いてても終わらへんで」だったそうです。

つまりは、こういう徹底的な訓練を積み重ねてきた人でなければ「正しい楷書」は書けないのです。
彼女には表彰状の名前書きなどを頼んだのですが、受け取った人はそこに書かれた己の名前を見ては誰もが感嘆の声をあげていました。もっとも、それが「芸は身をたすく」なのか「滅ぼす」なのかは分かりませんが(^^;、そこには間違いなく鍛えあげられた本物の「芸」が存在していました。

そして、まさにリヒターにとってバッハとは、まさにそうやって身につけるべき「正しい楷書」を容赦なく突きつけてくる存在だったはずです。そして、リヒターの前半生はまさにそのような「正しい楷書」としてのバッハと命をかけて向き合う時だったのでしょう。

ここで聞くことのできるハイドンは、まさにそう言うバッハと向き合う中で見つけた基本的な音楽のスタイルをそのまま適用したものです。おそらく、リヒターほどにバッハと向き合った人でなければ為し得ないハイドンがここにあります。
しかし、おそらく、ブルックナー等というのはそう言う「楷書」のスタイルでは描ききれない世界を含んでいます。そう言う世界に踏み込んでいかざるを得なくなったあたりにリヒターの不幸があった丘もしれません。

さらにもう一つ付け加えれば、素人のまぐれ当たりみたいな「アートとしての書道」もこの世には存在し、それはそれでまた魅力的であるという「理不尽な現実」もあると言うことです。
それどころか、それは時には鍛え上げられた芸よりも魅力的に見えることもあったりするのです。
それ故に、私たちはそう言う本当の鍛えられた芸の凄さは理解できる耳は持っていたいとは思うのです。

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