クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~

モーツァルト:交響曲第5番 変ロ長調 K.22

シモン・ゴールドベルク指揮:ネーデルラント室内管弦楽団 1958年10月13~15日録音





Mozart:Symphony No.5 in B-flat major, K.22 [1.Allegro]

Mozart:Symphony No.5 in B-flat major, K.22 [2.Andante]

Mozart:Symphony No.5 in B-flat major, K.22 [3.Rondo finale]


子供の作品とは思えないダークな雰囲気がよぎる

交響曲第5番 変ロ長調 K.22


この作品のスコアには「シンフォニア/ヴォルフガング・モーツァルト作/デン・ハーグにて、1765年12月」と記されているので、ほぼ確実に翌年の1月22日にハーグで行われた公開コンサートのために作曲されたものだと思われます。
第1楽章にはテンポ表示がされていないのですが、これは特段の記述がなければ「Allegro」と解釈するのが当時の一般常識だったようです。つまりは、分かり切ったことは書かないと言うことなのでしょう。
そして、そのスタイルは当時の交響曲の基本であるイタリア風であるのは「学習の成果」と言うところなのでしょうか。

ところが、それに続くアンダンテ楽章では半音階や主要な声部の楽想を他の声部が模倣するという手法を取り入れて、子供の作品とは思えないようなダークな雰囲気を漂わせます。おそらく、このあたりがただ者じゃないモーツァルトの底深さがちらりと顔を見せるところなのでしょう。ただし、とある評論家はこの第2楽章のアンダンテに後のト短調シンフォニーの予告を感じると言った人がいたそうですが、それはザスロー先生も否定しているように、私もさすがに深読みが過ぎるかと思います。

しかし、こういうダークな雰囲気のままで音楽を閉じられるのはロマン派以降の事でしょうから、当然の事ながら終楽章ではロンド形式によるメヌエット風の音楽へと転換することで「学習の成果」を示しています。

神童モーツァルトの子ども時代の作品・・・初期交響曲


子ども時代の交響曲は神童モーツァルトの演奏旅行と密接に関わっていました。彼が、演奏旅行でヨーロッパ各地を旅行し、それぞれの土地で最新の音楽事情にふれるたびにそれらを己の中に取り込んでいきました。その演奏旅行は、長い間、父レオポルドが金儲けのために息子のヴォルフガングを連れましたように言われてきました。
しかし、最近ではヴォルフガングのために綿密に計画された教育のためだったと理解されています。
確かに、モーツァルトは並ではない天分を持って生まれてきました。しかし、その天分も父レオポルドによる綿密に計画された「英才教育」がなければ、二十歳すぎればただの人になっていたかもしれません。
その意味で、初期交響曲を聴く楽しみは、ヨーロッパ各地で様々な形で芽生え始めた交響曲という音楽形式をモーツァルトがどのように受容して(または、何を拒否して)、それらを己の中に取り込んでいったかを眺めることに尽きます。

子ども時代のモーツァルトは父に連れられて大きな旅行を4回行っています。ですから、交響曲を概観するときはこの4つの旅行に沿って概観することが必要です。

初めての演奏旅行(1763年~1766年):ミュンヘン、フランクフルト、パリ、ロンドン

  1. 交響曲第1番 変ホ長調 K.16

  2. 交響曲 ヘ長調 K.A.223(1981年に楽譜が発見され真作と確定)

  3. 交響曲第4番 ニ長調 K.19

  4. 交響曲第5番 変ロ長調 K.22

  5. 交響曲 ト長調 "Old Lambach" K.A.221
    これにまつわる話を始めるととても長くなるのですが、結論だけ言えばザスロー先生のご尽力で真作として確定しました(^^v


神童モーツァルトの名をヨーロッパ中に広めた最初の演奏旅行ですが、この演奏旅行の途中において64年の暮れから65年の初めにかけて滞在したロンドンにおいて最初の交響曲(第1番 変ホ長調 K.16)が書かれます。
書くきっかけとなったのは、父レオポルドがロンドンで病気のために臥せってしまい、することがなくなって手持ちぶさたになったモーツァルトが暇つぶしに書いたという話が伝わっています。

もちろん真偽のほどは定かではありません。
何故ならば、レオポルドはザルツブルグの家主であるハーゲナウアー宛てに演奏会を開くことを伝え、その中で「交響曲はすべてヴォルフガングが書いたものです」と記しているからです。おそらくは、今までの「教育」の成果を確かめるとともに興行的な成功も当て込んでモーツァルトにこの課題を与えたと見る方が妥当なのではないでしょうか。

この時期の交響曲は10才にも満たない「子ども」時代の作品なのですから、それほど多くのものを期待されても困るでしょう。しかし、それでも第1番の交響曲においてすら、明るく無邪気なだけの音楽ではなく、後のモーツァルトを予感させるような影が走る場面があることも事実です。
それでもなお、これらをもってモーツァルトを天才と断ずるのは明らかに誤りです。
10才にも満たない「子ども」がこのような交響曲を書いたことを持って「天才」と呼ぶのならば、それはあまりにも音楽史に疎いと言わざるを得ません。実際、ロッシーニを初めとしてこのような「早熟」の子どもは何人も指摘できます。
モーツァルトが天才だと言われるのは、ただ単に「早熟」だったからだけでなく、この地点から誰も考えつかないほどに遠くまで歩き通したからです。

「モーツァルトが最初の無邪気なシンフォニー(K.16)から、ジュピター=シンフォニーと名付けられれているハ長調シンフォニー(K.551)に至るまでにたどった道は、ハイドンの最初のシンフォニーから最後のロンドン=シンフォニーに至る道よりもはるかに遠いのである。」(アインシュタイン)

ウィーン旅行(1767年~1769年)

  1. 交響曲 ヘ長調(第43番) K.76(真作かどうかについて見解が分かれている)

  2. 交響曲第6番 ヘ長調 K.43

  3. 交響曲第7番 ニ長調 K.45

  4. 交響曲 変ロ長調(第55番) K.A.214(真作とされているが一次資料は失われているので疑問は残る)

  5. 交響曲第8番 ニ長調 K.48

  6. 交響曲第9番 ハ長調 K.73(75a)


モーツァルト父子は西方への大旅行からザルツブルグに帰郷したのは1766年の11月26日だったと伝えられています。そして、彼らはその翌年の9月には早くもウィーンへの演奏旅行へと出発していきます。彼らは、ウィーンを中心として活発に演奏活動を続け、この旅行も1769年1月までの長きに達します。
モーツァルトはこの旅行において、前古典派と呼ばれるヴァーゲンザイルやモンなどの作風を学び、さらには規模の大きなウィーンのオーケストラも念頭に置いてトランペットやティンパニーも追加された4楽章構成の交響曲を初めて書きます。言うまでもなく、このスタイルこそがハイドンとモーツァルトによって「交響曲」というジャンルに昇華されていくことになるのです。

第1回イタリア旅行(1769年~1771年)

  1. 交響曲 ニ長調(第44番) K.81(最近はレオポルドの作とする説が有力)

  2. 交響曲 ニ長調(第47番) K.97(真作とされているが一次資料は失われているので疑問は残る)

  3. 交響曲 ニ長調(第45番) K.95(真作とされているが一次資料は失われているので疑問は残る)

  4. 交響曲第11番 ニ長調 K.84(自筆譜がないために疑問は残るが、様式研究などから真作とされている)

  5. 交響曲第10番 ト長調 K.74


ウィーンでの長逗留を突然に切り上げたレオポルドは同じ年の12月にいよいよという感じで「音楽の国、イタリア」へと向かいます。このあたりの旅行計画も冷静な目で眺めてみれば実に周到に計画されたエリート教育であることに気づかされます。
ただし、この旅行で書かれた交響曲は正直言って面白味に欠けるものばかりです。また、自筆譜がほとんど失われているために真偽の判定も未だに藪の中というものが少なくありません。
また、当時のイタリアのシンフォニアではメヌエット楽章を持たない3楽章構成が基本なのですが、モーツァルトの手になるこれらの「イタリア交響曲」はメヌエット楽章を持つ4楽章構成となっています。そのために、学者の中にはそれらのメヌエット楽章は後から追加されたものだという説を唱える人もいますが、これもまた藪の中です。
しかし、モーツァルトは書簡の中で「ドイツのメヌエットをイタリアに紹介しなければいけない」と述べていますから、その言葉を額面通りに受け取ればドイツ風のメヌエットをイタリアに紹介するためにあえてこのような形式にしたということも納得できます。

第2回イタリア旅行(1771年)>

  1. 交響曲 ヘ長調(第42番) K.75(様式的にも偽作の疑いが強いとされる)

  2. 交響曲第12番 ト長調 K.110

  3. 交響曲 ハ長調(第46番) K.96

  4. 交響曲第13番 ヘ長調 K.112


第1回のイタリア旅行から戻ってわずか5ヶ月ほどでモーツァルトは2回目のイタリア旅行に出発します。今度は、ミラノの宮廷からオペラの作曲と演奏を依頼されてのものでした。
ですから、今回は第1回の旅行のようにイタリア各地を巡るのではなく、基本的にミラノでの長逗留というのが実態でした。この逗留は71年8月から12月までと、72年10月から73年3月までの2回に分けられます。ちょうど高校生程度の最も多感な時代を音楽の国であるイタリアにおいて、その音楽の中にどっぷりとつかるような生活をおくったことはモーツァルトの「天才」をより確かなものとしたはずです。

わずか9才で交響曲を書いた早熟な子どもは、ただの早熟で終わることなく、本当の意味での「天才モーツァルト」への歩みをはじめたのです。

底に流れる「風格」のようなものを感じとってほしい


以前に指揮者としてのゴールドベルクを紹介したときに、「意外と知られていない指揮者としての活動」と書いたのですが、考えてみれば山根美代子と再婚して日本に居を移してからは新日本フィルハーモニー交響楽団の指揮活動を行っていたのですから、日本では指揮者としての「ゴールドベルク」はそれなりに認識されていたのかもしれません。しかしながら、彼の指揮者としての活動の原点はやはり「ネーデルラント室内管弦楽団(オランダ室内管弦楽団)」です。
そして、その本領が一番発揮されたのはバッハ演奏だったというのが世間一般の評価らしいです。

確かに、彼のブランデンブルグ協奏曲は「峻厳さだけでないバッハ」の姿を十分すぎるほどに説得力を持って描き出していましたから、その世評は間違いではありません。
しかしながら、数は少ないですが、バッハ以外の録音にも地味ではあるものの優れた演奏を多く残してくれました。残念なのは、ゴールドベルクとネーデルラント室内管弦楽団との結びつきは20年を超えるほどに長いものだったにもかかわらず、その録音はあまり多くは残されていないようなのです。

そんな中で今私の手もとには以下の4つのモーツァルト作品の録音があります。

  1. モーツァルト:セレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」K.525

  2. モーツァルト:交響曲第5番 変ロ長調 in B flat K.22

  3. モーツァルト:交響曲第21番 イ長調 K.134

  4. モーツァルト:交響曲第29番 イ長調 K.201 (186a)


「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」はメジャーな作品ですが、それ以外はモーツァルトの交響曲の中でもマイナーな作品です。とりわけ、第5番と第21番はかなりマイナーな作品です。
ゴールドベルクが何故にこのような選曲を行って録音活動を行ったのかは分かりませんが、いわゆる後期の交響曲のようなメジャー作品ではお呼びがかからなかったのかもしれません。

しかしながら、これらの残された録音を聞いてみると、これが実にいい感じの音楽に仕上がっているのです。
基本的に室内管弦楽団ですから、最初からベームやヨッフムのような重量級のモーツァルトになるはずはないことは分かっています。しかし、そのまろやかな響きはモーツァルト的な愉悦感に満ちていて、その底には不思議な風格のようなものが備わっているのです。それは、少年時代のホンのちょっとした小品である第5番の交響曲においても同様です。

この「風格」のようなものって、意外と感じ取れる演奏は少ないのです。言うまでもないことですが、いわゆるピリオド演奏などと言うものに根本的に欠けているのがこの「風格」のようなものです。

そして、考えてみれば、彼はモーツァルトという作曲家が「子供向けの可愛い音楽をたくさん書いた人」としか認識されていなかった戦前において、すでにリリー・クラウスとのコンビで素晴らしいヴァイオリン・ソナタの録音を残していた人なのです。
彼は、モーツァルトという音楽家の真価を早い時期から知り尽くしていた数少ない優れた音楽家の一人でした。それは、あのブラームスが「ほんとうに素晴らしい音楽というものはモーツァルトの音楽のようなものなのだが、幸いにしてほとんどの人がその事を知らないので、私たちのようなものでも作曲家として生きていくことが出来る」と語ったことと肩を並べられるほどのことだったのかもしれません。

ですから、彼のモーツァルトは誰の物まねでもない、彼自身の内面から深く共感した音楽として表現されているのです。
それは、超マイナーな作品ほど、その本領が発揮してくれているように感じます。もちろん、メジャーな「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」や、そこそこ知名度のある29番の交響曲(K.201)においても悪い演奏であるはずはないのです。ただし、そのあたりになるとライバルが多いですね。(^^;

何気に聞き流してしまうと、何とも気持ちよく音楽が流れていくように見えるのですが、その底に流れる「風格」のようなものを感じとってくれると嬉しいです。

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