クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~

バッハ:教会カンタータ 「深き淵より われ汝に呼ばわる、主よ」 BWV131

ギュンター・ラミン指揮 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団 トーマス教会少年合唱団 (Org)Hannes Kastner (A)Lotte Wolf-Matthaus (T)Gert Lutze (Bass)Johannes Oettel 1953年4月10日録音





J.S.Bach:Aus der Tiefe rufe ich, Herr, zu dir, BWV 131 [1.Chorus: Aus der Tiefen rufe ich, Herr, zu dir]

J.S.Bach:Aus der Tiefe rufe ich, Herr, zu dir, BWV 131 [2.Arioso and Chorale (soprano, bass): So du willst, Herr, Sunde zurechnen]

J.S.Bach:Aus der Tiefe rufe ich, Herr, zu dir, BWV 131 [3.Chorus: Ich harre des Herrn, meine Seele harret]

J.S.Bach:Aus der Tiefe rufe ich, Herr, zu dir, BWV 131 [4.Aria and Chorale (alto, tenor): Meine Seele wartet auf den Herrn von einer Morgenwache]

J.S.Bach:Aus der Tiefe rufe ich, Herr, zu dir, BWV 131 [5.horale: Israel hoffe auf den Herrn; denn bei dem Herr]


悔い改めの礼拝

バッハ:教会カンタータ 「深き淵より われ汝に呼ばわる、主よ」 BWV131


バッハの自筆楽譜が残されていて、そこには「ミュールハウゼンの聖マリア教会の牧師アイルマーの要請によって書いた」と記されていますので、バッハのミュール ハウゼン時代の作品であることは間違いないようです。

用いられている歌詞は旧約聖書詩編130番と既存のコラール詩節なのですが、この旧約聖書詩編130番は悔い改めの詩編と呼ばれてきた詩編群のひとつで、自己の罪深さを自覚し、その絶望からの救いを神に呼びかけ、最後は神による救済を信じるという内容になっているそうです。
この内容からこのカンタータは「悔い改めの礼拝」という場で演奏されたことは間違いないようなのですが、それは教会暦には含まれていないので、いつ初演されたかは不明のようです。
バッハのミュール ハウゼン時代は1707年から1708年までの一年にも満たない短い期間なので、バッハが20代前半だったごく初期の教会カンタータの一つであると言えます。

作品の構成は後のバッハのスタンダートとはかなり異なっていて、合唱と独唱が交互に繰り返されるというスタイルになっています。
第1曲は管弦楽による序奏に続いて「深き淵から、主よ、私はあなたに呼びかけます、主よ、私の声を聞いて下さい。」という罪の告白からはじまり、第2曲ではバスのアリアが「もしあなたが、主よ、罪を咎めようとなさるなら、主よ、いったい誰が耐えられるでしょう。」と歌い上げると、ソプラノが「私をあわれんで下さい、罪の重荷を負う私を、この重荷を私の心から取り去って下さい」というコラールをそれに重ねていきます。
このアリアとコラールの重ね方が実見魅力的です。

そして第3曲では再び合唱が「私は主を待ちこがれる、私の魂は主を待ちこがれ、私は主の御言葉に希望を置く」と歌うと、第4曲でも「私の魂は主を待ちわびる、夜明けを告げるわずかな光も見逃すまいと、私の魂は主を待ちわびる」と歌うテノールがのアリアに、「なぜなら私はこの心の中では前からずっと嘆き続けてきたように、あわれむべき罪びとのひとりに過ぎず、いつも良心にさいなまれているのですから」と歌うアルトのコラールが重なっていきます。

そして、最後は再び合唱で「イスラエルよ、主を待ち望め。主のもとにはあふれるほどの恵みがあり、主のもとには豊かな贖いがあるのだから。」と神の救済を信じて全曲が閉じられます。
なお、このカンタータは、バッハ着任の直前に起こった大火を神の怒りと受け止めた市民たちが、それに対する悔い改めのために求めたものだと言われています。

バッハの教会カンタータの概要



バッハの教会カンタータを総括的に纏め上げてその詳細を述べる能力はありません。さらに言えば、すでに多くの優れたサイトが存在しますので、詳しくはそちらへ!と済ませたいところです。
しかし、それではあまりにも不親切ですし、さらには自分自身の勉強のためという意味合いも込めて、できる範囲で概観しておきたいと思います。

まずは、「バッハの教会カンタータとはどのような音楽」だったのか?ということです。

ドイツにおいては、今でも日曜日の礼拝でバッハのカンタータを演奏することは日常的な出来事です。それこそ、大小様々な教会において、アマチュアのみならず有名なプロの演奏家もまじえてそれらのカンタータが演奏されます。
若い頃に何度かヨーロッパを訪れたときには、そのおこぼれに預かったことが何度かあります。
ですから、バッハの教会カンタータはドイツ人の中においては血肉化していると言っていいほどです。

しかし、年の暮れが近づいたときにだけ「にわかキリスト教徒」になり、それから1週間もすれば神社で手を合わせるような国民にとってはその音楽はなじみが深いとは言えません。

また、それなりにクラシック音楽を聴きなじんでいる人でも、その音楽の佇まいは古典派以降の音楽とはかなり異なります。
そう言う意味では、古典派の時代になると、バッハの音楽が時代遅れの遺物として忘れ去られた事には理由があるのです。

ですから、「バッハの教会カンタータとはどのような音楽」だったのか?と言う問いに明確な形を得ようとすれば、メンデルスゾーンとともにバッハ・ルネッサンスを実現させたハウプトマンの言葉はきわめて有益です。
ハウプトマンはバッハの教会カンタータを列車にたとえて、次のように説明してくれています。
まずは、先頭に機関車役の導入合唱がきます。
そして、その機関車に引っ張られるように客車であるアリアやレチタティーボが続きます。
最後に、郵便列車とも言うべきコラールが連結されます。


もちろん、200をこえるカンタータの全てがこのような形式を持っているわけではありませんが、しかしこの「概観」は私たちにスタンダードとなるべき一つのフォルムを与えてくれます。
そして、列車にとってそれを引っ張っていく機関車が主役であるのと同様に、カンタータにおいても冒頭合唱こそが最も重要なんだと言うことをはっきりと示してくれます。

つまりは、バッハの教会カンタータとは強力な冒頭合唱によって音楽全体が牽引され、そこに伝統的なイタリア・オペラのように魅力あふれる詩を歌い上げるアリアとレチタティーボが展開し、最後をコラールが締めくくるのです。
音楽を聴くには蘊蓄は不要とは言いますが、それでもこういうフォルムが頭に入っているのといないのとでは、やはり聞きやすさは随分と違ってきます。

次の問いかけは、「バッハの教会カンタータの適切なグルーピングは如何に?」です

さすがに200をこえるカンタータを一つの括りとしてとらえるのは、ちと、しんどい話です。
そこで、たとえば創作の年次や形式などによっていくつかのグループにまとめることができれば、全体像の把握がやりやすくなります。

と言うことで、まずは創作年次によるグルーピングです。
残された記録によると、バッハはその生涯において300をこえるカンタータを創作したと言われていますが、現在まで楽譜が残っているのは200程度です。そして、その残されたカンタータの成立年次を調べてみると、最初期のミュールハウゼンのオルガニスト時代(1707年)から最後のライプツィヒ時代の中頃(1735年)までにわたります。
つまりは、教会カンタータという音楽形式による創作活動はバッハの生涯のほぼ全てを覆っているわけで、このような音楽形式はこれ以外ではオルガン曲しか存在しません。その意味では、教会カンタータを通してバッハという音楽家の全体像を概観できると言うことを意味しています。

しかし、さらに細かく見ていくと、ミュールハウゼン時代からライプツィヒ時代にわたって満遍なく創作活動が続けられたわけではないことに気づきます。

ミュールハウゼンのオルガニスト時代はわずか1年しかなかったのですから、この時代の作品が少ない(おそらく6曲)ことは納得がいきます。

そして、それに続くヴァイマール時代(1708年~1717年)は、楽士長に就任した1714年からは月に1曲の教会カンタータの創作が義務となったので、バッハは4年をかけて1教会暦年を満たすことのできるカンタータのセットを創作しようとしたようです。しかし、この試みは人事上のいざこざとすったもんだの末にバッハがこの宮廷を去ってしまったので、志半ばで放棄されてしまうことになります。
しかし、この時代に生み出されたカンタータはミュールハウゼン時代のカンタータとは全く異なる音楽になっています。それは、ハウプトマンが指摘したような、強力な冒頭合唱によってアリアとレチタティーボが牽引される、バッハ独特の形式がこの時代に出来上がったことを教えてくれます。
この時代に創作された教会カンタータはおそらく22曲程度だろうと思われます。

ところが、これに続くケーテン時代(1717年~1723年)にはいると教会カンタータの創作はぱたりと途絶えます。それは、ケーテンの宮廷がカルヴァン派だったために、教会での礼拝に大規模なカンタータを必要としなかったからです。新年や領主の誕生日には世俗カンタータが演奏されたようなのですが、そのあたりのことも含めて詳細はよく分かっていないようです。
ただし、この時代のバッハは教会の仕事から解放されたが故に、器楽や室内楽による世俗音楽を(無伴奏のチェロやヴァイオリンの組曲、ブランデンブルク協奏曲や管弦楽組曲など)大量に生み出すこととなります。

そして、これに続くライプツィヒ時代(1723年~1750年)こそが、バッハの教会カンタータにとっての黄金時代となります。

ライプツィヒ市のトーマス・カントールという地位についたバッハは、教会における日曜礼拝を全て自作のカンタータで行うことを目指します。この壮大な試みは1723年5月30日にスタートし2年後の1725年5月27日まで続けられます。さらに、同じ年の12月25日のクリスマスからスタートし翌年の11月24日までの1年間もほぼ切れ目なく自作のカンタータで礼拝を行ったようです。
結果として、このバッハの精勤によって、キリスト教会は3年分のカンタータのセットを手に入れることになります。そして、ドイツの教会は、今も日曜日になると、このバッハのカンタータを倦むことなく演奏し続けることができるのです。

さすがに、1727年以降になると、新作のカンタータを創作する必然性が低下するので作曲のペースは次第に低下していくのですが、それでも資料などによると1735年頃まではポツポツと生み出されていたようです。

ですから、ザックリとグルーピングをすれば以下のようになります。



  1. 若き日のミュールハウゼン時代の作品(4・131・106・71・196・150):初期様式

  2. ヴァイマール時代(18・208・12・21・54・61・152・172・182・199・31・80・132・161・162・163・165・185・63・70・155・186・147):バッハの独自な様式が確立

  3. ケーテン時代:教会カンタータの創作から離れる

  4. ライプツィヒ時代(1723年~1725年):(22・23・24・25・40・46・48・64・69・70・75・76・77・89・90・95・105・109・119・136・138・147・167・179・186・194・60・148・158・2・5・7・8・10・20・26・33・37・38・44・59・62・65・66・67・73・78・81・83・86・91・93・94・96・99・101・104・107・113・114・115・116・121・122・130・133・134・135・139・144・153・154・166・178・180・181・184・190・80・173・1・3・6・28・36・41・42・57・68・74・85・87・92・103・108・110・111・123・124・125・126・127・128・151・164・168・175・176・183):教会カンタータ創作の黄金時代(1)

  5. ライプツィヒ時代(1725年~1726年):(79・137・13・16・17・19・27・35・36・39・43・45・47・49・52・55・56・72・88・98・102・169・170・187):教会カンタータ創作の黄金時代(2)

  6. ライプツィヒ時代(1727年~1735年)(129・58・82・193・84・188・197・146・157・120・149・117・216・174・120・145・156・159・171・51・120・192・29・112・140・177・9・100・97:やりきった後にも生み出された作品



参考にした資料は「作曲家別名曲ライブラリー」の巻末データです。(あー、しんどかった^^;)

バッハという音楽家は若くして完成していたとも言われるのですが、この教会カンタータのように、その時々のアイデアや実験的試みを野心的に投入した作品だと、初期のミュールハウゼン時代からライプツィヒの黄金時代に向けて成熟を深めていく様子が様子がうかがえます。特に導入合唱の充実ぶりはライプツィヒの黄金時代の特徴だと言えます。

リヒターの師、ギュンター・ラミン


お恥ずかしい話ですが、ギュンター・ラミンについては全く知りませんでした。ですから、彼の棒による教会カンタータを聞き通してみて思ったことは、「まるで、リヒターのような音楽を作る人だな」と言うことでした。全く持って、お恥ずかしい限りです。
そうです、ラミンの音楽がリヒターに似ているのではなくて、リヒターがラミンに似ているのです。

ラミンは第2次大戦後のドイツ分裂という困難な状況の中で伝統的なバッハ演奏の伝統を守り続けた人なのです。しかし、この演奏を聴いて分かるように、「伝統とは怠惰の別名」といわれるようなルーティンワークに陥るのではなくて、一切の虚飾を廃した厳格なバッハ像を築き上げたのがラミンなのです。そして、このラミンのもとでチェンバロ奏者として腕を磨き薫陶を受けたのがリヒターなのです。
私たちは、リヒターが1957年に録音したマタイ受難曲をきくとき、今までのロマンティックに歪曲されたバッハ像の中から突然にあのような演奏があらわれたように見えました。それは、東西分裂下の不幸な状況下で1956年にラミンが急死したことによって彼の業績が正しく伝わらなかったからだと、この一連の録音をきくとき痛切に思い知らされます。

リヒターによる歴史的なバッハ演奏の業績はこのような前段階があったからであり、改めて歴史は一人のヒーローによって作られるものではないことを教えられます。
ただし、それは以前にセルとブーレーズの関係についていささか「にくそい」事を書いたことがあるのですが、ラミンとリヒターの関係はそれとは根本的に異なります。何故ならば、明らかにリヒターはラミンに学びながらも、そこから新しい地平を切り開いて一歩前に進んでいったからです。
ならば、今さら50年代前半に録音された古いモノラル録音でラミンによる教会カンタータなどを聴く値打ちはないのかと言えば、それはそうとも言い切れないことにも気づかされたのです。
その理由が二つあります。

一つめは、ラミンは合唱に少年合唱団を使い、ソプラノとアルトのソリストには、時と場合によっては合唱団の少年を使っているのです。(Soloists from Thomanerchor Leipzigと記述しています。)
それは、リヒターが率いるミュンヘン・バッハ合唱団と比べれば幼さがありますし、ソリストの少年たちの歌声ではその幼さはより際だって、時には稚拙でさえあります。特に少年のソリストに関しては最初に聞いた時はいささか違和感を覚えたのですが、慣れてくるうちにその「幼さ」や「稚拙」さが次第に神に寄せる無垢なる帰依を際だたせていることに気づいたのです。

おそらく、ソプラノやアルトに少年を起用したのは、そう言う「無垢」さがその音楽により相応しいと判断したからであって、そうでないときはしっかりとした大人によるソリストを起用しています。
ですから、そう言う少年たちがソリストに起用された演奏にはリヒター盤にはない魅力が溢れています。

二つめは、リヒターによる教会カンタータの録音が70年代以降に集中していることです。それが何故ラミン盤の存在価値になるのかと言えば、70年代以降のリヒターは誰の耳からしても明らかに衰えを否定しきれなかったからです。つまりは、私たちがリヒターに期待する、そしてリヒターが切り開いた地平に存在する教会カンタータとして満足できない部分が多いのです。
その意味では、おかしな言い方になりますが、リヒターによる70年代の教会カンタータよりは、50年代前半のラミンの教会カンタータの方がよりリヒターらしい音楽に聞こえてしまうのです。

それにしても、わずか58歳で1956年にラミンが急逝したのは大きな損失でした。
伝えられる話ではアルヒーフ(Archiv)レーベルはラミンを中心としてバッハのカタログを形づくっていく計画を立てていたそうです。しかし、その計画はラミンの急逝によって頓挫し、結局はその後釜としてラミンの弟子であったリヒターを起用することになったのです。そして、師であったラミンの急逝を切っ掛けとしてリヒターは世界的指揮者としての名声を獲得しバッハ演奏に一つの「革命」をおこしたのです。おそらく、そうなっていけた原動力の背景には亡き師の思いを引き継ごうという強い思いもあったことでしょう。

なお、このラミンによる録音は40年代後半から50年代前半にかけて録音されたのですが、何故か長く発売されることがなく塩漬けにされていました。
やはり、絵画の世界でも同様ですが、本人が亡くなってしまうと商業的には価値が下がってしまうのでしょうか。
しかし、頑張って調べた結果1965年までには全ての録音がリリースされていることが分かりました。

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