ベートーベン:ピアノ・ソナタ第23番「熱情」 ヘ短調 Op.57
(P)ヴィルヘルム・ケンプ 1964年9月15日~18日録音
Beethoven: Piano Sonata No.23 In F Minor, Op.57 "Appassionata" [1. Allegro assai]
Beethoven: Piano Sonata No.23 In F Minor, Op.57 "Appassionata" [2. Andante con moto]
Beethoven: Piano Sonata No.23 In F Minor, Op.57 "Appassionata" [3. Allegro ma non troppo]
ベートーベンの中期ソナタの最高傑作と言って間違いはないでしょう。
それは、「テンペスト」によって「新しい道」へと踏み出すことを宣言したベートーベンが、「ワルトシュタイン」を経て、この「アパショナータ」によって一つの到達点に達したことを意味しています。そこには古典的均衡の中で行儀よくおさまっていた時代の音楽の姿はどこを探しても見あたらないように思えます。
外面的には荒れ狂うようなパッションにあふれていて、それこそが彼が求めた「新しい道」であったことは間違いありません。そして、その「新しい道」がピアノソナタというジャンルにおいて完成したことによって、交響曲の分野ではハ短調の交響曲、弦楽四重奏曲の分野ではラズモフスキーのセットが生み出されていくのです。
そこには、ピアノソナタによって「切り開き」、交響曲の分野でより「深化」させ、弦楽四重奏曲において「純化」させるという彼の定式が見事なまでにあてはまっているのです。
しかし、ここで注意が必要なのは、その様な荒れ狂う「パッション」は、そこに至るまでに彼が徹底的に身につけた18世紀的なソナタの技法によって裏打ちされていると言うことです。
つまりは、彼がここで実現した人間的感情の発露は寸分の隙もないほどに造形された構成によって実現されていると言うことです。
フルトヴェングラーの先生でもあった音楽学者のワルター・リーツラーは「聞き手として冷静さを失わない人だけが、この作品でも荒々しく狂喜するパッセージや激しく動揺する旋律を支配している統御力を感じとる」事が出来ると述べています。
この言葉はフルトヴェングラーの指揮を理解する上での重要なヒントになりそうな気もするのですが、それはひとまず脇においておくとして、それはローゼン先生の「ベートーベンの音楽は演奏者にも聞き手にも傾注を要求する」という言葉とも響きあいます。
リーツラーは聞き手に冷静を求めてるのですが、言うまでもなく演奏する側にはそれ以上の冷静さが必要なことは言うまでもありません。
伝えられる話では、ベートーベンは出版社が勝手につけた「熱情(アパショナータ)」というタイトルは気に入らなかったようです。
なぜならば、その様な荒れ狂う「パッション」はこの作品の一つの側面にしかすぎず、例えば冒頭の出だしの部分からして悲劇的な性格が表明されているからです。さらに、変奏曲形式で書かれた「アンダンテ・コン・モート」では、その様な激しい「パッション」とは真逆の平安の世界が表明されているからです。
それは、彼が追求した人間的感情とは荒れ狂うようなパッションだけで出来てるものではなくて、もっと複雑で多様な要素を内包しているという当たり前のことに思い至れば、それは当然の事だと言えます。
例えば、ヘ短調で書かれた冒頭楽章において、短調の音楽がもつ悲劇的な雰囲気を維持しながら、そこに平行長調(変イ長調)の大らかな音楽を実に上手く組み込まれているのです。
不気味な「運命の動機」による第1主題と、この美しく希望に満ちた第2主題は見事なまでの対比を示しています。
そして、短調の調性をもった音楽に2番目の調性として平行長調を組み込むことは伝統的にやられてきたことですが、その二つがこれほど見事に組み合わされた例は存在しませんでした。
そして、ローゼン先生によれば、短調の音楽においてこの二つの調性をどのように統合するかという問題が「存在」していたことを、ベートーベンはこの作品においてはじめて多くの人に気づかせたというのです。
言うまでもなく、短調の音楽に長調の音楽が導入されればそこで感情のコントラストが際だつのですが、そのコントラストが不統一なままで放置されていてもそれが「問題」として意識されることはなく、その不統一は「容認」されてきたと指摘しています。
しかし、その統一はそれほど簡単なことではなく、その「難問」を「多様なリズムを制御する安定した拍が、和声と調性のコントラストを統合している」と述べています。
このあたりになるとなかなか理解出来なくなってくるのですが(^^;、それでもベートーベンが挑み続けた人間的感情の発露というものが、きわめて精緻な音楽的造形によって成し遂げられていることは感じ取れます。
そして、この事は演奏家に対してとんでもない困難を突きつけます。
ある人はその事を「氷のような冷静沈着さを持って荒れ狂わねばならない」と述べたのですが、そのパラドックスはピアニストに大変な困難を課すのです。
なぜならば、禁欲的なまでにその音楽的な構成を再現してみせないと作品はガタガタになるのですが、それをきちんと仕上げるだけでは肝心のパッションがスポイルされてしまうからです。
しかしながら、その困難さゆえに多くのピアニストがチャレンジし続けた作品だと言えます。
ただし、冷静に狂うのは難しい!!
- 第1楽章:アレグロ・アッサイ ヘ短調 (ソナタ形式)
- 第2楽章:アンダンテ・コン・モート 変ニ長調 4(変奏曲形式)
一つの主題と3つの変奏から成り立っています。変奏されるたびに速度は倍加していき(4分音符→8分音符→16分音符→32分音符)、音域も1オクターブ上がります。
この変奏曲は限りなく美しく、激しい闘争はこの美の中に埋没していきます。
- 第3楽章:アレグロ・マ・ノン・トロッポ ヘ短調 (ソナタ形式)
とどまることのない無窮道の音楽であり、あらゆる障害を蹴散らして驀進していくベートーベンの姿がここにはあります。
また、ベートーベンは自筆譜に大文字で「後半は2度演奏する」と書き込んでいます。これは、このソナタ形式の音楽にロンド的性格を与えることで、コーダに登場する新しい主題の効果を最大限に引き出すためだと考えられています。
そして、最後の部分における輝きの素晴らしさは今までのピアノ音楽の限界を打ち破るものでした。
神から与えられた恩寵がケンプというエオリアンハープを通して鳴り響く演奏
演奏家の本質的な部分を考える上で「コンプリートする人」と「コンプリートにはこだわらない人」というのは一つの指標になるはずです。
しかし、世の中は常に「例外」が存在するのであって、この二分法が全く意味をなさない演奏家というものも存在します。やはり、そう言うシンプルな「図式論」で割り切れるほど現実はシンプルではないと言うことなのでしょう。
一般的にいって「コンプリートする人」というのはその一連の演奏に一貫した「論理」みたいなものが通底しています。ですから、その論理に従って一つずつの作品と丁寧に向き合い、じっくりと時間をかけて「全集」を完成させるというのが通常のスタイルです。
例えば、ピアニストで言えばバックハウスなどはその典型だと思うのですが、彼は2回目のベートーベンの全集に10年以上の時間をかけながら結果として29番のソナタを残してこの世を去りました。
モノラル録音による1回目の全集にしても1950年から1955年までの長い時間を要しています。
つまりは、じっくりと時間をかけて一つずつの作品と向き合って丁寧に仕上げていくのがそう言うタイプの演奏家の特徴なのです。
ところが、このケンプというピアニストに関しては、そう言う「常識」が通用しないのです。
外面的に見れば、彼は疑いもなく「コンプリートする人」の部類に入ります。
何しろ、彼はモノラル録音で1回、ステレオ録音で1回の計2回もベートーベンのソナタをコンプリートしているからです。最晩年には、当時は取り上げる人もそれほど多くなかったシューベルトのソナタもほぼコンプリートしています。
さらに調べてみると、ケンプは戦時中の1940年代にもベートーベンの全曲録音に取り組んでいました。
結果としてこの全集は未完成に終わったのですが、もし完成していればシュナーベルに続くコンプリートになる予定でした。
そしてもう一つ、1961年の来日の時にNHKのラジオ放送のためにベートーベンのソナタを全曲録音しているのです。
つまりは、彼はその生涯においてベートーベンのソナタの全曲録音に4回も取り組み、その内の3回は完成させているのです。
- 1940年~1943年:SP録音(未完成)
- 1951年~1956年:モノラル録音
- 1961年:ラジオ放送のためのライブ録音
- 1964年~1965年:ステレオ録音
61年のライブ録音は10月10日,12日,14日,16日,26日,27日,30日の7日間で行われています。来日時の限られた日程の中での録音だったのでそれは仕方がないことだったのですが、それ以外のセッション録音の方はクレジットを見る限りはそれなりに時間をかけて取り組んだかのように見えます。
ですから、外見上は疑いもなく「コンプリートする人」のように見えるのです。
ところが、詳しい録音のクレジットが残っている50年代のモノラル録音と60年代のステレオ録音をさらに細かく調べてみると、一見するとそれなりに時間をかけて取り組んだように見えながら、その実態は61年のライブ録音とそれほど変わりのないことに気づくのです。
例えば50年代のモノラル録音をもう少し詳しく見てみると以下のような日程で行われています。
- 1951年9月20日:作品110/作品111
- 1951年9月21日:作品90/作品106
- 1951年9月22日:作品57/ 作品78/作品79
- 1951年9月24日:作品53/作品81a
- 1951年10月13日:作品7
- 1951年12月19日:作品2-2/作品2-3/作品10-1/作品10-2
- 1951年12月20日:作品14-2/作品26/作品27-1/作品10-3/作品14-1
- 1951年12月21日:作品28/作品31-1/作品31-2
- 1951年12月22日: 作品31-3
- 1951年9月25日&12月22日:作品49-1
- 1951年10月13日&12月22日:作品2-1
- 1951年9月25日: 作品49-2/作品54/作品101/作品109
- 1953年1月23日:作品13
- 1956年5月3&4日:作品27-2
- 1956年5月4&5日:作品22
つまりは1951年の9月と12月の10日ほどの間に集中して録音がされていて、落ち穂拾いのように53年と56年に3曲が録音されているのです。
録音の進め方としては61年のライブ録音の時とそれほど大差はありません。
そして、それと同じ事がステレオ録音の方に言えるのです。
煩わしくなるのでこれ以上細かいクレジットは紹介しませんが、ザックリと言って、64年の1月に29番以降の後期のソナタを4曲録音して、その後は9月の4日間で中期の9曲、11月の4日間で初期作品を中心に12曲、そして年が明けた1月の4日間で残された7曲を録音して全集を仕上げているのです。
つまりは、誤解を恐れずに言い切ってしまえば、ケンプという人は「コンプリートにこだわらない人」の感性を持って「コンプリート」しているように見えるのです。
「コンプリートにこだわらない人」の特徴は己の感性に正直だということです。
ですから、普通そう言うタイプの人は「好きになれない音楽」「共感しにくい音楽」をコンプリートするためだけに無理して録音などはしないのですが、なぜかケンプという人は己の感性に従って淡々と録音をしていくのです。
そして、時には1950年12月20日のように、この一日だけで5曲も録音を仕上げてしまったりするのです。
ちなみにその前日には4曲を仕上げていますから、この2日間だけで全体の3分の1近くを仕上げてしまったことになります。
そして、その淡々とベートーベンの音楽を鳴り響かせるケンプの姿に接していると、ブレンデルの「ケンプはエオリアンハープである」という言葉を思い出さざるを得ないのです。
おそらく、ケンプにとってベートーベンやシューベルトの音楽は、好きとか嫌いなどと言う感情レベルで判断するような音楽ではなかったのでしょう。
それはまさに神から与えられた恩寵であり、その恩寵がケンプというエオリアンハープを通して鳴り響くだけだったのかもしれません。
風が吹けば鳴り、風が吹かなければ鳴りやむ、ただそれだけのことだったのかもしれません。
例えば、8番のパセティックの冒頭、普通ならもっとガツーンと響かせるのが普通です。29番のハンマークラヴィーアにしても同様です。
ところが、ケンプはそう言う派手な振る舞いは一切しないで、ごく自然に音楽に入っていきます。そして、その後も何事もないように淡々と音楽は流れていきます。
あのハンマークラヴィーアの第3楽章にしても、もっと思い入れタップリに演奏しようと思えばできるはずですが、ケンプはそう言う聞き手の期待に肩すかしを食らわせるかのように淡々と音楽を紡いでいきます。
普通、こんな事をやっていると、面白くもおかしくもない演奏になるのが普通ですが、ところがケンプの場合は、そう言う淡々とした音楽の流れの中から何とも言えない感興がわき上がってくるから不思議です。
おそらく、その秘密は、微妙にテンポを揺らす事によって、派手さとは無縁ながら人肌の温かさに満ちた「歌」が紡がれていくことにあるようです。
パッと聞いただけでは淡々と流れているだけのように見えて、その実は裏側で徹底的に考え抜かれた「歌心」が潜んでいます。
ケンプのモノラル録音全集に対してこういう言葉を綴ったことがあるのですが、このステレオ録音に対しても全く同じ事が、いやそれ以上にその言葉はステレオ録音の方にこそ相応しいのかもしれません。
しかし、彼の録音をさらに聞き込んでいく中で気づかされたのは、彼の魂とも言うべ「微妙にテンポを揺らす事によって」紡ぎ出される「人肌の温かさに満ちた歌」は、「徹底的に考え抜かれた歌心」ではなくて、まさに彼に吹き寄せる風によって生み出され多た「歌」だったと言うことです。そして、そう言う風が鳴り響かせる「歌」に身を任していれば、音楽にとってテクニックというものはどこまで行っても「手段」にしかすぎないと言うことを再認識させられるのです。
しかしながら、その「歌」の幻想的なまでの心地よさは認めながらも、それでもベートーベンの音楽には演奏する側にとっても聞く側にとっても「傾注」が必要だという事実にも突き当たります。
そして、ケンプの演奏はその様な「論理に裏打ちされた傾注」によって構築されたベートーベンではないことは明らかなのです。ベートーベンという音楽を象るアウトラインが曖昧であり、率直に言ってぼやけていると言われても仕方がありません。つまりは「緩い」のです。
もちろん、そう言う「傾注」と「エオリアンハープ」が同居することなどはあり得ない事ははっきりしています。
そして、その事が明確であるがゆえに、まさにそこにこそケンプの演奏の魅力と限界があると言わざるを得ないのです。
そう考えれば、彼のエオリアンハープ的資質が存分に発揮されるのはベートーベンではなくてシューベルトなんだろうと思われます。
しかし、そこから先のことはシューベルトの録音を取り上げたときに、さらに突っ込んで考えてみたいと思います。
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