モーツァルト:交響曲第39番 変ホ長調 K.543
レナード・バーンスタイン指揮 ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団 1961年3月20日録音
Mozart:Symphony No.39 in E-flat major, K.543 [1.Adagio; Allegro]
Mozart:Symphony No.39 in E-flat major, K.543 [2.Andante con moto]
Mozart:Symphony No.39 in E-flat major, K.543 [3.Menuetto e Trio]
Mozart:Symphony No.39 in E-flat major, K.543 [4.Allegro]
「後期三大交響曲」のなかではいささか影の薄い作品なのですが・・・
「後期三大交響曲」という言い方をされます。
それらは僅か2ヶ月ほどの間に生み出されたのですから、そう言う言い方で一括りにすることに大きな間違いはありません。しかし、この変ホ長調(K.543)の交響曲は他の2曲と較べると非常に影の薄い存在となっています。もちろん、その事を持ってこの交響曲の価値が低いというわけではなくて、逆にト短調(K.550)とハ長調(K.551)への言及が飛び抜けて大きいことの裏返しとして、その様に見えてしまうのです。
しかし、落ち着いて考えてみると、この変ホ長調の交響曲と他の二つの交響曲との間にそれほどの差が存在するのでしょうか?
確かにこの交響曲にはト短調シンフォニーの憂愁はありませんし、ハ長調シンフォニーの輝かしさもありません。
ニール・ザスローも指摘しているように、こ変ホ長調というフラット付きの調性では弦楽器はややくすんだ響きをつくり出してしまいます。さらに、ザスローはこの交響曲がオーボエを欠いているがゆえに、他とは違う音色を持たざるを得ないことも指摘しています。
つまりは、どこか己を強くアピールできる「取り柄」みたいなものが希薄なのです。
しかし、誰が言い出したのかは分かりませんが、この交響曲には「白鳥の歌」という言い方がされることがありました。しかし、それも最近ではあまり耳にしなくなりました。
「白鳥の歌」というのは、「白鳥は死ぬ前に最後に一声美しく鳴く」という言い伝えから、作曲家の最後の作品をさす言葉として使われました。さらには、もう少し拡大解釈されて、作曲家の最後に相応しい作品を白鳥の歌と呼ぶようになりました。
当然の事ながら、この変ホ長調の交響曲はモーツァルトにとっての最後の作品ではありませんし、「作曲家の最後に相応しい作品」なのかと聞かれれば首をかしげざるを得ません。
今から見れば随分と無責任で的はずれな物言いでした。
ならば、やはりこの作品は他の2曲と較べると特徴の乏しい音楽と言わざるを得ないのでしょうか。
しかし、実際に聞いてみれば、他の2曲にはない魅力がこの交響曲にあることも事実です。
しかし、それを頑張って言葉で説明することは「モーツァルトの美しさ」を説明することにしか過ぎず、結果として「美しいモーツァルト」を見逃してしまうことに繋がります。
ただ、そうは思いつつ敢えて述べればこんな感じになるのでしょうか。
まずは、第1楽章冒頭のアダージョはフランス風の序曲であり、その半音階的技法で彩られた音楽の特徴がこの交響曲全体を特徴づけています。そして、この序曲が次第に本体のアレグロへの期待感を抱かせるように進行しながら、その肝心のアレグロが意外なほどに控えめに登場します。そして、ワンクッションおいてから期待通りの激しさへと駆け上っていくのですが、このあたりの音楽の運び方は実に面白いです。
続く第2楽章は冒頭のどこか田園的な旋律とそこに吹きすさぶ激しい風を思わせるような旋律の二つだけで出来上がっています。この少ないパーツだけで充実した音楽を作りあげてしまうモーツァルトの腕の冴えは見事なものです。
そして、この交響曲でもっとも魅力的なのが続くメヌエットのトリオでしょう。これは、ワルツの前身となるレントラーの様式なのですが、その旋律をクラリネットに吹かせているのが実に効果的です。
しかしながら、この交響曲を聞いていていつも物足りなく思うのがアレグロの終楽章です。
これは明らかにハイドン的なのですが、構造は極めてシンプルで、単一の主題を少しずつ形を変えながら循環させるように書かれています。そして、その循環が突然絶ちきられるようにあっけなく終わってしまうので、聞いている方としては何か一人取り残されたような気分が残ってしまうのです。
ザスローはこれをコルトダンスの形式に従ったある種の滑稽さの表現だと書いていて、それ故にこの部分はある程度の「あくどさ」が必要だと張しています。つまりは、モーツァルトの作品だと言うことで上品に演奏してしまうと、この急転直下がもたらすユーモアが矮小化されるというのです。
なるほど、そう言われれば何となく分かるような気がするのですが、ほとんどの演奏はこの部分で期待されるあくどさを実現できていないことは残念です。
交響曲第39番 変ホ長調 K.543
- 第1楽章:Adagio; Allegro
- 第2楽章:Andante con moto
- 第3楽章:Menuetto e Trio
- 第4楽章:Allegro
自らの若さを前面に出して、この上もなく直線的で躍動感に満ちた演奏を繰り広げている
バーンスタインのモーツァルトというのはどこかしっくりと来ませんでした。
世間的には80年代にウィーンフィルを指揮した後期の交響曲集が評価されているようですが、何故か、私の中ではほとんど記憶に残っていません。記憶に残っていないと言うことは、それほどがっかりもしなかったけれども、感心もしなかったと言うことです。
モーツァルトの交響曲なんてものは、それこそ次から次へと供給されますから、そうやって供給される録音の一つくらいの位置づけしか感じなかったのでしょう。
こんな事を書くとバーンスタインを愛する方からはお叱りを受けそうなのですが、その頃私がすっかり気に入っていたのがセル&クリーブランド管による録音でした。
ですから、当時の私にとってモーツァルトというのはもっとスッキリと見通しの良い音楽として認識されていたのです。
もちろん、色々な録音を聞いていくことによって、それだけがモーツァルトの全てではないと言うことも多少は分かっていきました。
例えば90年代に、パドヴァ・ヴェネト管弦楽団という聞いたこともないようなマイナー・オケと録音したペーター・マークのモーツァルトなんかにすっかり魅せられたりもしたものでした。
しかし、そうなってみると、バーンスタインの録音はあまりにも「常識」の範囲に収まっているような気がしたものです。
音楽表現では「アポロン」「デモーニッシュ」という言葉がよく使われます。
その言葉を借用すれば、セルが「アポロン」の代表格ならば、マークやフルトヴェングラーが「デモーニッシュ」の代表となるのでしょう。
そして、その両端を結んだライン上に、多くの指揮者が己の見識と感性に従って然るべき立ち位置を見いだすのでしょうが、その「存在感」は「両端」ほどには大きくはならないと言うことです。
しかし、こういう書き方をすると、表現というものはどちらか一方に振り切れないと意味が希薄になるように受け取られかねないのですが、それは違います。
おそらく、振り切れた表現というのは、どんな耳にも「分かりやすい」ものです。
それと比べると、振り切れていない表現というものは、その穏やかな表現の中に真に音楽的なものが含まれているのか、それともただただ空疎なだけなのかを聞き取るには、聞き手の側にそれなりの「傾注」が求められます。
例えば、中庸の極みと言われるクーベリック&バイエルン放響によるモーツァルトなどは、その素晴らしさを聞き取るには強い「傾注」が求められるのです。
バーンスタインという人の特徴は常に振り切れることを目指していたことです。フルトヴェングラーにしても、トスカニーニにしてもみんな振り切れていましたし、それ故に彼らの音楽は常に「分かりやすかった」のです、
面白いのは、バーンスタインの場合は、その振り切れるベクトルがニューヨーク時代の若い頃と、それ以後のウィーンフィルとの客演を中心にした時代とでは真逆になることです。
振り切れるタイプとしては、それはかなり珍しい部類にはいると思われます。
そして、振り切るにはそれなりのパワーが必要なのですが、さすがのバーンスタインも晩年に向かうにつれて少しずつフルスイングが出来なくなっていたように感じられます。(ただただテンポが遅くなっていった)
そう思えば、この若い頃に録音したモーツァルトは見事なまでにフルスイングしています。
当時のモーツァルトのスタンダードはワルターでした。
おそらく、若いバーンスタインはそのワルターの姿を常に間近で見続けていたと思います。そして、どうあがいても、自分はワルターのようにはモーツァルトは演奏できないことは分かっていたはずです。
いや、そんな事はバーンスタインだけに限った話ではなくて、誰だってワルターのようにはモーツァルトは指揮できないのです。
ですから、ここでは、そんなワルター的なモーツァルトに喧嘩を売るような勢いでフルスイングしています。もちろん、喧嘩を売るつもりはなかったでしょうが(^^;、それでもそう感じてしまうほどに「真逆」のスタンスで臨まざるを得なかったのでしょう。
同じく独襖系の王道たるベートーベンやブラームスの交響曲だと妙に生真面目で律儀になるのに、何故かモーツァルトの交響曲では自らの若さを前面に出して、この上もなく直線的で躍動感に満ちた演奏を繰り広げているのは、ある意味ではワルターの背後霊の為せる技だったのかも知れません。
そして、さらに細かい話になるのですが、この一連の録音は思わぬところでもワルターの背後霊に絡め取られたようなのです。
- 交響曲第36番 ハ長調 "Linz" K386:1961年3月6日録音:初出 1971年→10年塩漬け
- 交響曲第39番 変ホ長調 K.543:1961年3月20日録音:初出 1967年→6年塩漬け
- 交響曲第40番 ト短調 K.550:1963年5月20日録音:初出 1967年→4年塩漬け
- 交響曲第41番 ハ長調 "Jupiter" K.551:1968年1月25日録音:初出 1971年→4年塩漬け
どの録音も随分と長い間塩漬けにされていたことが分かります。
リンツ・シンフォニーなどは10年も塩漬けにされていますし、超メジャー曲のト短調シンフォニーやジュピター・シンフォニーでも4年間も塩漬けにされています。
理由は明らかでしょう。
CBSレーベルのカタログに、モーツァルトの後期シンフォニーに関してはワルターの録音があれば十分だったのです。
そして、その事をバーンスタイン自身も不満にも思わなかったのでしょう。
穿ちすぎた見方かも知れませんが、様々な意味で「恐るべしブルーノ・ワルター!!」・・・なのです。
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