ベートーベン:チェロソナタ第5番 ニ長調 Op.102-1
(Cello)ジャクリーヌ・デュ・プレ (P)スティーヴン・コヴァセヴィチ 1965年12月19日~23日録音
Beethoven:Cello Sonata No.5 in F major, Op102-2 [1.Allegro con brio]
Beethoven:Cello Sonata No.5 in F major, Op102-2 [2.Adagio con molto sentimento d'affetto]
Beethoven:Cello Sonata No.5 in F major, Op102-2 [3.Allegro - Allegro fugato]
チェロの新約聖書
チェロという楽器はヴァイオリンやヴィオラと比べると独奏楽器として活躍する作品は多くはありません。
例えば、モーツァルトはチェロを独奏楽器とした作品は一つも残していません。これは、チェロを飯の種にする演奏家にとってはかえすがえすも残念なことでしょう。
そんな中で、ベートーベンが5つのチェロソナタを残してくれたことは、バッハの6つの無伴奏組曲とならんで、チェリストに対する福音となっています。
また、ベートーベンのチェロソナタはベートーベンの初期に2つ、中期に1つ、そして後期に2つという具合に、その全生涯にわたって実にバランスよく作曲されたために、1番から順番に5番まで聞き通すと、ベートーベンという偉大な音楽家の歩んだ道をミニチュアを見るように俯瞰できるという「特典」がついてきます。(^^)
俗な言い方になりますが、バッハの無伴奏組曲がチェロの旧約聖書とするなら、ベートーベンのチェロソナタは新約聖書と言っていい存在です。
(1)二つのチェロソナタ 作品5
1796年にベルリンで完成されたこの二つのソナタは、プロイセン国王フリードリヒを念頭に置いて作曲されたと言われています。
よく知られているように、フリードリヒはチェロの名手として知られており、この二つのソナタを献呈する事によって何らかの利益と保証を得ようとしたようです。
初演は宮廷楽団の首席チェリストだったデュポールとベートーベン自身によって国王の前で行われました。
この二つのソナタは、明るくて快活な第1番、感傷的な第2番というように性格的には対照的ですが、ともに長大な序奏部を持っていて、そこでたっぷりとチェロに歌わせるようになっているところは、明らかにフリードリヒを意識した作りになっています。
また、至る所に華やかなピアノのパッセージが鏤められていることも、国王の前でベートーベン自身がピアニストとして演奏することを十分に意識したものだと思われます。
(2)チェロソナタ第3番 作品69
ベートーベンのチェロソナタの中では最もよく知られている作品です。
傑作の森と言われるベートーベン中期を代表するソナタだといえます。第1楽章冒頭の、チェロに相応しいのびのびとしたメロディを聞くだけで思わず引き寄せられるような魅力を内包しています。
全体としてみると、チェロはかなり広い音域にわたって活躍し、とりわけ高音域を自由に駆使することによってピアノと同等に渡り合う地位を獲得しています。
この作品は、ベートーベンの支援者であったグライヘンシュタイン男爵に献呈されています。
当初、男爵にはピアノ協奏曲第4番を献呈するつもりだったのが、ルドルフ大公に献呈してしまったので、かわりにチェロの名手でもあった男爵のためにこの作品を書いたと言われています。
(3)二つのチェロソナタ 作品102
ベートーベンの後期を特徴づける幻想的な雰囲気がこの二つのソナタにもあふれています。
とりわけ、第5番のソナタは第2楽章に長大なアダージョを配して、深い宗教的な感情をたたえています。
この作品は、ラズモフスキー家の弦楽四重奏団のチェロ奏者であったリンケのために書かれ、エルデーディ伯爵夫人に献呈されています。
伯爵夫人はベートーベンの良き理解者であり、私生活上の煩わしい出来事に対しても良き相談相手としてあれこれと尽力してくれた人物でした。
リンケと伯爵夫人の関係については諸説があるようですが、ピアノの名手でもあった伯爵夫人がリンケとともに演奏が楽しめるようにと、夫人への感謝の意味をこめて作曲したと言われています。
デュ・プレのチェロは下支えをするピアノの上を思うがままに駆け回っている
これは色々な意味で複雑な感情を引き起こさせる録音です。
ピアノを担当している「スティーヴン・コヴァセヴィチ」は今も存命で、それほど知名度は高くはないものの、知る人ぞ知る「実力派」です。しかし、それよりも恋多き女アルゲリッチのパートナーであった事の方が有名かもしれません。
そして、その別離の時に、アルゲリッチに「わたしは恋愛に向いていないと思う」と言わしめたことはクラシック音楽界のゴシップ好きにはよく知られた話です。
まあ、いい人だったんだと思います。
そして、このベートーベンのソナタを録音したとき、デュ・プレとコヴァセヴィチは恋愛関係にありました。そして、その演奏を聞くと、やはりいい人だったんだろうなと思ってしまいます。
なんと言っても、デュ・プレのチェロは下支えをするピアノの上を安心しきって、思うがままに駆け回っています。
しかし、コヴァセヴィチも下支えをするだけでなく、ピアノが表に出るべきところではしっかりと自己を主張していますし、何よりもこの二つの楽器が掛け合う場面では一瞬の緩みも感じない気迫が漲っています。
そこからは二人の強い信頼関係が伺えます。
おそらく、デュ・プレは自分のイマジネーションだけを大切にし、コヴァセヴィチを信頼しきって思うがままに演奏している雰囲気です。
それに対して、コヴァセヴィチは、そう言う好き勝手なデュ・プレのチェロを前提として音楽全体の形を整えています。
しかしながら、留意しておきたいのは、色々と評判の悪いEMIの録音なのですが、このベートーベンのソナタに関してはかなり見事にデュ・プレのチェロの響きを捉えているということです。
おそらく、この深々とした低音の響きを十全に再現するのはそれほど容易いことではなくて、そしてそれが再現できないとこの演奏の魅力の少なくない部分がスポイルされてしまいます。
この録音の時、デュ・プレは未だ20歳なのですが、この数ヶ月前にはエルガーやディーリアスのコンチェルトで素晴らしい実績を残していました。
それに対して、コヴァセヴィチの方は11歳でデビューを果たした「神童」ではあったのですが、18才の時にロンドンに渡ってマイラ・ヘスのもとでもう一度ピアノを学び直しています。
そして、指がよくまわるだけの「神童」から大人のピアニストに成長を遂げつつあった25才の時の姿がこの録音には刻み込まれています。
この二人がどこで知り合って、どのような経緯で恋愛関係に陥ったのかは分かりませんが、この録音はデュ・プレがコヴァセヴィチをパートナーに指名して実現したものと思われます。レーベルにしても商品価値が高いのは疑いもなくデュ・プレの方であり、録音のフォーカスもチェロの方に狙いが定められています。
ですから、そのチェロの響きが上手く再生できているかどうかで演奏の印象は随分と変わってくることだけは指摘しておく必要があるようです。
それにしても、この二人による録音がこの2曲だけで終わってしまったことはかえすがえすも残念な話でした。
もちろん、そうなってしまった背景には、デュ・プレの前にもう一人の男が現れて二人の関係が破綻したからでした。
そして、この5年後には、その男との共演でベートーベンのチェロ・ソナタの全曲録音を残しています。
ただし、その出会いは結果としてはデュ・プレて自分の人生を破綻させてしまいました。
私は、デュ・プレの病気はその男が自らのキャリアを築き上げるために彼女を引きずり回したことが原因だと確信しています。
ですから、個人的にはそんな男との競演盤などは聞く気も起きません。
そして、そんなことを言っても詮無きことなのですが、コヴァセヴィチとの関係が円満に続いていれば、彼女の人生も随分と別のものなっただろうと思わずにはおれません。
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