ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.61
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 (Vn)クリスチャン・フェラス ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 1967年1月25日~26日録音
Beethoven:Violin Concerto in D major, Op.61 [1.Allegro ma non troppo]
Beethoven:Violin Concerto in D major, Op.61 [2.Larghetto]
Beethoven:Violin Concerto in D major, Op.61 [3.Rondo]
忘却の淵からすくい上げられた作品
ベートーベンはこのジャンルの作品をこれ一つしか残しませんでした。しかし、そのたった一つの作品が、中期の傑作の森を代表するする堂々たるコンチェルトであることに感謝したいと思います。
このバイオリン協奏曲は初演当時、かなり冷たい反応と評価を受けています。
「若干の美しさはあるものの時には前後のつながりが全く断ち切られてしまったり、いくつかの平凡な個所を果てしなく繰り返すだけですぐ飽きてしまう。」
「ベートーベンがこのような曲を書き続けるならば、聴衆は音楽会に来て疲れて帰るだけである。」
全く持って糞味噌なけなされかたです。
こう言うのを読むと、「評論家」というものの本質は何百年たっても変わらないものだと感心させられます。
しかし、もう少し詳しく調べてみると、そう言う評価の理由も何となく分かってきます。
この協奏曲の初演は1806年に、ベートーベン自身の指揮、ヴァイオリンはフランツ・クレメントというヴァイオリニストによって行われました。
作品の完成が遅れたために(出来上がったのが初演の前日だったそうな)クレメントはほとんど初見で演奏しなければいけなかったようなのですが、それでも演奏会は大成功をおさめたと伝えられています。
しかし、この「大成功」には「裏」がありました。
実は、この演奏会では、ヴァイオリン協奏曲の第1楽章が終わった後に、クレメントの自作による「ソナタ」が演奏されたのです。
今から見れば無茶苦茶なプログラム構成ですが、その無茶草の背景に問題の本質があります。
そのクレメントの「ソナタ」はヴァイオリンの一本の弦だけを使って「主題」が演奏されるという趣向の作品で、その華麗な名人芸に観客は沸いたのでした。
そして、それと引き替えに、当日の目玉であった協奏曲の方には上で述べたような酷評が投げつけられたのです。
当時の聴衆が求めたものは、この協奏曲のような「ヴァイオリン独奏付きの交響曲」のような音楽ではなくて、クレメントのソナタのような名人芸を堪能することだったのです。彼らの多くは「深い精神性を宿した芸術」ではなくて、文句なしに楽しめる「エンターテイメント」を求めたいたのです。
そして、「協奏曲」というジャンルはまさにその様な楽しみを求めて足を運ぶ場だったのですから、そう言う不満が出ても当然でしたし、いわゆる評論家達もその様な一般の人たちの素直な心情を少しばかり難しい言い回しで代弁したのでしょう。
それはそうでしょう、例えば今ならば誰かのドームコンサートに出かけて、そこでいきなり弦楽四重奏をバックにお経のような歌が延々と流れれば、それがいかに有り難いお経であってもウンザリするはずです。
そして、そういう批評のためか、その後この作品はほとんど忘却されてしまい、演奏会で演奏されることもほとんどありませんでした。
この曲は初演以来、40年ほどの間に数回しか演奏されなかったと言われています。
その様な忘却の淵からこの作品をすくい上げたのが、当時13才であった天才ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムでした。
1844年のイギリスへの演奏旅行でこの作品を取り上げて大成功をおさめ、それがきっかけとなって多くの人にも認められるようになったわけです。
- 第一楽章 アレグロ・マ・ノン・トロッポ
冒頭にティンパニが静かにリズムを刻むのですが、これがこの楽章の形を決めるのは「構築の鬼ベートーベン」としては当然のことでしょう。ただし、当時の聴衆は協奏曲というジャンルにその様なものを求めていなかったことが不幸の始まりでした。
- 第二楽章 ラルゲット
この自由な変奏曲形式による美しい音楽は当時の聴衆にも受け入れられたと思われます。
- 第三楽章 ロンド アレグロ
力強いリズムに乗って独奏ヴァイオリンと管弦楽が会話を繰り返すのですが、当時の聴衆は「平凡な個所を果てしなく繰り返す」と感じたのかもしれません。
フェラスさん、貴方は本当に変わる必要があったのですか?
60年代のカラヤンの録音を聞くとき、私たちはいわゆる「巨匠達」の世界が終焉したことをはっきりと感じざるを得ません。外観上は一切の恣意性が排除され、スコアに書き込まれた音符達が機能的なオケによってこの上もなく精緻で美しい響きへと変換されていきます。
そこにはもう、フルトヴェングラーが君臨していた古き良き時代の面影は跡形もなく消え去っています。
しかし、カラヤン達の若い世代が巨匠達の二番煎じに陥ることを拒否するならば、言葉をかえれば、過去の巨匠達とは異なる価値観に基づいて新しい世界を切り開いていこうとするならば、避けて通れない変化だったことも納得させてくれる演奏です。
何度も繰り返しますが、その事をもって「昔の巨匠達は偉かった、それと比べれば後に続く世代は粒が小さい・・・」みたいな物言いは根本的に間違っています。
過去のある時代の価値観を絶対視し、それを価値判断の基準として後の世代に駄目出しをするのは、愚かな年寄りの愚痴でしかないのです。
もちろん、そう言う新しい世代による新しい試みは常に正しいわけではないのですから、その事への批判は許されます。そして、その批判の正しさは「時間」によって判断されます。
カラヤンの音楽は、いわゆる「コアなクラシック音楽ファン」からは批判され続けたのですが、結果としてはそれが一つのスタンダードになっていったという「事実」の重みは避けて通ることは出来ないのです。
しかし、そう言うヤンの音楽は共演者に大きな負担を強いたことも事実です。
手兵であるオーケストラに関しては時間をかけて飼い慣らしたことは既に何度もふれました。
しかし、協奏曲やオペラのように、その場その場で「共演者」が入れ替わる場合では時間をかけるわけにもいきません。ですから、そう言う場においては、カラヤンは強引に自分の流儀を押し通したようです。
彼とオペラ劇場の関係については然るべき時が来ればじっくりと腰を据えて考えてみたいのですが、ウィーンでもバイロイトでも、彼の強引なやり方は受け入れられなかったことは事実です。
セルがタンホイザーの上演を巡ってメトともめて、結果として「オペラほど忌まわしいものない」といってオペラの世界から身を引いたことは有名な話です。
確かに、こういう「自分の流儀」を押し通さないと我慢できないタイプの人間にとってはオペラとはまさに「伏魔殿」です。
それはカラヤンも同様であって、しかし、彼は「帝王」だったので、その権力を使って何から何まで自分が差配できるザルツブルグの音楽祭を作りあげて、そこを自らのオペラの拠点としたのでした。
そして、オペラというジャンルにおいてもそこまで我を押し通したのですから、協奏曲であるならば、そこにソリストとしての自由などは基本的に存在するはずはないのです。
もちろん、ソリストは自らのイマジネーションを羽ばたかせて演奏する場面もあるのでしょうが、少なくともそのイマジネーションがカラヤンの意図と合致しているときにだけ、それは許されるのです。
ですから、結果として、カラヤンが協奏曲を取り上げるときは、その共演者は自らのお眼鏡にかなった人物に固定される事になります。彼が大物のソリストと共演すると言うことは殆どなかったのではないでしょうか。
ピアニストであればワイセンベルク、ヴィオリニストではフェラス、フェラスが自殺した後はムターという感じでしょうか。
それにしても、常々不思議に思うのは、フェラスはどうしてカラヤンと共演する道を選んだのでしょう。
ムターが始めてカラヤンと共演したのは13歳でしたから、何も分からないうちにカラヤンに見いだされ、カラヤンによって世界的ヴァイオリニストとして認知されるようになったのですから、良いも悪いもなかったはずです。
ワイセンベルクは誤解を恐れずに言い切ってしまえば、彼はピアノ演奏マシーンのような人でしたから、カラヤンがピアノ協奏曲を録音するときのパーツとしてはめ込まれても痛痒は感じなかったはずです。
しかし、フェラスに関して言えば、彼の本質は明らかに古き良き巨匠達の時代にありました。それは、彼が50年代に残したフランクやフォーレのヴァイオリンソナタを聞けば明らかです。
あの主観に徹したロマンティックな表現には他に抜きんでた魅力があると私などは思うのですが、主観に重きをおいた時代から客観性に重点が移っていく時代へと変化しつつあることをフェラスは感じていたのかもしれません。
カラヤンと共演した一連の録音を聞くと、フェラスもまたその様な新しい表現に自らのヴァイオリンを添わせていこうと奮闘している姿が手に取るように分かります。
しかしながら、彼が幼い時代に学んだ師はカペーでした。
そんな出自を持つヴァイオリニストがかくも機能的なカラヤンの世界に添っていくというのは、たいへんな自己変革を求められた事でしょう。
そう言えば、「カラヤン・アーチ」という言葉があるそうです。
この大きく弧を描くような旋律の歌わせ方こそがカラヤン美学の重要な構成要素であり、それがベルリンフィルの磨き抜かれた響きと合わさるときにきわめて官能的で享楽的な世界が立ちあらわれるのです。
そして、その歌わせ方は、協奏曲においても徹底されていることは明らかであり、ソリストは歌わせ方までカラヤンの支配下にはいることを求められるのです。
もちろん、その歌わせ方はカラヤン以外の指揮者では実現できない美しさが貫かれていますから、それに従っていれば独奏楽器もまた申し分なく美しくあることは出来ます。
しかし、そこには50年代のフェラスから感じ取れた、楽しげで自由な姿はありません。
例えば、57年に録音されたシルヴェストリとのチャイコフスキーではフェラスが感じたチャイコフスキーの世界を、自らの美音でもって何の疑いもなく自由に描ききっています。
そして、それをサポートするシルヴェストリもまた同じベクトルをもった音楽家なので、そんなフェラスの美質が引き立つようにオケをコントロールしてくれていました。
確かに、作品のプロポーションと言うことで言えば、間違いなくカラヤンとの共演盤の方がすぐれています。
おそらく、演奏という行為を幾つかの観点に細分化して得点化すれば、平均点が高くなるのは間違いなくカラヤンとの競演盤です。カラヤンが作りあげる録音の魅力の一つはその様な完成度の高さにあり、そして、そう言う演奏が持っている魅力は決して否定しません。
しかし、音楽というのは、その様な立派さだけで成り立っているものではないことも事実です。
もちろん、聞き手というのは常に気楽で安全な場所から好き勝手に贅沢な要求を突きつける困った存在であることは承知しています。
フェラスは変わろうとしていたことは間違いありません。そして、その変わるためのきっかけとしてカラヤンを選んだのも彼自身だったことでしょう。
しかし、共演を重ねるにつれて彼自身の美質は後退し、彼のヴァイオリンはカラヤンの協奏曲を構成するパーツの一つへと変質していったように感じるのは私だけでしょうか。
- ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.77(1964年5月4日~6日録音)
- シベリウス:ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 Op. 47(1964年10月4日~6日録音)
- チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.35(1965年11月6日~8日録音)
- ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.61(1967年1月25日~26日録音)
この中ではシベリウスの協奏曲が、もっともフェラスらしい伸びやかさが感じられます。カラヤンとの最後の共演もシベリウスの協奏曲だったと記憶していますから、彼にとってはもっとも違和感を感じることなく演奏できる作品だったのかもしれません。
そう思えば、フェラスさん、貴方は本当に変わる必要があったのですかと声をかけずにおれなくなるのです。
そう言えば、カラヤンが亡くなって彼の庇護の元から離れたムターは、音楽の形を一変させました。やはり女性は強い!!
よせられたコメント
2023-06-11:oboemasa
- 本当に勉強になります!クラシックの深さってこういう聞き方も出来るところにあるのかなぁと思いました。これからもこのサイト続けてくださいマセ。
2023-06-13:笑枝
- クラシック聞き始めて半世紀以上になります。
アンチ・カラヤンではないですが、カラヤン、好きになれないので演奏、まだ聴いてませんけど、Yung さんの文章に感銘受け、コメントさせていただきます。
50年代のカラヤンは、颯爽としていたのに、60年代、70年代と、年を追って、レガート、レガート。
それも、編成の大きなオケで。カラヤンのこの変容には、従来の演奏ではクラシックは滅びてしまう、という危機感があった、と思います。
パワフルなロックが、1回で数万人の聴衆を集めるのが、ふつうになった時代ですから。
130人を越す巨大なオーケストラの威力を使って、ビート感のない、ビューティフルサウンドを奏でる。
豪華そのものです。
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