クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~

シューベルト:交響曲 第2番 変ロ長調 D125

ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮 シュターツカペレ・ドレスデン 1967年録音



Schubert:Symphony No.2 in B-flat major, D.125 [1.Largo - Allegro vivace]

Schubert:Symphony No.2 in B-flat major, D.125 [2.Andante]

Schubert:Symphony No.2 in B-flat major, D.125 [3.Menuetto. Allegro vivace - Trio]

Schubert:Symphony No.2 in B-flat major, D.125 [4.Presto]


初期シンフォニーの概要

この中で最も重要だったのは「雑用係」としての仕事だったようで、彼は毎日のようにオーケストラで演奏するパート譜を筆写していたようです。

当時の多様な音楽家の作品を書き写すことは、この多感な少年に多くのものを与えたことは疑いがありません。

ですから、コンヴィクト(寄宿制神学校)を卒業した後に完成させた「D.82」のニ長調交響曲はハイドンやモーツァルト、ベートーベンから学んだものがつぎ込まれていて、十分に完成度の高い作品になっています。そして、その作品はコンヴィクト(寄宿制神学校)からの訣別として、そこのオーケストラで初演された可能性が示唆されていますが詳しいことは分かりません。

彼は、その後、兵役を逃れるために師範学校に進み、やがて自立の道を探るために補助教員として働きはじめます。
しかし、この仕事は教えることが苦手なシューベルトにとっては負担が大きく、何よりも作曲に最も適した午前の時間を奪われることが彼に苦痛を与えました。
その様な中でも、「D.125」の「交響曲第2番 変ロ長調」と「D.200」の「交響曲第3番 ニ長調」が生み出されます。

ただし、これらの作品は、すでにコンヴィクト(寄宿制神学校)の学生オーケストラとの関係は途切れていたので、おそらくは、シューベルトの身近な演奏団体を前提として作曲された作品だと思われます。
この身近な演奏団体というのは、シューベルト家の弦楽四重奏の練習から発展していった素人楽団だと考えられているのですが、果たしてこの二つの交響曲を演奏できるだけの規模があったのかは疑問視されています。

第2番の変ロ調交響曲についてはもしかしたらコンヴィクトの学生オーケストラで、第3番のニ長調交響曲はシューベルトと関係のあったウィーンのアマチュアオーケストラで演奏された可能性が指摘されているのですが、確たる事は分かっていません。

両方とも、公式に公開の場で初演されたのはシューベルトの死から半世紀ほどたった19世紀中葉です。
作品的には、モーツァルトやベートーベンを模倣しながらも、そこにシューベルトらしい独自性を盛り込もうと試行錯誤している様子がうかがえます。

そして、この二つの交響曲に続いて、その翌年(1816年)にも、対のように二つのシンフォニーが生み出されます。
この対のように生み出された4番と5番の交響曲は、身内のための作品と言う点ではその前の二つの交響曲と同じなのですが、次第にプロの作曲家として自立していこうとするシューベルトの意気込みのようなものも感じ取れる作品になってきています。

第4番には「悲劇的」というタイトルが付けられているのですが、これはシューベルト自身が付けたものです。
しかし、この作品を書いたとき、シューベルトはいまだ19歳の青年でしたから、それほど深く受け取る必要はないでしょう。
おそらく、シューベルト自身はベートーベンのような劇的な音楽を目指したものと思われ、実際、最終楽章では、彼の初期シンフォニーの中では飛び抜けたドラマ性が感じられます。

しかし、作品全体としては、シューベルトらしいと言えば叱られるでしょうが、歌謡性が前面に出た音楽になっています。
また、第5番の交響曲では、以前のものと比べるとよりシンプルでまとまりのよい作品になっていることに気づかされます。

もちろん、形式が交響曲であっても、それはベートーベンの業績を引き継ぐような作品でないことは明らかです。
しかし、それでも次第次第に作曲家としての腕を上げつつあることをはっきりと感じ取れる作品となっています。

シューベルトの初期シンフォニーを続けて聞いていくというのはそれほど楽しい経験とはいえないのですが、それでもこうやって時系列にそって聞いていくと、少しずつステップアップしていく若者の気概がはっきりと感じとることが出来ます。
この二つの作品を完成させた頃に、シューベルトはイヤでイヤで仕方なかった教員生活に見切りをつけて、プロの作曲家を目指してのフリーター生活に(もう少しエレガントに表現すれば「ボヘミアン生活」)に突入していきます。

そして、これに続く第6番の交響曲は、シューベルト自身が「大交響曲ハ長調」のタイトルを付け、私的な素人楽団による演奏だけでなく公開の場での演奏も行われたと言うことから、プロの作曲家をめざすシューベルトの意気込みが伝わってくる作品となっています。
また、この交響曲は当時のウィーンを席巻したロッシーニの影響を自分なりに吸収して創作されたという意味でも、さらなる技量の高まりを感じさせる作品となっています。

その意味では、対のように作曲された二つのセット、2番と3番、4番と5番の交響曲、さらには教員の仕事を投げ捨てて夢を本格的に追いかけ始めた頃に作曲された第6番の交響曲には、夢を追い続けたシューベルトの青春の色々な意味においてその苦闘が刻み込まれた作品だったといえます。

シューベルト:交響曲 第2番 変ロ長調 D125


  1. 第1楽章: Largo - allegro vivace
    ラルゴの序奏は明らかにモーツァルトの第39番の交響曲を意識したことは間違いないでしょう。また、ソナタ形式も彼なりに咀嚼しようと試みることで、第1番よりは明らかに複雑で充実したものになっています。

  2. 第2楽章: Andante
    変奏曲形式なのですが、その主題はベートーベンの「ハ長調ロンド作品51」との類似性が指摘されています。この楽章では打楽器と金管楽器が沈黙するので、第1番の第2楽章よりもさらに室内楽的な音楽になっています。

  3. 第3楽章: Menuetto (allegro vivace)
    変ロ長調でメヌエットがハ短調というのは異例なのですが、シューベルトはこのような選択をよく行うことになります。トリオのセレナード風の音楽は歌わずにはおれないシューベルトの本能があらわれています。

  4. 第4楽章: Presto
    第1主題を音階風にすることでソナタ形式をかみ砕こうとしています。シューベルトに対してあまりに偉そうで、恐れ多い物言いになるのですが(^^;、明らかに第1番よりは一歩前進という感じがします。



古典派という枠を自らに課しながら、その枠の中においてシューベルトの歌謡性を可能な限り引き出している


昔の巨匠には「コンプリート」という概念はほとんどなかったようです。
例えば、フルトヴェングラーのベートーベンやブラームスの交響曲全集というものは存在しているのですが、それはあちこちで録音されたものをかき集めて「全集」に仕立てあげただけの話で、フルトヴェングラーにしてみれば「コンプリート」という意識は全くなかったはずです。

しかし、世の中には必ず「例外」というものが存在するわけで、その例外の一番手は、ベートーベンのピアノソナタを世界ではじめて「コンプリート」したシュナーベルです。30曲を超える膨大なソナタが偶然の産物として「コンプリート」するはずもなく、それはシュナーベルの血に滲むような執念の産物として完成したものでした。
そして、指揮者で言えば、これもまた世界で始めてベートーベンの交響曲を「コンプリート」したワインガルトナーの名をあげるべきでしょう。

そして、時代が下がるにつれて、少しずつ「コンプリート」という意識が広がっていったようで、1950年代にはいると、バックハウスやナット、ケンプなどがベートーベンのピアノソナタを「コンプリート」するようになります。
ギーゼキングによるモーツァルトのソナタやドビュッシーへの取り組みも指摘しておく必要があるでしょう。

交響曲で言えばトスカニーニやカラヤン、シェルヘンなどが50年代の早い時期に全集を完成させています。

特に、カラヤンはあらゆるジャンルにおいて満遍なく高いレベルで録音を残した人であり、実にたくさんの作曲家の作品を「コンプリート」しました。そして、そのカラヤンが「帝王」と呼ばれるポジションを占めることで、指揮者というものは昔の巨匠のように自分の得意な作品だけを演奏していればいいというスタイルを過去のものにしてしまいました。
つまりは、指揮者というものは基本的に「コンプリート」すべき存在になっていったのです。

それでも、ライナーやムラヴィンスキー、ストコフスキーのように、そう言う意識が希薄な人は存在し続けました。
新しいところでは、ジュリーニやクライバーなども「コンプリート」という意識は希薄です。(クライバーは皆無^^;)
しかしながら、「コンプリート」出来るならば「コンプリート」したいという指揮者が多数を占めるようになったことは事実です。

そして、ここで取り上げているサヴァリッシュは明らかに「コンプリート」する人でした。
そして、その「コンプリート」も、「そう言う時代だから取りあえずはコンプリートしておこう」と言ういい加減なものではなくて、戦前のシュナーベルやワインガルトナーに通ずる「コンプリート」しなければ気が済まないという必然性を持っていたように思われます。

ですから、この「コンプリート」という概念で演奏家を分類すれば、「コンプリートする人」と「コンプリートしない人」に二分されます。
もっとも、「みんなコンプリートしているから取りあえず自分もコンプリートしておこう」とか、「コンプリート」したいんだけれども、実績がないので「コンプリート」させてもらえない人もいるでしょうが、そう言うのは意味がないので除外しておきましょう。)

「コンプリートしない」人の言い分は容易に理解できます。
たとえ、それがベートーベンの交響曲であっても、全9曲に対して演奏する価値と喜びを見いだせるかと問われれば、どこかしっくり来ない作品があったとしてもそれは逆に自然なことのように思えるからです。
そう言う「正直な人」にとって、そう言うしっくり来ない作品を「コンプリート」するためだけに演奏するのは時間の無駄、もっと言えばそれほど人生は長くないと言うことなのでしょう。

それでは「コンプリート」する人の言い分はどこにあるのでしょうか。
それは、そう言うしっくり来ない作品があったとしても、そう言う作品も含めて演奏してこそ、その作曲家の全容が見えてくるというスタンスです。そして、そう言う作品も演奏してみることで「しっくり来る作品」への理解もより深まるというスタンスです。

つまりは、「コンプリートしない人」は我が儘で、「コンプリートする人」は生真面目だとということです。
もしくは、「コンプリートしない人」自分の感性に正直であるのに対して、「コンプリートする人」は感性よりは論理を優先するとも言えそうです。

ですから、「コンプリートしない人」の演奏を聞くときには、その我が儘ゆえの魅力を味わうべきであって、それは往々にしてきわめて感覚的なものであるがゆえに受容されやすいという側面を持っています。

それに対して、「コンプリートする人」の演奏を味わうには、その一連の演奏に通底している「論理」みたいなものを解き明かしていく必要があります。
しかし、注意が必要なのは、外面的には「コンプリート」していても、その内実が「みんなコンプリートしているから取りあえず自分もコンプリートしておこう」みたいな演奏だと、いくら考えてもそこに通底している「論理」が見いだせるはずもないので、ただただ膨大な時間を浪費させられるだけということになります。

ただ、幸いなのは、クラシック音楽の世界にとって50年代は黄金の時代であり、60年代は概ね銀の時代でした。

その時代に「コンプリート」されて21世紀まで生き残っている録音というものは、ほぼ、それなりの意味を持った録音だと言い切っても大丈夫なはずです。
その時代は言葉の真の意味における「豊かさ」に恵まれていて、その「豊かさ」の中から時間という絶対的な審判者によって選び出されたものには、それを信じてもいい十分すぎるほどの信頼性があります。

シューベルトの交響曲というものは、どう考えても「コンプリート」したいと思える課題ではありません。
マゼールもこの時期にかなりまとまった数の交響曲を録音しているのですが、結果としては1番と9番が欠番になっています。(後にバイエルンのオケを使って「コンプリート」しています)
そんな、いささか困難の伴うシューベルトの「コンプリート」にチャレンジしたサヴァリッシュの録音は、「取りあえず」という中途半端なものではなくて、それは疑いもなく「コンプリートする人」によチャレンジでした。

シューベルトにとっての交響曲は、アマチュアからプロの作曲家に成長していくためには、避けて通れない大きな壁でした。そして、それは非常に困難な課題でもあったわけです。
ベートーベンは交響曲の世界において「歌謡性」をバラバラに解体することで、それまで誰も考えなかったような巨大で深い世界を築いてしまいました。そんな交響曲が生み出された後の時代において、基本的に「歌」の人だったシューベルトが「交響曲への道」を辿るというのは途轍もなく「困難」な課題だったのです。

サヴァリッシュがここで追求しているのは、その様なシューベルトの「交響曲への道」の中で彼が求め続けたものを最大限に引き出すことでした。

それは、ともすれば歌謡性に引っ張られて構造的に弱い部分が露呈しても、そこに古典派交響曲という枠をはめることで実に立派な引き締まった造形物として提示してみせたのです。
そのために、サヴァリッシュは強めのアーティキュレーションで、例えばアクセントの部分をまるでスタカートかと思うほどのメリハリでアウトラインを引き締めています。

結果として、基本的には習作の域を出ないと思える初期の交響曲でも、とりわけソナタ形式を適用した第1楽章や最終楽章に関してはかなり立派な交響曲として立ちあらわれてくることになります。
逆に、「未完成」のような作品では、そんな「古典派」の枠からはみ出そうとする作品のパワーと、強固な造形感覚によって古典的な均衡の中におさめきろうというサヴァリッシュとがせめぎ合うことで、実に素晴らしい音楽が立ちあらわれることになったりもします。
おそらく、全8曲の中で、この「未完成」の演奏が一番素晴らしいのかもしれません。

しかしながら、それは良く糊のきいた服のような、パリッとしたスタイルに仕上げたことに一番の価値があるわけではありません。
サヴァリッシュはそう言う「古典派」という枠を自らに課しながら、その枠の中においてシューベルトの歌謡性を可能な限り引き出している事こそが素晴らしいように思われます。

そして、その時に大きな力を発揮しているのがドレスデンのオケの響きの美しさです。
「未完成」のような強い緊張感に満ちた演奏ではそう言う響きの美しさまでは気が回らない部分はあるのですが、初期のシンフォニーでみせるシューベルトの歌心の見事さ描き出す場面ではその響きは大きな貢献をしています。

なお、この一連の録音は、私が調べた範囲では、1967年には5枚組の「ボックス盤(Philips 802 797 LY / 802 801 LY)」としてリリースされたようです。
そして、67年から68年にかけて、ETERNAから分売されています。

普通は一枚ずつリリースしてから全集盤をリリースするものなのですが、これはその逆です。
また、全集と分売ではレーベルが異なるというのも不思議な話です。
しかしながら、このように「コンプリート」への強い意志を持って録音された演奏ですから、それが、まずは「全集」としてリリースされたのは実に相応しいことだったと言えます。

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