ベートーベン:ピアノソナタ第32番 ハ短調 作品111
(P)アニー・フィッシャー 1958年10月14日録音
Beethoven:Piano Sonata No.32 in C minor Op.111 [1.Maestoso - Allegro con brio ed appassionato]
Beethoven:Piano Sonata No.32 in C minor Op.111 [2.Arietta: Adagio molto semplice cantabile]
ピアノ作品の作曲には制約が多すぎる
ベートーベンのピアノ作品の最後を飾るのが一般的に「後期ソナタ」と呼ばれる3つのソナタです。
ピアノソナタ第30番 ホ長調 作品109(1820年作曲)
ピアノソナタ第31番 変イ長調 作品110(1821年作曲)
ピアノソナタ第32番 ハ短調 作品111(1822年作曲)
最後のハ短調ソナタを作曲した後でもベートーベンには5年の歳月があったのですが、彼はピアノ作品の作曲には制約が多すぎると述べてこの分野から去ってしまいます。この言葉をどのように受け取るのかは難しいのですが、考えるきっかけとしては作品101のイ長調ソナタ(28番)と「ハンマークラヴィーア」と題された作品106の巨大なソナタ(29番)との関連性を見ればいいのかもしれません。
聞いてみれば分かるように、後期ソナタが持っているある種の幻想性に近いのはイ長調ソナタの方です。
それに対して、「ハンマークラヴィーア」の方はアダージョ楽章の深い幻想性に惑わされるのですが、音楽全体の形は「熱情」や「ワルトシュタイン」に通ずる構造を持っているように聞こえます。言葉は悪いかもしれませんが、作品101のイ長調ソナタから見れば、いささか「先祖帰り」したような作品になっています。
しかし、それは言葉をかえれば、ベートーベン自身にとって一度前に進み出した歩みを留めて過去の自分が辿ってきた道を総決算するような営みだったのかもしれないのです。そして、その総決算によってもう一度歩みを前に踏み出したのが、これらの後期ソナタだったと言えるのです。
だとすれば、いかにベートーベンといえども、3つの後期ソナタにおけるチャレンジはピアノという楽器を用いた音楽の一つの行き止まりだったはずです。
その、ある意味での「やりきった感」が「ピアノ作品の作曲には制約が多すぎる」という言葉になり、彼の創作活動の中心が弦楽四重奏曲の世界に収斂していったのでしょう。
その証拠に(と言うのもおかしないいかたですが)、これらのソナタは当時の聴衆にはなかなか受け入れられなかっただけでなく、その後1世紀にわたって広く受け入れられることはなかったのです。これらの音楽がコンサートのメインピースとなるのは20世紀になるのを待たなければならなかったのです。
そして、創作という分野においても、彼の中期の作品は多くの作曲家に影響を与えたのですが、この後期ソナタをかみ砕くことができた作曲家はほとんどいなかったのです。
その結果として、チャールズ・ローゼンはこれらの作品は「聞き手の積極的な参加」が求められる音楽だと述べています。つまりは、構造的に極めて複雑であり、ベートーベンが果敢に挑戦した実験的な営みを聞き分ける能力が聴衆に求められるということです。
言葉をかえれば、これらの作品はその幻想的な雰囲気に浸っているだけでも十分かもしれないのですが、もう少しベートーベンのチャレンジを聞き分けることができれば、より一層、これらの作品の凄さが分かると言うことなのでしょう。
ピアノソナタ第32番 ハ短調 作品111
ベートーベンの後期ソナタは聞き手に多くのものを要求するのですが、その中でももっとも要求する度合いが大きいのがこの最後の作品111のハ短調ソナタでしょう。
一般的には、この第1楽章において、誰もが成し遂げることができなかったソナタとフーガの融合が為されていることが指摘されるのですが、それではこの音楽を聞いてみて、その「融合」の何たるかを、さらに言えばその融合を成し遂げるためにベートーベンがどのような技術的労作を試みているのかを正確に聞き取れる人がどれほどいるのでしょうか。
いや、もっと言葉を継いでみれば、そう言うことをしっかりと意識をして演奏しているピアニストってどれほどいるのかな、とも思ってしまいます。
率直に言って、彼が第1楽章で成し遂げた労作の凄さは、そのあまりの複雑さゆえに私もよく分かりません。
フーガというのは基本的にポリフォニーの音楽であり、ソナタ形式はホモフォニーの音楽です。
ホモフォニックな音楽とは簡単にいってしまえば「伴奏と歌」で成り立っている音楽です。言うまでもなく「歌」が主であり「伴奏」が従です。
それに対して、ポリフォニックな音楽では全ての声部が平等であり、主役である「歌」と従者である「伴奏」には別れていません。
ポリフォニックな音楽のもっとも簡単な形が「カエルの歌」や「静かな湖畔」に代表される「輪唱」形式です。
これを3グループくらいに分けて歌うというのは小学生でも可能ですが、その3声が重なった部分をホモフォニックに見てみるととんでもなく複雑なことになっています。そして、言うまでもなく、この3グループ(3声)の間に何の上下関係も存在しません。
これをもう少し複雑にすると「カノン」になり、その究極の形が「フーガ」になるわけです。
「フーガ」とは最初に示された単純な主題をもとに、それを少しずつ形を変えながら積み上げていく形式です。積み上げていく声部が増えれば増えるほどとんでもなく複雑なことになっていくのですが、聞き手からしてみれば、どこまで行っても最初に示された主題が何度も繰り返されるので、音楽が見上げるような大伽藍になってしまってもその主題に出会うたびにほっと一息がつけます。
つまりは、「フーガ」というのは作る方にとっては大変な労力が求められるのですが、聞き手にとっては非常に親切で優しい形式なのです。
そして、その事はこのソナタにも言えて、聞いているととんでもなく複雑なことになっているような気はするのですが、第1主題の最初の音型が何度も帰ってくるので、聞き手はその複雑さに足をすくわれることなく安心して聞いていることができます。ですから、この楽章は聞いている方にとっては「フーガ」的に聞こえます。
しかし、ベートーベンはそこにソナタ形式というもう一つの形式を持ち込んでいるらしいのです。
ホモフォニックな音楽というのは今では耳に馴染みがあるので聞きやすいように思えます。しかし、ポピュラー音楽のように5分程度で終わる小品ならば「Aメロ」と「Bメロ」と「サビ」くらいでまとめることができます。しかし、このソナタのような長大な音楽になるとそれだけでは間が持ちません。
そこで、その長い時間を持たせるためには構造が必要となります。そんな構造の一つがソナタ形式です。第1主題と第2主題を用意してそれをあれこれ展開させ、最後に第1主題を帰ってこさせる・・・みたいな複雑な構造ですね(^^v。
つまりは、ホモフォニックな音楽というのは規模が大きくなると複雑な構造が必要となり、聞き手はその構造を把握していないと何をやっているのか分からなくなってしまうのです。
ですから、こういう音楽は聞き手に一定の訓練を要求します。そして、クラシック音楽が少なくない人に拒否される原因の一つがそこにあります。ですから、ベートーベンやブラームスはよく分かんないけどバッハなら楽しく聞けるという人がいるのですが、それは極めて正直な話だと思います。
そして、この第1楽章においてベートーベンが聞き手に要求しているのは、この基本的にフーガの姿をとりながらそれをソナタという形式にまとめ上げたところを聞き取ってほしいと言うことなのでしょう。
でも、そうなると、私も聞いていてよく分からないというのが正直なところなのです。
要は凡なだけですが。
それから、アリエッタと題された第2楽章はベートーベンが得意とした変奏曲形式で書かれています。
この変奏曲の一番の聞き所は、第1変奏からだ3変奏へとどんどん音価が短く刻まれていくところで、それはまるで20世紀のジャズ音楽を想起させると言われます。そして、その極限まで短くなった細かい音符で緩やかに旋律が歌われていくところは一種異様な雰囲気を讃えた音楽になっています。
しかし、そう言う斬新さに満ちていながら、おそらく、ベートーベンが書いた数多い変奏曲の中でももっとも感動的な音楽の一つでしょう。
ただし、この楽章にはどのようなテンポ設定をとるのが相応しいのかという問題が常に横たわっています。
この変奏曲は冒頭の変奏主題と5つの変奏で成り立っているのですが、やりようによってはいくらでもテンポを落とすことが可能です。そして、テンポを落とせば落とすほどより深い精神性に満ちた世界が展開されるように聞こえる事は事実で、そこに仏教における「解脱:の領域を見いだす人もいるようです。(^^;
しかし、それでは「Adagio molto, semplice e cantabile」と指示しているベートーベンの意図との整合性が問われることになります。
つまりは「素朴に歌え(semplice e cantabile)」と言う指示をどのように受け取るかという問題なのですが、多くのピアニストは「素朴に歌う」よりは遅いテンポ設定で入念に歌い上げることで「己の深い精神性」を表明したとの欲望から逃れることは難しいようです。
第1楽章:Maestoso - Allegro con brio ed appassionato
第2楽章:Arietta. Adagio molto, semplice e cantabile
強靱なタッチによって音楽の隅々にまでくっきりと光を当てることでベートーベンの複雑さを解き明かした演奏
アニー・フィッシャーというピアニストは、その実力のわりには認知度が低いのですが、それは演奏家を「演奏会」を通してではなくて「録音」を通して知ることが多いというこの国の宿命がもたらしたものでした。
「アニー・フィッシャー=録音嫌い」という数式が成り立つくらいに録音の数が少ないピアニストなのですが、そのあたりの事情については「
録音嫌い~アニー・フィッシャー 」という一文にまとめたことがあります。興味のある方は目を通してみてください。
1914年生まれなので、その全盛期は50~60年代ということになるのでしょうが、その時期に為した録音はCDに換算して10枚にも満たなのです。
そして、そのレパートリーもモーツァルト、ベートーベン、シューベルト、シューマンという「王道」が大部分と言えば聞こえがいいのですが、頑なまでに範囲が狭いのです。
こんなストイックな音楽活動では人気が出るはずもありません。
この世界は、そう言うストイックさよりは、聞き手の要求に応えて、例えば耳あたりのよいリストの有名作品を次から次へと弾きとばしていくような売り方の方が受けがよくなると言うものです。
ただ、私もまた、それほど偉そうなことは言えません。
彼女は50年代の後半から60年代の初めにかけてある程度まとまった数のベートーベンのソナタを録音しているのですが、その中から「悲愴」と「月光」という有名どころだけをアップして後は忘れてしまっていたのです。更新記録を確認すると、この時期にバックハウスやアラウのソナタも集中してアップしていたので、少しベートーベンのソナタは一休みしようと考えたようで、結局はそのまま残された録音を追加することを忘れてしまったようなのです。
やはり、私の中でも認知度は低かったようです。
そして、そこでふと気づくのです。
クラシック音楽の世界でピアノのソリストとして生きていくためには、これほどまでに見事にピアノを弾きこなす能力が必要なのかという当たり前すぎる現実と、そして、それだけの能力で弾きこなした録音はどれもこれもが立派なものではありながら、それでも数多くの偉大なピアニストたちが残した録音の中に放り込まれれば、それらを押しのけて一等抜きんでているとは言い難い現実の厳しさについてです。
つまりは、商品のクオリティだけで勝負していたのではどうにも分が悪いのがこの世界なのです。ですから、どうしても商品以外の部分に何らかのプラスαを付け加えないと生き残っていけないので、あれやこれやの物語を付け加えたりお水系で売り出したりと涙ぐましい努力をするのです。それでも、そんなプラスαはすぐに剥がれ落ちてしまいますし、何よりも肝心の本人がおっ死んでしまえば後には何も残りません。
そう言えば、美術の世界では画家が亡くなれば絵の価値は一気に半分になるという話を聞いたことがあります。
芸術の世界で生きていくというのは何とも厳しいことです。
ソリストを目指すような連中は子どもの頃から厳しいレッスンに明け暮れて、古い録音などを聞く機会はないと言います。そして、多くの人は訳知り顔でそれでは音楽に「深み」が出ないなどと気楽に言ったりしています。
しかし、過去という歴史の中で積み重ねられてきた録音と真摯に向かい合ってしまえば、よほど鈍感な神経の持ち主でもなけれ同じ道を目指そうとは思わないでしょう。
世の中には、知らないと言うことが幸せにつながることもあるのです。
アニー・フィッシャーが50年代から60年代にかけて録音したベートーベンのピアノソナタを録音順にまとめると以下の7つです。
ピアノソナタ第21番「ワルトシュタイン」 ハ長調 作品53 1957年6月3,4,12,13日録音
ピアノソナタ第24番「テレーゼ」 嬰へ長調 作品78 1958年10月14日録音
ピアノソナタ第8番 ハ短調 「悲愴」 作品13 1958年10月12~14日録音
ピアノソナタ第30番 ホ長調 作品109 1958年11月20,21日録音
ピアノソナタ第14番「月光」 嬰ハ短調 作品27-2 1958年11月18~20日&1959年1月5日,2月5日録音
ピアノソナタ第32番 ハ短調 作品111 1961年6月13~15日録音
ピアノソナタ第18番 変ホ長調 作品31-3 1961年6月14,17日録音
まず聞いてみて最初に感じるのは驚くほどに強靱なタッチだと言うことです。
女流ピアニストで強靱なタッチと言えばリリー・クラウスですが、あれはモーツァルトでの強靱さであって、こちらはベートーベンでの強靱さなので、ダイナミックレンジ的に比較すれば次元が異なります。
この強靱さをブラインドで聞かされれば、まさか女性が演奏しているとは思わないでしょう。それほどの強さがフィッシャーのピアノからは放出されています。
ピアニストを女性だ男性だと分けることには意味がないことが多いのですが、彼女ほど「女流」ピアニストという表現が意味を持たない人は珍しいでしょう。
そして、彼女のもう一つの特徴は、その強靱なタッチゆえにか、音楽が内に沈潜していくのではなくてひたすらに外に向かって放出していくことです。
その外向性が強靱なタッチと出会えば、結果として彼女の音楽はこの上もなく健康的なものになります。
彼女のピアノは言ってみれば一つの光源のようなものであり、ベートーベンのピアノソナタという立体物の複雑な構造をくっきりと照らし出します。
ですから、ただ端に健康的というレベルをこえて、時には抽象化された二進法の世界のようにも聞こえるのです。(フォルテとピアノの極端なコントラスト!!)
ただし、その照らし出す光で浮かび上がってくるベートーベンという立体構造物の姿は、フィッシャーによる徹底した「譜読み」という「主観」によって描き出されたものであることには注意する必要があります。
彼女のピアノはいわゆるザッハリヒカイトという、ともすれば内容空疎な「呪文」に陥ることはなく、どの部分をとっても強烈な自己主張によって貫かれています。
そして、こういう演奏に接するたびに、スコアに帰れと言う即物主義が本当に意味を持つためには「作曲家の意志に忠実」などと言う実体の伴わない曖昧さに寄りかかるのではなくて、スコアと主観性を徹底的に闘わせることが必要なのだと感じてしまいます。
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