バッハ:パルティータ 第1番 変ロ長調 BWV 825
(Cembalo)カール・リヒター 1959年録音
Bach:Partita No.1 in B-flat major, BWV 825 bPreludec
Bach:Partita No.1 in B-flat major, BWV 825 bAllemandec
Bach:Partita No.1 in B-flat major, BWV 825 bCourantec
Bach:Partita No.1 in B-flat major, BWV 825 bSarabandec
Bach:Partita No.1 in B-flat major, BWV 825 bMenuett`/ac
Bach:Partita No.1 in B-flat major, BWV 825 bGiguec
バッハの鍵盤楽器による「組曲」の中では最も聞きごたえのある作品
バッハはいろいろな楽器を使った「組曲」(パルティータ)という形式でたくさんの作品を書いています。ヴァイオリンやチェロを使った無伴奏のパルティータや鍵盤楽器を使ったものです。
とりわけ、鍵盤楽器を使ったものとしては「イギリス組曲」「フランス組曲」、そしてただ単に「パルティータ」とだけ題されたものが有名です。
一般的には、「組曲」というのは様々な国の舞曲を組み合わせたものとして構成されるのですが、この最後の「パルティータ」にまで至ると、その様な「約束事」は次第に後景に追いやられ、バッハ自身の自由な独創性が前面に出てくるようになります。
たとえば、パルティータの基本的な構成は「プレリュード-アルマンド-クーラント-サラバンド-ジーグ」が一般的ですが、バッハはその構成をかなり自由に変更しています。冒頭のプレリュードの形式を以下のように、様々な形式を採用しているのもその一例です。
第1曲:Praeludium 第2曲:Sinfonia 第3曲:Fantasia 第4曲:Ouverture 第5曲:Praeambulum 第6曲:Toccata
そして、この最初の曲で作品全体の雰囲気を宣言していることもよく分かります。
それ以外にも、同じ形式が割り振られていても、実際に聞いてみると全く雰囲気が異なるというものも多くあります。
おそらくバッハの鍵盤楽器による「組曲」の中では最も聞きごたえのある作品であることは間違いありません。
第1番変ロ長調 BWV 825
Prelude - Allemande - Courante - Sarabande - Menuett I - Menuett II - Gigue
第2番ハ短調 BWV826
Sinfonia - Allemande - Courante - Sarabande - Rondeaux - Capriccio
第3番イ短調 BWV827
Fantasia - Allemande - Corrente - Sarabande - Burlesca - Scherzo - Gigue
第4番ニ長調 BWV828
Ouverture - Allemande - Courante - Aria - Sarabande - Menuett - Gigue
第5番ト長調 BWV829
Preambulum - Allemande - Corrente - Sarabande - Tempo di Minuetto - Passepied - Gigue
第6番ホ短調 BWV830
Toccata - Allemande - Corrente - Air - Sarabande - Tempo di Gavotta - Gigue
リヒターの立ち位置
今さら言うまでもないことですが、バッハは「対位法」の人でした。複数の独立した声部からなる音楽のことを「ポリフォニー音楽」と呼ぶのですが、その様な音楽の作曲技術のことを「対位法」と呼びました。
私たちが日常的に接している音楽の大部分も複数の声部から成り立ってはいるのですが、そこでは主旋律と伴奏というように、その声部の間に主従関係が存在します。しかし、バッハに代表される「ポリフォニー音楽」では、それぞれの声部の間には主従関係は存在せず、それらは全て対等平等な関係を維持します。
ですから。2声程度の音楽ならばそれほどではないのですが、3声になると演奏する側の難易度は一気に上がってしまいます。3つの声部をしっかりと意識しながら、それらを対等平等に弾きわけるのはかなり難しくなります。これが4声、5声となると、その難しさは半端ではなくなります。
また、その難しさは聞き手にも多くのことを要求するようになっていきます。グールドとカークパトリックの演奏を比較したときに、カークパトリックの演奏があまりにもパラパラしすぎているので、頭の中で音楽の姿を把握するのに「努力」が必要ですと書いたのですが、つまりは、その様な「努力」が聞き手にも求められるのです。
ここで音楽史を繰り返すつもりはないのですが、バッハの時代の聞き手は貴族などの知識階級が中心でした。そこでは、複雑さは何の支障にもならなかったのですが、市民革命を経て音楽の享受者が一般民衆に変わってくると、その様な複雑さは次第に敬遠されるようになっていきました。代わりに台頭してきたのが、主旋律と伴奏からなる「ホモフォニー音楽」でした。そこでは、聞き手は主旋律だけに意識を集中していれば迷子になる心配はありません。その様な音楽が主流となっていく中でバッハが忘れ去られていったのは仕方のないことでした。
しかし、広く知られることはなかったとしても、心ある音楽家達はバッハの存在を常に意識の中に留めていました。
その様なバッハをもう一度コンサートの表舞台に復活させた立役者がランドフスカでした。彼女は、ピアノという楽器は縦の和音を鳴らすのには適していても、複数の声部をバランスよく弾きわけるのには適していないことに気づきチェンバロを復活させました。しかし、20世紀の初め頃にはチェンバロという楽器は基本的に絶滅していました。それは博物館などに展示されるものであって、実際のコンサートで使用できるものとは思われていなかったのです。
ですから、彼女はプレイエル社と協同して20世紀のチェンバロを作り出しました。
世間では、「ランドフスカ・モデル」とよばれるこのチェンバロは、鋼鉄製のピアノのフレームにチェンバロの機構を入れたもので、コンサートホールでも使えるように音を大きくしただけでなく、クレッシェンドやディクレッシェンドもできるという「お化けシステム」だったようです。現在では「モダン・チェンバロ」と呼ばれるこの楽器を使って、彼女は「ポリフォニー音楽」としてのバッハをコンサートの表舞台に復活させたのです。
そして、この復興運動は第2次世界大戦によって一時的に中断されるのですが、戦争が終われば再び大きなムーブメントとなっていきました。特に、チェンバロ演奏と言うことならば、その中心となったのがカークパトリックやリヒター達でした。
しかし、彼らのバッハ作品の録音を聞いてみると、今となってはかなり違和感を感じてしまうことは否定できません。その違和感の最大の原因は「モダン・チェンバロ」の響きです。
確かに、演奏様式としては、未だに主旋律と伴奏という雰囲気が残っていたランドフスカと較べれば、カークパトリックもリヒターも完全にポリフォニーな人になっています。特に、リヒターの演奏を聞くとき、その強固な意志力と集中力によって(そう、ポリフォニーナ音楽を再現するには強固な意志力と集中力が必要なのです)、峻厳なる「対位法の人」であるバッハを描き出しています。
しかし、その響きには「仰け反って」しまいます。
いわゆる「ピリオド楽器のチェンバロ」がコンサートで使用されるようになるのは60年代の初頭ですから、リヒターもカークパトリックも使用していた楽器はともに「モダン・チェンバロ」でした。しかし、同じように「モダン・チェンバロ」を使っていても、この二人の響きの質はかなり異なります。
聞く人によってはカークパトリックであっても違和感を感じる人もいるようですが、私個人としてはそれほど強い違和感を感じません。
しかしながら、さすがにこのリヒターの響きにはなかなか慣れることはできませんでした。
個人的には、チェンバロの響きのスタンダードはスコット・ロスによるスカルラッティの録音でした。あの、地中海を吹き渡る風を思わすような軽くて乾いた響きこそがチェンバロの響きでした。それと比べると、ここで聞くことのできる、とりわけリヒターのゴルドベルク変奏曲の響きはまるで別の楽器で演奏されているかのようでした。
パルティータの方にはそこまでの違和感はありませんが、それでも異質は異質です。
言うまでもなく、この違和感を「モダン・チェンバロ」を使っていることだけに帰着させることはできません。
既に述べたように、同じように「モダン・チェンバロ」を使っていても、カークパトリックの録音ではリヒターほどの違和感を感じないからです。つまりは、やろうと思えばカークパトリックのような響きでバッハの音楽を作り得ることができたのですから、それをしなかったと言うことは、当時のリヒターにとってはこの響きで良しとする立ち位置があったと言うことです。
私は、この事は非常に大切なことだと思うのです。
ちなみにゴルドベルク変奏曲は1956年に録音され、パルティータの方は1960年に録音されています。この4年の間に、さすがにゴルドベルク変奏曲の響きはまずいと思ったのかもしれませんが、それでもなお、リヒターのパルティータは、カークパトリックのパルティータの録音と較べれば違和感は小さくありません。
しかしながら、もう一つ確認しておかなければいけないのは、バッハの対位法を峻厳に描き出していくリヒターの集中力には驚くべきものがあるということです。
その精緻な対位法の世界と、この古めかしい響きとの奇妙な同居に、どうしようもない居心地の悪さを感じてしまうのです。この居心地の悪さを、私たちはどのように受け取ればいいのでしょうか。
そこで結局思い至るのは、リヒターという人の音楽の本質はかなり古い時代に根っこを持っているのではないかと言うことです。
そして、その古さこそが、60年代の半ば以降、時代の流れに取り残されるように急激に衰えていった遠因ではないかという気もするのです。リヒターの急激な衰えの背景として体調の不良が指摘されてきたのですが、やはりそれだけでは説明しきれないなほどの急落ぶりでした。
もちろん、その様な大事を軽々に決めつけることはできないのですが、このチェンバロを使った一連の録音を聞くと、いろいろなことを考えさせてくれるものでした。
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