クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~

モーツアルト:レクイエム ニ短調 K626

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 ウィーン楽友協会合唱団 (S)ヴィルマ・リップ (A)ヒルデ・レッセル=マイダン (T)アントン・デルモータ (Bs)ヴァルター・ベリー 1961年10月5日~12日録音





Mozart:Requiem in D Minor, K.626 [1.Introitus]

Mozart:Requiem in D Minor, K.626 [2.Kyrie]

Mozart:Requiem in D Minor, K.626 [3.Sequentia: Dies irae]

Mozart:Requiem in D Minor, K.626 [4.Sequentia: Tuba mirum]

Mozart:Requiem in D Minor, K.626 [5.Sequentia: Rex tremendae]

Mozart:Requiem in D Minor, K.626 [6.Sequentia: Recordare]

Mozart:Requiem in D Minor, K.626 [7.Sequentia: Confutatis]

Mozart:Requiem in D Minor, K.626 [8.Sequentia: Lacrimosa]

Mozart:Requiem in D Minor, K.626 [9.Offertorium: Domine Jesu]

Mozart:Requiem in D Minor, K.626 [10.Offertorium: Hostias]

Mozart:Requiem in D Minor, K.626 [11.Sanctus]

Mozart:Requiem in D Minor, K.626 [12.Benedictus]

Mozart:Requiem in D Minor, K.626 [13.Agnus Dei]

Mozart:Requiem in D Minor, K.626 [148.Communio: Lux aeterna]


モーツァルトの絶筆となった作品です

モーツァルト毒殺説を下敷きにしながら、芸術というものがもつ「酷薄さ」と、その「酷薄さ」を鮮やかに浮かび上がらせるかのようにモーツァルトの音楽の魅力を振りまいた映画が「アマデウス」でした。
 そのラストのクライマックスのシーンで、魔笛とレクイエムの音楽がこの上もなく効果的に使われていました。

 魔笛の輝くような明るい音楽と、陰鬱なレクイエムの音楽。光と陰が交錯する中から、モーツァルトの天才が浮かび上がってくる場面です。

 それは、同時に天才モーツァルトと、凡人サリエリの違いを残酷なまでに明らかにする場面でした。
 いや、凡人サリエリという言う方は正しくありません。真の凡人はモーツァルトの偉大さを全く知りません。
 しかし、サリエリは悲しいまでにモーツァルトの天才を知っています。

 死を目前にしたモーツァルトが口述するレクイエムのスコア、それを必死で理解しながらスコアに書き留めていくサリエリ。
 それは、悲しいまでにこの二人の関係を象徴的に表した場面でした。

 神の声が訪れるのはモーツァルトであって、決してサリエリではなく、彼にできるのは、モーツァルトを通して語られる神の声を、ただ必死で理解してそれをスコアに書き写すだけ。
 おそらく、そのような存在として自分を認識することは、「芸術家」として最も辛く、苦痛に充ちたものであったはずです。

 もっとも、そのような辛い認識に到達したのは、コンスタンツェが夫に内緒でサリエリのもとにスコアを持ち込んだときです。しかし、そのような残酷な認識をこれほども見事に映像として提示しているのはこのラストのシーン以外にはありません。
 そして、そのような場面にふさわしい音楽もまた、この「レクイエム」以上のものはちょっと思い当たりません。 

ジャスマイヤーの補筆した後半部分になっても面白く聞かせてしまう力業に拍手


カラヤンのモーツァルトというのはあまり評判がよろしくないようです。
もう少し肩の力を抜いて気楽にやればいいと思うのですが、どうにも気合いが入りすぎて妙に構えが大きくなって、結果としてモーツァルトらしさから遠のいてしまう傾向がありました。
ですから、避暑地のサンモリッツで、お気に入りのメンバーを集めて気楽に録音した時の方が上手くいっているような気がしたものです。

しかしながら、このレクイエムはたっぷりと時間もかけて、選りすぐりのソリストとウィーンの合唱団を招いて録音したのですから、当然の事ながら気合いが入っています。
気合いが入っていますから、これまた当然のように大きな構えになり、まるでオペラを聞いているかのようなレクイエムになっています。

ところが、刷り込みというのは恐ろしいもので、私の場合はこの作品のファースト・コンタクトはベーム&ウィーンフィルによる1971年盤でしたから、このオペラのような演奏を聞いてもそれほど違和感を感じないという「恐ろしい」事になっていることに気付いてしまったのです。それどころか、ベーム盤ほど引きずるような遅いテンポでもないので、これはこれでいいんじゃないのか、等と思ってしまうのです。

しかし、感覚的な話で申し訳ないのですが、同じ大仕掛けでも、そしてとんでもなく遅い引きずるようなテンポであっても、ベームの録音からはモーツァルトを感じることが出来ます。
しかし、カラヤンの録音からは、それが大仕掛けで、オーケストラが濃厚に歌えば歌うほど、モーツァルトとは異なる遠い世界に行ってしまうような気がするのです。

もちろん、それは感覚的な話にしかすぎないのですが。(^^;

ベームにしてもカラヤンにしても、この演奏における主役はオーケストラであり、そこにソリストが加わり、合唱は一番後景に退いています。
なんと言ってもオーケストラの響きはこの上もなく分厚いですし、ここぞと言うところで濃厚に歌い上げるのはいつもオーケストラであって、その役目はソリストや合唱にはまわってこないのです。

おそらく、それは様式的に言えば間違いなのでしょう。

いくら私がピリオド演奏に否定的でも、それくらいの事は認めます。
例えば、ペーター・ノイマンによるレクイエムやミサ曲などを聞かせてもらった時に、なるほどそれらの音楽は基本的に「合唱曲」なんだと言うことがよく分かりました。

ですから、これからはこういう大仕掛けの時代錯誤の演奏は聴けなくなっていくでしょう。
ところが、それが結果として、永久凍土の中に閉じこめられたマンモスのような貴重性をそれらの演奏に対して与えてしまっているように見えるのが皮肉です。

それから、このカラヤンの61年盤を聞いていて、もう一つだけ指摘しておきたいことがあります。
それは、この作品の後半部分、つまりはジャスマイヤーによって補筆された部分についてのカラヤンのスタンスについてです。

「ラクリモサ」でモーツァルトが筆を置いた後の部分、つまりはジェスマイヤーが補筆した部分になると、ほとんどの演奏において音楽が一気に希薄になります。
それは、最後まで演奏しないとレクイエムとしての形は整わないので仕方なく演奏するけれども、どうせモーツァルトが書いた音楽ではないんだから、いくら頑張って演奏しても虚しいだけだと言う感じがひしひしと伝わってくるのです。

もちろん、「ラクリモサ」までは真面目に頑張るけれども、後の部分は適当に流そうなどとは思ってはいないのでしょうが、現実問題として音楽そのものが希薄になっているので、同じ調子で演奏していればどうしても手抜きをしたように聞こえてしまうのでしょう。
しかし、カラヤンはありとあらゆる手練手管を駆使する事によって、ジェスマイヤーの補筆した部分に突入しても、そう言う「手抜き感」を感じさせないように面白く聞かせてしまうのです。
それは見事なまでの「力業」です。

そして、そう言う力業を聞かされてしまうと、「これはモーツァルトではないでしょう」と言うようなよくある批判などは無意味なものに思えてしまうのです。

なお、録音日程的には、このモーツァルトのレクイエムは面白い位置にあります。

なぜならば、61年の9月5日から10月8日にかけてウィーンフィルとの最後のDecca録音(ブラームスやドヴォルザークの交響曲、チャイコフスキー、グリーグ、ホルストの管弦楽曲、そしてアダンのバレエ音楽)に取り組んでいるので、このレクイエムの録音はそのDeccaと録音日程と重なっているのです。

ベルリンフィルとのレクイエムはベルリンの「イエス・キリスト教会」で録音していますし、一連のDecca録音はウィーンの「ゾフィエンザール」で行っているのですから、カラヤンはこの間を往復しながら二つの録音セッションをこなしていたことになるのです。
通常は考えられないような大変な日程だと思うのですが、おそらくは綺麗にDeccaとの手切れを行うためには避けられなかったのでしょう。

そう考えると、カラヤンという人は世間が言うほどには自己中心の男ではなかったのかも知れません。

よせられたコメント

2018-04-28:アレックス103


【リスニングルームの更新履歴】

【最近の更新(10件)】



[2024-11-21]

ショパン:ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調, Op.11(Chopin:Piano Concerto No.1, Op.11)
(P)エドワード・キレニ:ディミトリ・ミトロプーロス指揮 ミネアポリス交響楽団 1941年12月6日録音((P)Edword Kilenyi:(Con)Dimitris Mitropoulos Minneapolis Symphony Orchestra Recorded on December 6, 1941)

[2024-11-19]

ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.77(Brahms:Violin Concerto in D major. Op.77)
(Vn)ジネット・ヌヴー:イサイ・ドヴローウェン指揮 フィルハーモニア管弦楽 1946年録音(Ginette Neveu:(Con)Issay Dobrowen Philharmonia Orchestra Recorded on 1946)

[2024-11-17]

フランク:ヴァイオリンソナタ イ長調(Franck:Sonata for Violin and Piano in A major)
(Vn)ミッシャ・エルマン:(P)ジョセフ・シーガー 1955年録音(Mischa Elman:Joseph Seger Recorded on 1955)

[2024-11-15]

モーツァルト:弦楽四重奏曲第17番「狩」 変ロ長調 K.458(Mozart:String Quartet No.17 in B-flat major, K.458 "Hunt")
パスカル弦楽四重奏団:1952年録音(Pascal String Quartet:Recorded on 1952)

[2024-11-13]

ショパン:「華麗なる大円舞曲」 変ホ長調, Op.18&3つの華麗なるワルツ(第2番~第4番.Op.34(Chopin:Waltzes No.1 In E-Flat, Op.18&Waltzes, Op.34)
(P)ギオマール・ノヴァエス:1953年発行(Guiomar Novaes:Published in 1953)

[2024-11-11]

ドヴォルザーク:ヴァイオリン協奏曲 イ短調, Op.53(Dvorak:Violin Concerto in A minor, Op.53)
(Vn)アイザック・スターン:ディミトリ・ミトロプーロス指揮 ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団 1951年3月4日録音(Isaac Stern:(Con)Dimitris Mitropoulos The New York Philharmonic Orchestra Recorded on March 4, 1951)

[2024-11-09]

ワーグナー:「神々の黄昏」夜明けとジークフリートの旅立ち&ジークフリートの葬送(Wagner:Dawn And Siegfried's Rhine Journey&Siegfried's Funeral Music From "Die Gotterdammerung")
アルトゥール・ロジンスキー指揮 ロイヤル・フィルハーモニ管弦楽団 1955年4月録音(Artur Rodzinski:Royal Philharmonic Orchestra Recorded on April, 1955)

[2024-11-07]

ベートーベン:ピアノ協奏曲第4番 ト長調 作品58(Beethoven:Piano Concerto No.4, Op.58)
(P)クララ・ハスキル:カルロ・ゼッキ指揮 ロンドン・フィルハーモニック管弦楽団 1947年6月録音(Clara Haskil:(Con)Carlo Zecchi London Philharmonic Orchestra Recorded om June, 1947)

[2024-11-04]

ブラームス:交響曲第3番 ヘ長調, Op.90(Brahms:Symphony No.3 in F major, Op.90)
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1952年9月29日&10月1日録音(Arturo Toscanini:The Philharmonia Orchestra Recorded on September 29&October 1, 1952)

[2024-11-01]

ハイドン:弦楽四重奏曲 変ホ長調「冗談」, Op.33, No.2,Hob.3:38(Haydn:String Quartet No.30 in E flat major "Joke", Op.33, No.2, Hob.3:38)
プロ・アルテ弦楽四重奏団:1933年12月11日録音(Pro Arte String Quartet]Recorded on December 11, 1933)

?>