クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~

ベートーベン:ピアノ・ソナタ第31番 変イ長調 Op.110

(P)フリードリヒ・グルダ 1953年11月26日録音





Beethoven: Piano Sonata No.31 In A Flat Major, Op.110 [1. Moderato cantabile molto espressivo]

Beethoven: Piano Sonata No.31 In A Flat Major, Op.110 [2. Allegro molto]

Beethoven: Piano Sonata No.31 In A Flat Major, Op.110 [3. Adagio ma non troppo - Fuga (Allegro ma non troppo)]


ピアノ作品の作曲には制約が多すぎる

ベートーベンのピアノ作品の最後を飾るのが一般的に「後期ソナタ」と呼ばれる3つのソナタです。


  1. ピアノソナタ第30番 ホ長調 作品109(1820年作曲)

  2. ピアノソナタ第31番 変イ長調 作品110(1821年作曲)

  3. ピアノソナタ第32番 ハ短調 作品111(1822年作曲)



最後のハ短調ソナタを作曲した後でもベートーベンには5年の歳月があったのですが、彼はピアノ作品の作曲には制約が多すぎると述べてこの分野から去ってしまいます。この言葉をどのように受け取るのかは難しいのですが、考えるきっかけとしては作品101のイ長調ソナタ(28番)と「ハンマークラヴィーア」と題された作品106の巨大なソナタ(29番)との関連性を見ればいいのかもしれません。

聞いてみれば分かるように、後期ソナタが持っているある種の幻想性に近いのはイ長調ソナタの方です。
それに対して、「ハンマークラヴィーア」の方はアダージョ楽章の深い幻想性に惑わされるのですが、音楽全体の形は「熱情」や「ワルトシュタイン」に通ずる構造を持っているように聞こえます。言葉は悪いかもしれませんが、作品101のイ長調ソナタから見れば、いささか「先祖帰り」したような作品になっています。
しかし、それは言葉をかえれば、ベートーベン自身にとって一度前に進み出した歩みを留めて過去の自分が辿ってきた道を総決算するような営みだったのかもしれないのです。そして、その総決算によってもう一度歩みを前に踏み出したのが、これらの後期ソナタだったと言えるのです。

だとすれば、いかにベートーベンといえども、3つの後期ソナタにおけるチャレンジはピアノという楽器を用いた音楽の一つの行き止まりだったはずです。
その、ある意味での「やりきった感」が「ピアノ作品の作曲には制約が多すぎる」という言葉になり、彼の創作活動の中心が弦楽四重奏曲の世界に収斂していったのでしょう。

その証拠に(と言うのもおかしないいかたですが)、これらのソナタは当時の聴衆にはなかなか受け入れられなかっただけでなく、その後1世紀にわたって広く受け入れられることはなかったのです。これらの音楽がコンサートのメインピースとなるのは20世紀になるのを待たなければならなかったのです。
そして、創作という分野においても、彼の中期の作品は多くの作曲家に影響を与えたのですが、この後期ソナタをかみ砕くことができた作曲家はほとんどいなかったのです。

その結果として、チャールズ・ローゼンはこれらの作品は「聞き手の積極的な参加」が求められる音楽だと述べています。つまりは、構造的に極めて複雑であり、ベートーベンが果敢に挑戦した実験的な営みを聞き分ける能力が聴衆にも求められるということです。
言葉をかえれば、これらの作品はその幻想的な雰囲気に浸っているだけでも十分かもしれないのですが、もう少しベートーベンのチャレンジを聞き分けることができれば、より一層、これらの作品の凄さが分かると言うことなのでしょう。

ピアノソナタ第31番 変イ長調 作品110

このソナタは後期ソナタの中では唯一華やかに最後が締めくくられます。また、その大きな盛り上がりの前に「Arioso dolente(嘆きの歌)」と指示されたこの上もなく深い感情に満ちた音楽が歌われます。ですから、この「作品110」のソナタが好きだという人は意外と多いように見受けられます。

また、このソナタは全体を通して似たような動機が何度も出てきます。冒頭の上昇して下降する音型や、音階で6度上昇して下降する音型を記憶にとどめておくと、何となく音楽全体の形が把握しやすくなるのはベートーベンらしい音楽の作り方です。

さらに特徴的なのは、それぞれの楽章の雰囲気がきっぱりと異なっていて、さらに言えば最終楽章も「嘆きの歌」の部分とそこから立ち直っていく「フーガ」の部分ではっきりと性格が分かれています。と言うことは、このソナタは4つのはっきりと性格の異なるパーツで組み上がっていると言うことになります。

第1楽章には「con amabilita(愛らしく)」と指示されています。そして、この感情は確かに楽章全体を通して貫かれています。そして、ここで提示された二つの動機がソナタ全体を構築する素材にもなっています。

第2楽章の「スケルツォ」はベートーベンが得意とした音楽表現です。当時のウィーンで流行していた歌の旋律を使って皮肉とある種の荒々しさがこの楽章を貫いています。
そして、その背景には極めて複雑なアクセントの付け方がその様な感情表現に大きな役割を果たしています。

実はこの楽章のアクセントの付け方にはいろいろと論議があるようで、少なくともそう言う配慮も無しにノッペリと演奏しているピアニストがいれば、それだけで駄目出しされても仕方がないのかもしれません。
そして、スケルツォの音楽がリタルダンドされることで複雑なリズがリセットされて「Adagio ma non troppo」と指示された最後の楽章に突入します。

ここの気分の切り替えは実に感動的ですが、この部分は「Adagio ma non troppo」と指示された「scena(シェーナ)」です。「シェーナ」とはアリアの前に歌われるドラマティックな歌のことであり、さらに「Adagio ma non troppo(ゆるやかに、しかし遅すぎないように)」と指示されているのですから、ここのテンポ設定は微妙です。さらに、この「シェーナ」は「レチタティーヴォ」に引き継がれテンポは上がっていくように指示されています。そして、この「レチタティーヴォ」が大きく盛り上がったところから急激にディミヌエンドして「Arioso dolente(嘆きの歌)」が始まります。

しかし、この「嘆きの歌」は完全なアリアにはなっていなくて、レチタティーヴォとの組み合わせでできていることはしっかりと意識する必要があるでしょう。
そして、この「嘆きの歌」のアリアがもう一度帰ってくるのですが、こここそはピアニストの腕の見せ所であり、聞き手にとってももっとも感動的な部分だと言えます。
ソフトペダルがおよそ30小節にわたって使われていて、このベールに包まれたような音色で息が詰まるような重い響きを実現できるか否かはこの作品の成否を左右するといっても過言ではないでしょう。

そして、この絶望的な状況から、ふと光が差し込むようにフーガが始まります。
ローゼン先生も指摘しているように、ここで使われているフーガの技法は使い古されたアカデミックな手法です。しかし、ベートーベンはそのような手垢にまみれた手法を使って実に感動的な音楽にしあげているのです。
ベートーベンがここで使っているのは主題の反行、拡大(遅くなる)、縮小(速くなる)だけです。

フーガの主題は上昇しているのですが反行形では当然のことながら下降します。その下降音形は嘆きをさらに深くするようです。そして、続いて主題は拡大されることでテンポは2倍遅くなるのですが、そのテンポは加速されることでで少しずつ気分が切り替わり、やがて元のテンポに戻っていくことで力が回復してきます。
そして、そこからさらにテンポが上がるにつれて主題は縮小されて盛り上がっていくのですが、そこから全てが停止したようなppの世界がやってきます。
しかし、その凍り付いた世界を打ち破るように音楽は力を取り戻し、長いクレッシェンドの末に音楽は結ばれるのです。

ローゼン先生の教えに従って概略をスケッチすればこういう感じです。

見晴らしのいい爽快で新鮮でしかも深いベートヴェン


ブレンデルのソナタ全集を紹介したときにグルダの全集に関しても少しばかりふれました。
一般的にグルダによるベートーベンのピアノ・ソナタ全集は1967年に集中的に録音されたAmadeoでのステレオ録音と、1954年から1958年にかけてモノラル・ステレオ混在で録音されたのDecca録音の二つが知られていました。しかし、最近になってその存在が知られるようになったのがここで紹介しているた1953年から1954年にかけてウィーンのラジオ局によってスタジオ収録された全曲録音です。

この録音は、きちんとセッションを組んで以下のような順番で全曲が録音されたようです。

  1. 1953年10月8&9日録音:1番~3番

  2. 1953年10月15&16日録音:4番~7番&19番~20番

  3. 1953年10月22日録音:8番~10番

  4. 1953年10月26日録音:11番

  5. 1953年10月29日録音:12番~13番&15番

  6. 1953年11月1日録音:14番

  7. 1953年11月6日録音:16番~18番&21番

  8. 1953年11月13日録音:22番&24番~25番

  9. 1953年11月20日録音:23番&27番

  10. 1953年11月26日録音:30番~31番

  11. 1953年11月27日録音:26番&32番

  12. 1954年1月11日録音:28番~29番


グルダは年代順にベートーベンのピアノ・ソナタを全曲録音するという構想を立てていて、それを実際に行ったのは1953年のことでした。その年に、グルダはなんとオーストリアの6都市でベートーベンのピアノ・ソナタ全曲演奏会を行うことになるのですが、おそらくはその集大成として1953年10月8日から1954年1月11日にかけて、セッション録音を行ったのでしょう。

しかしながら、その全曲録音が終了した1954年からグルダはDeccaで同じような全曲録音を開始するのです。
この1953年から1954年にかけて録音を行ったウィーンのラジオ局は、当時は依然としてソ連の管理下にあったこともあってか、結局は一度も陽の目を見ることもなく「幻の録音」となってしまったようなのです。

それでは、その「幻の録音」が何故に今頃になって陽の目を見たのかと言えば、録音から50年が経過しても未発表だったのでパブリック・ドメインとなったためでしょう。そう考えてみると、著作権というのは創作者の権利を守るとともに、一定の期間を過ぎたものはパブリック・ドメインとして多くの人に共有されるようにすることには大きな意味があるといえるのです。

さて、私事ながら、ベートーベンのピアノ・ソナタ全曲の「刷り込み」はグルダのAMADEOでのステレオ録音でした。つまりは、全曲をまとめて聴いたのがその録音だったのです。
理由は簡単です。その当時、AMADEOレーベルから発売されていたこの全集が一番安かったからです。(それでも1万円ぐらいしたでしょうか。昔はホントにCDは高かった)

ただ、買ってみて少しがっかりしたことも正直に申し上げておかなければなりません。なぜなら、その当時の私の再生装置では、なぜかピアノの響きが「丸く」なってしまって、それがどうしても我慢できなかったからです。
その後、CDプレーヤーは捨ててファイル再生に(PCオーディオ)へと移行していく中で、意外としゃっきりと鳴っていることに気づかされて、そのおかげでグルダの演奏の凄さが少しは分かるようになっていったものでした。音楽家への評価と再生装置の問題は意外と深刻な問題をはらんでいるのです。

当時のHMVのキャッチコピーを見ると「録音から既に長い年月が経過していますが、その間にリリースされた全集のどれと較べても、全体のムラのない完成度や、バランスの見事さ、響きの美しさといった点で、いまだに優れた内容を誇り得る全集だと言えるでしょう。」と書いています。
CDプレーヤーでお皿を回しているときは、この「バランスの見事さ、響きの美しさ」と言う評価には全く同意できなかったです。ただし、今のシステムならば十分に納得のいくものとなっています。

そして、それとほぼ同じ事がこの若き日の録音にもいえるのです。
1953年から1954年と言えば、バックハウスやケンプが現役バリバリで活躍していた時代でした。彼らのようなドイツの巨匠によるベートーベンは、シュナーベルやフィッシャーなどから引き継がれてきたドイツ的なベートーベン像でした・・・おそらく・・・。
そして、それ故に彼らのソナタ全集は多くの聞き手から好意的に受け入れられ、その結果としてメジャーレーベルから華々しく発売されることになったのです。

そう言う巨匠達の演奏と較べれば、このグルダのベートーベンは全く異なった時代を象徴するような演奏でした。
もしもバックハウスの演奏が「絶対的」なものならば、このグルダの演奏は明らかに異質な世界観のもとに成り立っています。
全体としてみれば早めのテンポで仕上げられていて、シャープと言っていいほどに鋭敏なリズム感覚で全体が造形されています。そして、ここぞと言うところでのたたみ込むような迫力は効果満点です。この、「ここぞ!」というとところでのたたき込み方は67年のAMADEOでのステレオ録音よりもこの50年代のモノラル録音の方が顕著です。
つまりは、それだけ覇気にあふれていると言うことなのでしょう。

ですから、バックハウスのようなベートーベンを絶対視する人から見れば、この演奏を「軽い」と感じる人もいることは否定しません。
たとえば、グルダの演奏を「音楽の深さや重さを教えているものではなく、極めて口当たりの良い軽い音で、しかも気軽に聞けるように作り直している」と評価している人もいたほどでした。それは、67年の録音に対してのものでしたから、それとほぼ同じスタンスで演奏した50年代の初頭の録音ならば(それは結局は陽の目を見なかったのですが)、大部分の人がそのような「否定的」な感想を持ったのだろうと思います。

しかし、ベートーベンはいつまでもバックハウスやケンプを模倣していないと悟れば、このグルダの録音は全く新しいベートーベン像を呈示していることに気づかされます。
つまり、シュナーベルから引き継がれてきたドイツ的(何とも曖昧な言葉ですが・・・^^;)なベートーベン像だけが絶対的な「真実」ではないと悟れば、このグルダが提供するベートーベン像の新しさは逆に大きな魅力として感じ取れるはずです。何故ならば、重く暑苦しい演奏は数あれど、ここまで見晴らしのいい爽快で新鮮でしかも深いベートヴェンはこれが初めてかもしれないのです。

そう言う意味で、録音から50年が経過して、著作権の軛から解放されてこの演奏が陽の目をみることが出来たことは喜ばなければなりません。

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