ベートーベン:ピアノソナタ第31番 変イ長調 作品110
(P)チャールズ・ローゼン 1964年12月14, 18日録音
Beethoven:Piano Sonata No.31 in A flat major Op.110 [1st movement : Moderato cantabile molto espressivo]
Beethoven:Piano Sonata No.31 in A flat major Op.110 [2nd movement : Scherzo: Allegro molto]
Beethoven:Piano Sonata No.31 in A flat major Op.110 [3rd movement : Adagio ma non troppo. Fuga: Allegro ma non troppo]
嘆きの歌?疲れはて、嘆きつつ
最後の3つのソナタはミサ・ソレムニスと同時並行で作曲されたことはよく知られた事実です。
そしてこれらの作品は今までのソナタとは全く違う世界を世界をしめしています。それを一言で言えば「深い悲嘆」と「浄化」です。
そして悲嘆と言うことなら、この真ん中の「作品110」こそが、もっとも深い悲嘆に包まれた作品となっています。
とりわけ第3楽章の「嘆きの歌」と言われるように、その全体は果てしもないような深い悲しみで包まれています。それ故か、ワーグナーに代表されるように、ロマン派の作曲家たちに大変好まれた作品でした。
ピアノソナタ31番 Op.110 変イ長調
第1楽章
モデラート・カンタービレ・モルト・エスプレッシーヴォ 変イ長調 4分の3拍子 ソナタ形式
第2楽章
アレグロ・モルト ヘ短調 4分の2拍子 三部形式
第3楽章
アダージョ・マ・ノン・トロッポーアレグロ・マ・ノン・トロッポ 変イ長調 4分の3拍子ー8分の4拍子 序奏ーフーガ
アダージョの大きな序奏とフーガ形式からなる「嘆きの歌」
明晰さの極み
チャールズ・ローゼンというピアニストを記憶にとどめている人は殆どいないのではないでしょうか?
しかし、この名前は一部では非常に有名です。それは、「ピアノ・ノート 演奏家と聴き手のために」や「音楽と感情」、「ベートーヴェンを“読む” 32のピアノソナタ」の著者として知られているからです。
ただし、音楽学者というわけではありません。
それらの著作は、そう言う学者の文章とは雰囲気が随分と異なります。取り上げている内容は幅広く、その幅広い内容を様々なエピソードを交えながら楽しく読ませてくれるものだからです。
この背景には、ローゼンの特異なキャリアが影響を与えています。
ローゼンはジュリアード音楽院で学び始めるのですが、その道を途中で下りてしまいます。何があったのかは分かりませんが、少なくともピアニストとしての才能に見切りをつけて中退したわけでないことは確かです。
彼は何を思ったのか、ジュリアードには見切りをつけてモーリツ・ローゼンタールのもとでピアノを学び始め、同時にフランス文学も学び始めるのです。ただし、その「学ぶ」というのは半端なレベルではなく、1951年には(彼が24歳の時)プリンストン大学でフランス文学の博士号を取得してしまうのです。
そして、その後はこちらが本業となって、オクスフォード大学やハーバード大学、マサチューセッツ工科大学などの名門大学でフランス語を教え、その傍らにピアニストとしての活動も続けるようになったのです。
つまりは、ピアニストが片手間に文筆稼業に取り組んだのではなくて、本職の文筆家がピアニストも行っていたのです。
嘘か本当かは分かりませんが、ある編集者とランチをともにしたときに、その会話の面白さと内容の豊富さにその編集者は「君の書いたものなら何でも出版する」と約束したそうです。さもありなんです。
ただし、今回彼の録音を取り上げたのは、そう言う文筆業者のピアノがどれほどのものか聞いてやろうという、いささか底意地の悪い興味からでした。「ベートーヴェンを“読む” 32のピアノソナタ」の著者がどんなベートーベンを演奏しているか聞いてみてやろうというわけです。
調べてみると、60年代の初めに2曲録音しています。
もう一つ、68年から70年にかけて、「The Late Beethoven Piano Sonata」と題して、後期の6曲をまとめて録音しています。
正直言って、64年に録音した2つのソナタに関しては驚かされました。それはホールの響きなどは一切取り込んでいないような、まるでピアノの中にマイクを突っ込んで録音したのではないかと思うほどの音作りなのです。
これは、考えようによっては非常に恐い録音の仕方です。なぜならば、そこでは一切の誤魔化しが許されないからです。
しかし、ローゼンのピアノはそう言う恐い状況などは一切気にすることなく、実に見事に弾ききっているのです。それは、後に「ベートーヴェンを“読む” 32のピアノソナタ」を書いた人らしく、一音たりとも曖昧にすることのない、まさに明晰さの極みにある録音と演奏なのです。
この2週間ほど、この対極にあると思われるフランソワのピアノばかり聞いていたので、あらためて時代はフランソワを置き去りにしていったんだと言うことを痛感させられました。
しかし、残念なことに、僅か5年しか隔たっていないにもかかわらず、「The Late Beethoven Piano Sonata」の方は、明晰ではあっても、64年盤のような聞くものを驚かすほどの力は失っています。そこでは、ふんだんにホールの響きが取り込まれていて、確かに聞きやすいといえば聞きやすいのですが、細部の曖昧さがあっても、それはホールの間接音によって美しく覆われてしまっています。(・・・のように聞こえます。)
ローゼン先生に対して恐れ多い物言いになるのですが、疑いもなく、この5年ほどの間にローゼン先生のテクニックは劣化しています。
おそらく、この時、既に64年の時のようなやり方では演奏はできなかったのでしょう。と言うか、殆どのピアニストは、そんな事はできないのですが・・・。
それが原因かどうかは分かりませんが、70年代以降もピアニストとしての活動は続けながらも、録音は殆ど残していません。
彼の録音は、59年のラヴェルから始まって、この70年の「The Late Beethoven Piano Sonata」辺りで幕をとしています。そして、その後はコンサート活動は続けながらも、教育活動や文筆業に重点を置くようになっていったようです。
つまりは、才能豊かな人らしく、自己批判の能力も高かったのでしょう。
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