シューベルト:弦楽四重奏曲第2番 ハ長調 D.32
ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団 1952年録音
Schubert:弦楽四重奏曲第2番 ハ長調 D.32 「第1楽章」
Schubert:弦楽四重奏曲第2番 ハ長調 D.32 「第2楽章」
シューベルトの弦楽四重奏曲の概要
シューベルトの弦楽四重奏曲は第15番までナンバーリングされていますから15曲存在するというのが一般的な常識ですが、習作時代の作品が大量に失われていたり、残片だけが残っていたりするので、彼がその生涯に何曲の弦楽四重奏曲を残したのかを正確に特定することは不可能です。また、その辺の詳細を詳しく跡づける能力はユング君にはありませんので、ここでは一般的に知られている15の作品の概要について述べるにとどめます。
<家庭内での演奏を目的とした最初の作品群>
・弦楽四重奏曲第1番 ハ短調 D.18・・・1812年
・弦楽四重奏曲第7番 ニ長調 D.94・・・1812年
・弦楽四重奏曲第2番 ハ長調 D.32・・・1812年
・弦楽四重奏曲第3番 変ロ長調 D.36・・・1813年
・弦楽四重奏曲第4番 ハ長調 D.46・・・1813年
・弦楽四重奏曲第5番 変ロ長調 D.68・・・1813年
・弦楽四重奏曲第6番 ニ長調 D.74・・・1813年
・弦楽四重奏曲第10番 変ホ長調 D.87・・・1813年
まず、シューベルトの初期作品は家庭内での合奏を楽しむために書かれたものだといえます。シューベルトの父親はあまり上手くはなかったようですがチェロを演奏しましたし、二人の兄はヴァイオリンをかなり上手に演奏したと伝えられています。これにシューベルトがヴィオラで参加して家族でカルテットの演奏を楽しむのが一家の習慣でした。
1812年に書かれたと思われる第1番と第2番まさにその様な目的のために書かれた作品でした。
四重奏曲多産の年と言われる1813年に創作された第3番から第6番(第7番は旧全集では14年の作品とされていましたが、最近の研究では11年から12頃の作品であると確定されています。)、さらに第10番の作品群では、サリエリ(映画モーツァルトですっかり悪役のイメージが定着してしまったあのサリエリです)に作曲技法を学ぶようになったために、それ以前の作品と比べると格段に充実した内容になってはいます。しかし、それでも目的はあくまでも家庭内での合奏の楽しみのためでした。そのことは、それほど優秀な演奏家とはいえなかった父親の技量を考慮してチェロパートが易しく演奏できるように配慮されていることからも明らかです。
ですから、これらの作品を第1期の作品と分類しても大きな誤りにはならないでしょう。
なお、第10番は「作品番号125の1」として出版されたために、かつては後期の作品と思われていましたが、現在では第6番と第8番の間に書かれた初期作品であることが明らかになっています。
<プロの四重奏団による演奏を意識した中期の作品群>
・弦楽四重奏曲第8番 変ロ長調 D.112・・・1814年
・弦楽四重奏曲第9番 ト短調 D.173・・・1815年
・弦楽四重奏曲第11番 ホ長調 D.353・・・1816年
1813年にコンヴィクトを去ったシューベルトは、師範学校の予備科に入学するのですが、そこも1814年にはやめてしまい、それ以後は助教員の生活を始めるようになります。
おそらくは、この頃から彼はプロの作曲家として生きていくことを考え始めたのではないでしょうか。
シューベルトと言えば、定職に就かず住む家も持たず、親しい友人たちの支援を得て作曲活動を続けた典型的なボヘミアン人生の人だと言われます。しかし、彼自身は常に一人前の作曲家として世に出ることを常に求め続けていましたから、その様な生活はシューベルトにとっては準備段階にすぎなかったはずです。しかし、悲しむべきは、その様な準備段階から抜け出して、いよいよプロとしての第1歩を踏み出しだときに、わずか31才でこの世を去ってしまったことです。
それ故に、後世の人がシューベルトの人生を俯瞰してみると、人生の全てがボヘミアン的なものにおおわれているかのように見えてしまうのも仕方がなかったのかもしれません。
変な喩えですが、「アーティスト」をめざしながらプー太郎でがんばっていた若者が、夢がかなう前にポックリ逝っちゃうと、その人生全てがポー太郎に見えてしまうのと同じかもしれません。
それ故に、第7番と第8番は創作時期では大きな違いがないのですが、その様な意識の有り様が大きく影響していると思うのですが、内容的にははっきりと一線を画したものになっています。
この第8番の第1楽章はわずか4時間半で創作したとシューベルトはメモの中に記しています。いかに早書きのシューベルトといえども弦楽四重奏曲の一つの楽章をそんな時間で一から書けるはずはないのであって、実はすでに創作してあった3重奏曲を書き直したものだったのです。しかし、だからといって、この作品は安直に書かれたものではなく、演奏に難のあった父への配慮はすっかり姿を消して、完全にプロの演奏家を想定して書かれたものであることは明らかです。
そして、プロを目指し始めたシューベルトは明らかにハイドンからモーツァルトへといたる古典派の道を学び、それを自らの中で消化しようと努めています。しかし、残念ながらそれはあまり上手くいっていないようにユング君には聞こえます。
世間的には古典的均斉とロマン的表現との融和が自然に成し遂げられた作品群として評価されているのですが、最晩年の偉大な作品を知る耳からすると何ともいえず窮屈な思いがするのは否定できません。シューベルトならば、もっと深い情緒を作品の中に盛り込めるはずだという贅沢な要求を否定できることができません。
逆に、ベートーベンによって完成された古典的緊張感と比べてみれば、作品の至る所でシューベルトの「歌」があふれ出してしまってあまりにも「緩み」が目についてしまいます。
この時期のシューベルトは明らかに「歌曲」の人でした。その「歌」を「弦楽四重奏曲」という最も強固な構造が必要とされる形式の中でいかにして咀嚼していくかという課題に答え切れていないことは明らかでした。1816年に書かれた11番の作品は、古典派音楽を学びそれを自らの中に取り入れていくという過程の中では一つの到達点を示すすぐれた作品だといえますが、それは同時に次のステップへと踏み出すうえでの課題を明らかにした作品だともいえます。
そのために、シューベルトはこのジャンルにおいて4年という沈黙の時期をむかえることになります。
31年しかこの世に生きることを許されなかったシューベルトにとって4年という時間はあまりにも長いものですが、それはこの分野において克服しなければいけない課題がいかに大きいものだったかを証明する時間の長さだといえます。
<後期の偉大な作品群への過渡期の作品>
・弦楽四重奏曲第12番 ハ短調 D.703 <<四重奏断章>>・・・1820年
もちろんこの作品を含めて後期の作品としてひとまとまりにしていいのかもしれませんし、世間的にはそうする方が一般的です。
しかし、後期の3大作品との間に再び4年のブランクが存在することを考えると、11番で明らかになった課題を解決するための中間報告という位置づけで、この断章一つでこのジャンルにおけるシューベルトの一つの時期を代表させても問題はないでしょう。
この作品はわずか1楽章しか残されていないのですが、ここには私たちがよく知るシューベルトの姿をはっきりと認めることができます。それは、着心地の悪かった「古典派」という衣装を脱ぎ捨てて、自分の「歌」を存分に歌い上げているからです。そして、その歌が散漫なものにならないように、全体の構成は古典派の決まり事に縛られることなく独自のスタイルを模索していることがはっきりとうかがえます。その意味では、この作品をもってシューベルトが真にシューベルトとなった後期の入り口と考えても何の問題もありません。
しかし、シューベルトはなぜかこの作品を第2楽章の途中まで書いて放棄してしまっています。なぜか?
おそらくは、このスタイルで4楽章を書き上げるまでにさらに4年の年月を要したと見るのが妥当なのではないでしょうか。
<後期の3大作品>
・弦楽四重奏曲第13番 イ短調 D.804 <<ロザムンデ>>・・・1824年
・弦楽四重奏曲第14番 ニ短調 D.810 <<死と乙女>>・・・1824年
・弦楽四重奏曲第15番 ト長調 D.887・・・1826年
シューベルトをロマン派の音楽家に数え入れていいのかは少しばかり躊躇いがありますが、それでもこの3つの作品がベートーベンによって完成された弦楽四重奏曲というジャンルに新たな局面を切り開き、ロマン派へと大きく扉を開けたということに対しては誰も異存はないでしょう。
この3作品については、シューベルトは友人に宛てて次のように述べています。あまりにも有名なものですが、知らない人は知らないわけですからあらためて載せておきましょう。
「僕はこの世で最も不幸で、哀れな人間だと感じている。」と人生に対する悲観的な見方を吐露しながらもシューベルトは次のように述べています。
「歌曲のほうでは、あまり新しいものは作らなかったが、その代わり、器楽の作品をたくさん試作してみた。ヴァイオリン、ビオラ、チェロのための四重奏曲を 2曲、八重奏曲を1曲、それに四重奏をもう1曲作ろうと思っている。こういう風にして、ともかく僕は、大きな交響曲への道を切り開いていこうと思っている。」
ここで、述べられてる「ヴァイオリン、ビオラ、チェロのための四重奏曲を2曲」というのは「ロザムンデ」と「死と乙女」を指しますし、「それに四重奏をもう1曲作ろうと思っている」というのは第15番の事であることは明らかです。そして、重要なことは、それらの作品は第8番のハ長調シンフォニーとして結実する「大きな交響曲」創作への一過程として明確に意識された創作活動だったと言うことです。
つまり、第11番の中で示された課題を、シューベルトはロマン派の交響曲へと続く道の中に解決を見いだしたといえます。つまり、シューベルトは古典派の衣をはっきりと脱皮して彼の内面に渦巻く「歌」を優先し、そしてその「歌」を入れるための新たな器を構築し始めたのです。
1824年から26年というと、ベートーベンがその最晩年において弦楽四重奏曲の分野で独自の作品を次々と生み出していた時期と重なります。それらは、疑いもなく古典派音楽の一つの集大成とも呼ぶべき作品群です。そして、その様な偉大な作品が生み出される傍らで、20代の若者(ただし彼には残された時間は2年しかなかったのですが)の手からひっそりと人間の内面に渦巻く激情や深い情緒をかくも率直に吐露する作品が生み出されていたとは何という驚きでしょう。
歴史が移り変わるときと言うのは、もしかしたらこのように音もなく静かに新しいページがめくられるものなのかもしれません。
世界最初のシューベルトの弦楽四重奏曲全集
ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団は、アントン・カンパーをリーダーとして1934年に結成されました。当時はメンバーは全員ウィーン交響楽団のメンバーだったのですが、37年から38年にかけてメンバー全員がウィーンフィルに移籍し、コンツェルトハウスのシューベルトザールで定期的に演奏会を行うようになります。
ウィーンフィルにはコンサートマスターを中心に各パートの首席がカルテットを結成する習慣があります。実はこのコンツェルトハウス四重奏団はその様なエリート集団ではなくて、そういう首席奏者の後ろで演奏しているメンバーたちで結成されたものです。ちなみに、この時代のエリート四重奏団はワルター・バリリをリーダーとしたバリリ四重奏団でした。
だから、というわけではないのですが、この四重奏団の演奏には芸術的に突き詰めたある種の緊張感ではなくて、どこか親密で寛いだ雰囲気がただよいます。
ある人が、この四重奏団のリーダーであるカンパーのことを「彼はムジカー(音楽家)だったが、同時にムジカント(楽士)でもあった」と評していました。もちろん、この「ムジカント」という言葉は否定的な意味合いで使われたのではなくて、演奏する方も聞く方も楽しい気分にさせてくれる芸人魂の持ち主であったことを肯定的に表現したものでした。
そして、そういう芸人魂の持ち主であったからこそ、初期作品も含めてシューベルトの弦楽四重奏曲の全曲録音をやってみようという気持ちになったのだろうと思います。もしも、彼らが何よりも「芸術」を大切にする「ムジカ」の集団だったならば、おそらくは、未熟さのいっぱい残っている初期作品まで録音してみようという気分にはならなかったでしょう。
現在の弦楽四重奏団の方向性というものは、アメリカにおけるジュリアードやラ・サール、さらにはそれらの影響を受けて、ウィーンでもアルバン・ベルク四重奏団らに代表されるような譜面を正確に音にかえる精緻な演奏スタイルが主流となっています。そういう現在の流れから行くと、このコンツェルトハウスの演奏はポルタメントを多用し、歌い回すことに重点をおきすぎたがためにきわめて不正確な演奏になっているという批判はあるでしょう。
しかし、「進化」は必ずしも「善」ではありません。あまりにも特化しすぎた進化はサーベルタイガーの牙のように、最後は己自身をも滅ぼしかねません。そういう意味では、時には過去をふりかえり演奏し全体を俯瞰してみるというのは大切なことだといえます。
ちなみに、この団体は途中でメンバーが入れ替わるのですが、そのうちのチェロとヴィオラの新しいメンバーは後にウェルナー・ヒンクのもとでウィーン弦楽四重奏団を結成します。そして、このウィーン弦楽四重奏団は日本のカメラータとの共同作業でシューベルトの弦楽四重奏団の全曲録音を完成させることになります。その演奏は、精緻さを何よりも優先する現在的スタイルとは一線を画したもので、明らかにコンツェルトハウス以来の伝統を現在的な姿で引き継いだものとなっています。ウィーンの凄さはこのような地下水脈におけるつながりにあることをあらためて認識させられるエピソードです。
なお、このコンツェルトハウスによる全曲録音では第2番は2楽章しか収録されていません。これは、1890年にシューベルト全集が編纂されたときには二つの楽章しか所在が確認できなかったからです。その後1950年代の初めに残りの楽譜が発見され、54年に初めて4楽章構成の楽譜が出版されました。ですから、1952年に録音されたこの演奏では2楽章しか収録されていないのは当然のことなので、念のために付けくわえておきます。
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