モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 ,K.466
(P)モニク・アース:シャルル・ミュンシュ指揮 ボストン交響楽団 1960年録音
Mozart:Concerto No. 20 In D Minor For Piano And Orchestra, K.466 [1.Allegr]
Mozart:Concerto No. 20 In D Minor For Piano And Orchestra, K.466 [2.Romance]
Mozart:Concerto No. 20 In D Minor For Piano And Orchestra, K.466 [3.Rondo: (Allegro Assai)]
広大な感情の領域を彷徨う音楽
モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番ニ短調 , K.466
ウィーン時代のモーツァルトは大きな浮き沈みを経験します。それは人気ピアニストとして多くの収入を獲得した前半と、予約演奏会を開いてもほとんど人が集まらなくなった凋落の時代です。
そして、多くの日本の評論家達は、その分かれ目となったのがこのニ短調の協奏曲だったと書いていました。ですから、私も、このあまりにも時代の先を行きすぎたモーツァルトの音楽にウィーンの人々はついて行くことが出来ず、その無理解故にモーツァルトの人気は凋落し、その結果として若くして亡くならざるを得なかったと信じていました。
おそらく、今でもその「説」を信じておられる方は多いのではないでしょうか。しかし、残された手紙などを調べてみれば、このニ短調協奏曲が披露された予約演奏会には多くの人が申し込み、そしてその「素晴らしい音楽」に多くの聴衆は拍手を送ったのです。
ただし問題は、父レオポルドがその演奏会に様子をザルツブルグにいる娘のナンネルに送った手紙の次の一節です。
「6回のコンサートの内最初の演奏会に出かけけましたが、
身分の高い人たちがたくさん集まっていました。
何気ない一節ですが、問題はモーツァルトの予約演奏会に参加をしたのは「身分の高い人たち」。つまりは上流貴族が大部分を占めていた事です。そして、彼らの音楽的教養は非常に高くて、おそらくはニ短調という特殊な調性で書かれた第1楽章に少しは驚きもしたでしょうが、それもまた一つの面白い趣向として受け入れるだけの音楽的教養を持っていました。
確かにその音楽は憂鬱であり、当時の常識から言えば広大な感情の領域を彷徨う音楽であり、それは疑いもなくロマン派の時代の音楽を予見させるものでした。しかし、そんな事ぐらいで彼らはモーツァルトを見限るわけはなく、これに続いて21番のハ長調協奏曲等の新作を含む自主興行で、レオポルドは息子が559グルテンを稼いだと手紙でザルツブルグに知らせているのです。
つまりは、モーツァルトを支えた上流貴族達は次々と進化していくモーツァルトを受け入れることはあっても、決して見捨てることはなかったのです。
また、モーツァルトもまたこの憂鬱な第1楽章の気分を振り払うように、最終楽章では明るくハッピーな気持ちで終わらせているのです。つまり、モーツァルトは基本的には作曲家であり演奏家であると同時に興行師でもあり、そのたりの仕掛けには抜かりはなかったのです。
それ故に、ロマン派の時代になると、このニ短調協奏曲の第1楽章は賞賛の対象となっても最終楽章の評判は悪かったのです。とりわけ、若きベートーベンはピアニストとしてこの作品を自分自身の重要なレパートリーとしていたのですが、このハッピーエンドがよほど気に入らなかったようで、自らの手でより悲劇的な形で終われるようにカデンツァを書いていて、これが現在でも最もよく用いられるカデンツァとなっています。
つまりは、ウィーンにおけるモーツァルトの凋落はその音楽の有り様が変化したためではなく、彼を支持していた「上流貴族」達がウィーンを去ってしまったことが最大の原因だったのです。
モーツァルトがこの作品を披露したのは1785年です。そして、その時には1789年のフランス革命に向かう導火線に火はついていて、その影響はハプスブルグ帝国にも及んでいました。長年のプロイセンとの戦争で疲弊し、さらにはハプスブルグ領だった各地で反乱が起こり、またフランス啓蒙思想の影響を受けたヨーゼフ2世の施策はことごとく失敗に帰してその混乱にさらなる拍車をかけました。
そして、そのヨーゼフ2世が亡くなると、そのあとを弟のレオポルト2世が引き継ぐのですが、彼は兄の墓に「善良な意志であるにもかかわらず何事にも成功しなかった人ここに眠る」と記して、兄の開放的な政策から一転して強圧的な政策を次々に実行しはじめたのです。そして、その変化はウィーンに滞在していた上流貴族達にも深刻な影響を与え、彼らの多くは次々と自分の領地に引き上げてしまったのです。
つまりは、モーツァルトの凋落はウィーンの人たちが彼の音楽を理解しなかったのではなくて、彼を支えていた「身分の高い人」達がウィーンを去ってしまったことが最大の原因だったのです。
そして、時代は1789年のフランス革命という発火点を契機として、時代の主役は貴族から市民階級にうつっていくのです。しかし、この時代の市民階級には未だにモーツァルトのような音楽家を支えるだけの力は持ち得ていませんでした。
モーツァルトは1756年に生まれていますが、ベートーベンは1770年に生まれています。この14年の差はこの時代にあっては決定的でした。
ベートーベンがウィーンに出てきたのは1792年であり、ブルク劇場で第1響曲などを公演して交響曲作家としても評価されるようになるのは1800年のことでした。そして、その時には彼は貴族ではなくて市民階級を対象として音楽を書き、フリーランスの作曲家として生きていくことが出来たのでした。
まさに、父レオポルが何気なく手紙にしたためた「身分の高い人たちがたくさん集まっていました。」の一言は途轍もない重しとなって晩年のモーツァルトにのしかかったのでした。
ウィーン時代後半のピアノコンチェルト
- 第20番 ニ短調 K.466:1785年2月10日完成
- 第21番 ハ長調 K.467:1785年3月9日完成
- 第22番 変ホ長調 K.482:1785年12月16日完成
- 第23番 イ長調 K.488:1786年3月2日完成
- 第24番 ハ短調 K.491:1786年3月24日完成
- 第25番 ハ長調 K.503:1786年12月4日完成
9番「ジュノーム」で一瞬顔をのぞかせた「断絶」がはっきりと姿を現し、それが拡大していきます。それが20番以降のいわゆる「ウィーン時代後半」のコンチェルトの特徴です。
そして、その拡大は24番のハ短調のコンチェルトで行き着くところまで行き着きます。
そして、このような断絶が当時の軽佻浮薄なウィーンの聴衆に受け入れられずモーツァルトの人生は転落していったのだと解説されてきました。
しかし、事実は少し違うようです。
たとえば、有名なニ短調の協奏曲が初演された演奏会には、たまたまウィーンを訪れていた父のレオポルドも参加しています。そして娘のナンネルにその演奏会がいかに素晴らしく成功したものだったかを手紙で伝えています。
これに続く21番のハ長調協奏曲が初演された演奏会でも客は大入り満員であり、その一夜で普通の人の一年分の年収に当たるお金を稼ぎ出していることもレオポルドは手紙の中に驚きを持ってしたためています。
この状況は1786年においても大きな違いはないようなのです。
ですから、ニ短調協奏曲以後の世界にウィーンの聴衆がついてこれなかったというのは事実に照らしてみれば少し異なるといわざるをえません。
ただし、作品の方は14番から19番の世界とはがらりと変わります。
それは、おそらくは23番、25番というおそらくは85年に着手されたと思われる作品でも、それがこの時代に完成されることによって前者の作品群とはがらりと風貌を異にしていることでも分かります。
それが、この時代に着手されこの時代に完成された作品であるならば、その違いは一目瞭然です。
とりわけ24番のハ短調協奏曲は第1楽章の主題は12音のすべてがつかわれているという異形のスタイルであり、「12音技法の先駆け」といわれるほどの前衛性を持っています。
また、第3楽章の巨大な変奏曲形式も聞くものの心に深く刻み込まれる偉大さを持っています。
それ以外にも、一瞬地獄のそこをのぞき込むようなニ短調協奏曲の出だしのシンコペーションといい、21番のハ長調協奏曲第2楽章の天国的な美しさといい、どれをとっても他に比べるもののない独自性を誇っています。
これ以後、ベートーベンを初めとして多くの作曲家がこのジャンルの作品に挑戦をしてきますが、本質的な部分においてこのモーツァルトの作品をこえていないようにさえ見えます。
「ジュー・ベル」によるモーツァルト
フランスというのは実に素敵な女性を生み出すものです。
ピアニストで言えば、「マダム・ロン(マルグリット・ロン 1)」や「6人組の女神」とあがめられた「マルセル・メイエル」がいました。ヴァイオリニストならばなんと言っても「ジネット・ヌヴー」でしょうが、「ミッシェル・オークレール」も忘れるわけにはいきません。
渋いところではオルガン奏者の「マリー=クレール・アラン 」も数え上げたいです。
そして、ここでもう一人取り上げたいのが「モニク・アース」です。
モニク・アースの演奏を聞いていてすぐに気づかされるのはその粒立ちのよいピアノの響きです。それは、いわゆるマダム・ロン以来の「ジュー・ベル」の伝統を引き継いだものでした。そして、彼女の残した一連のモーツァルトの録音にはその美質が最もよくあらわれています。
モニク・アースもそうですが、このフランスの女性たちは、野心をたぎらせてトップに躍り出て目立とうとするのは無粋と感じるようで、それはそのまま演奏にも反映しています。
この一連のモーツァルトのコンチェルトも演奏効果を狙うようなことには興味はないようで、どこまでも知的な部分を背景にしながら美しさを表出しようとします。結果として、音楽を聞き込んできた「玄人筋」には至って評判が高いと言う事になります。
しかし、モニク・アースはやがてそう言う「マダム・ロン」のやり方から少しずつ離れていき、ハイ・フィンガーで粒立ち良くピアノを響かせるやり方だけでなく、より多彩な音色を駆使する方向に変わっていきます。
それは、彼女のレパートリーの中心がフランス近代のドビュッシーやラヴェルなどに重心が移る中で起こった変化だったのかもしれません。
しかし、それでも彼女はそれらの作品をただた茫洋とした響きの中で漂わせるのではなく、それまでの知的に明確に響かせるやり方との間で見事な調和を成し遂げていきます。
ただし、モーツァルトでは昔ながらのハイ・フィンガー的な演奏が目立つのですが、後年になるにつれて音色の変化にも留意するようになっていく様子が窺えて、そのあたりを聞き比べてみるのも面白いのかもしれません。
私の手元には以下の4つの録音があります。
- モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番ニ短調, K.466:シャルル・ミュンシュ指揮 ボストン交響楽団 1960年録音
- モーツァルト:ピアノ協奏曲第14番変ホ長調 , K.449:フェルディナント・ライトナー指揮 ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 1957年録音
- モーツァルト:ピアノ協奏曲第21番ハ長調, K.467:ハンス・ロスバウト指揮 南西ドイツ放送交響楽団 1956年録音
- モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番イ長調 , K.488:ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮 北ドイツ放送交響楽団 1956年録音
結果として、ミュンシュ、ライトナー、ロスバウト、イッセルシュテットと言う4人指揮者の聞き比べにもなるのですが、やはりミンシュという小父さんは実に困ったおじさんだと思わずにはおれません。こんなにもオケをガンガン鳴らされたのでは、アースもいささか困ったであろうと同情を禁じ得ません。
それと比べれば、ライトナーなんて、実に紳士的です。
そう言えば、あのケンプがライトナーとのコンビでベートーベンのコンチェルトを全曲録音していますが、その選択は当然だったのだなと、おかしなところで納得した次第です。
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