モーツァルト:ピアノ協奏曲第15番 変ロ長調番 k.450
(P)リリー・クラウス:スティーヴン・サイモン指揮 ウィーン音楽祭管弦楽団 1966年6月13日録音
Mozart:Concerto No. 15 In B-flat Major For Piano And Orchestra, K. 450 [1.Allegro]
Mozart:Concerto No. 15 In B-flat Major For Piano And Orchestra, K. 450 [2.(Andante)]
Mozart:Concerto No. 15 In B-flat Major For Piano And Orchestra, K. 450 [3.Allegro]
プロの演奏家だけを想定して作曲された作品
モーツァルト:ピアノ協奏曲第15番 変ロ長調番 k.450
モーツァルトはK.449(14番)からK.451(16番)までの3作品を「3つの大協奏曲」と呼んでいたそうです。しかしながら、K.449(14番)の項でもふれたように、このK.450からの協奏曲はそれ以前の協奏曲とはその性格が根本的に異なります。それは、それまでの協奏曲ではアマチュアの弾き手でも演奏が出来るような「手加減」を考慮していたものが、このK.450からはその様な「手加減」は一切影をひそめます。
つまりは、これ以降のモーツァルトは常にプロの演奏家だけを想定して作曲を行うようになったのです。その事をモーツァルトは「演奏家に汗をかかせる」という言葉で端的に表現しています。
そして、さらに詳しく見ていくと汗をかくのはピアニストだけでなく、伴奏を務めるオーケストラにも大いに汗をかいてもらうことを要求するようになります。つまりは、オーケストラは独奏ピアノのたんなる伴奏ではなく、独奏ピアノと同等の比重を持った音楽を響かせることをモーツァルトは要求するようになるのです。
その最も分かりやすい例は管楽器の扱いにあらわれています。オーケストラにおける管楽器というものは弦楽器を補強したり装飾するだけだったのですが、モーツァルトはその管楽器に主題に関わる重要な旋律を担わせるようになります。ですから、それまでのように伴奏オーケストラから管楽器を外した弦楽部だけで音楽が成り立つと言うことはなくなりました。もはや、これ以降の協奏曲においては管楽器は外すことのできない必須のパートであり、さらに主題に関わる重要な旋律を担うようになるので、管楽器奏者からは「演奏不能なほどに難しすぎる」という不満の声が聞こえてくるようになるのです。
また、保守的な聞き手の中にはその様な管楽器が重要な役割を担うオーケストラの響きを「重すぎる」と言って拒否する人もあらわれてきました。
一般的に、モーツァルトがウィーンでの人気を失っていくのは、K.466(20番)以降の作品が持っている「先鋭的性格」故に見限られたと言われてきましたが、どうやらそれは最近の研究では誤りだとされているようです。モーツァルトがウィーンでの仕事を失っていくのはその様な「音楽的理由」ではなくて、もっと直截な社会情勢の変化が大きかったようです。
ただし、そのあたりのことは、K.466(20番)以降の作品を取り上げるときにもう少し詳しくふれてみたいと思います。
重要なことは、モーツァルトがウィーンにおいて新しい試みをはじめたのはK.466のニ短調コンチェルト以降ではなくて、その端緒はすでにK.450から明らかなのです。
ウィーンという街は疑いもなく、当時のヨーロッパにおける文化の中心地の一つでした。そこには様々な音楽的潮流が流れ込み、モーツァルトはその空気を胸一杯に吸い込んで、さらにはモーツァルトならではの挑戦をはじめていたのです。そして、その新しい挑戦についてついていけない保守的な聞き手がいたことは事実ですが、当時の上流貴族の音楽的教養というのはその様な柔なものではありませんでした。
彼らの多くはその様なモーツァルトの斬新な挑戦をおおいに喜び、そのコンサートに積極的に足を運んだのです。
もちろん、モーツァルトはそう言う挑戦もしながら、当時のウィーンの聴衆の好みも十分に考慮した作品づくりを行っていました。しかし、必ずしも彼は「迎合」だけしていたのではないのであって、そう考えれば、ともすれば比較的軽く見られるウィーンでの10番台の協奏曲はもっと正当に評価されるべき作品だといえます。
ウィーン時代前半のピアノコンチェルト
モーツァルトのウィーン時代は大変な浮き沈みを経験します。
そして、ピアノ協奏曲という彼にとっての最大の「売り」であるジャンルは、そのような浮き沈みを最も顕著に示すものとなりました。
この時代の作品をさらに細かく分けると3つのグループとそのどれにも属さない孤独な2作品に分けられるように見えます。
まず一つめは、モーツァルトがウィーンに出てきてすぐに計画した予約出版のために作曲された3作品です。番号でいうと11番から13番の協奏曲がそれに当たります。
- ピアノ協奏曲第12番 イ長調 k.414(387a):1782年秋に完成
- ピアノ協奏曲第11番 ヘ長調 k.413(387p):1783年初めに完成
- ピアノ協奏曲第13番 ハ長調 k.415(387b):1783年春に完成
このうち12番に関してはザルツブルグ時代に手がけられていたものだと考えられています。
他の2作品はウィーンでの初仕事として取り組んだ予約出版のために一から作曲された作品だろうと考えられています。
その証拠に彼は手紙の中で「予約出版のための作品がまだ2曲足りません」と書いているからです。そして「これらの協奏曲は難しすぎず易しすぎることもないちょうど中程度の」ものでないといけないとも書いています。
それでいながら「もちろん、空虚なものに陥ることはありません。そこかしこに通人だけに満足してもらえる部分があります」とも述べています。
まさに、新天地でやる気満々のモーツァルトの姿が浮かび上がってきます。
しかし、残念ながらこの予約出版は大失敗に終わりモーツァルトには借金しか残しませんでした。しかし、出版では上手くいかなかったものの、これらの作品は演奏会では大喝采をあび、モーツァルトを一躍ウィーンの寵児へと引き上げていきます。
83年3月23日に行われた皇帝臨席の演奏会では一晩で1600グルテンもの収入があったと伝えられています。
500グルテンあればウィーンで普通に暮らしていけたといわれますから、それは出版の失敗を帳消しにしてあまりあるものでした。
こうして、ウィーンでの売れっ子ピアニストとしての生活が始まり、その需要に応えるために次々と協奏曲が作られ行きます。いわゆる売れっ子ピアニストであるモーツァルトのための作品群が次に来るグループです。
- ピアノ協奏曲第14番 k.449:1784年2月9日完成
- ピアノ協奏曲第15番 変ロ長調番 k.450:1784年3月15日完成
- ピアノ協奏曲第16番 ニ長調 k.451:1784年3月22日完成
- ピアノ協奏曲第17番 ト長調 k.453:1784年4月12日完成
- ピアノ協奏曲第18番 変ロ長調 k.456:1784年9月30日完成
- ピアノ協奏曲第19番 ヘ長調「第2戴冠式」 k.459:1784年12月11日完成
1784年はモーツァルトの人気が絶頂にあった年で、予約演奏会の会員は174人に上り、大小取りまぜて様々な演奏会に引っ張りだこだった年となります。そして、そのような需要に応えるために次から次へとピアノ協奏曲が作曲されていきました。
また、このような状況はモーツァルトの中にプロの音楽家としての意識が芽生えさせたようで、彼はこの年からしっかりと自作品目録をつけるようになりました。
おかげで、これ以後の作品については完成した日付が確定できるようになりました。
なお、この6作品はモーツァルトが「大協奏曲」と名付けたために「六大協奏曲」と呼ばれることがあります。
しかし、モーツァルト自身は第14番のコンチェルトとそれ以後の5作品とをはっきり区別をつけていました。それは、14番の協奏曲はバルバラという女性のために書かれたアマチュア向けの作品であるのに対して、それ以後の作品ははっきりとプロのため作品として書かれているからです。
つまり、この14番も含めてそれ以前の作品にはアマとプロの境目が判然としないザルツブルグの社交界の雰囲気を前提としているのに対して、15番以降の作品はプロがその腕を披露し、その名人芸に拍手喝采するウィーンの社交界の雰囲気がはっきりと反映しているのです。
ですから、15番以降の作品にはアマチュアの弾き手に対する配慮は姿を消します。
そうでありながら、これらの作品群に対する評価は高くありませんでした。
実は、この後に来る作品群の評価があまりにも高いが故に、その陰に隠れてしまっているという側面もありますが、当時のウィーンの社交界の雰囲気に迎合しすぎた底の浅い作品という見方もされてきました。
しかし、最近はそのような見方が19世紀のロマン派好みのバイアスがかかりすぎた見方だとして次第に是正がされてきているように見えます。
オーケストラの響きが質量ともに拡張され、それを背景にピアノが華麗に明るく、また時には陰影に満ちた表情を見せる音楽は決して悪くはありません。
明るく華やかで無垢なモーツァルト
私の知人で、リリー・クラウスの最後の来日公演を聴いたことがあるという人がいます。彼の言によれば、その演奏会は惨憺たるもので二度と思い出したくもないような代物だったようです。
演奏家の引き際というものは難しいものです。
最近の例で言えば、見事な引き際を見せてくれたのがマリア・ジョアン・ピリスでした。わたしは幸運にもその引退コンサートの一つを大阪のシンフォニー・ホールで聴く機会を得たのですが、それは見事なベートーベン演奏でした。ステージに現れた姿は颯爽としており、彼女の指から紡ぎ出されるベートーベンの音楽は、わたしが生で聞いたベートーベンのピアノ・ソナタとしては最上のものの一つでした。
「演奏家」というのはどれほどの醜態をさらしても最後までステージにしがみつく種族ですから、その引き際の見事さはは希有なものだったと言えます。それは、彼女の言動を見れば、引退のきっかけが自らの演奏能力に対する疑問ではなくて、ビジネスとしてのクラシック音楽界のあり方への絶望感に起因してたからかもしれません。
二人の女性が歩いている。
若い女性は麗しい。
齢を重ねた女性はさらに麗しい。
話がいささかいらぬ方向にそれたのですが、このクラウスのコンチェルトの全集もまた、彼女のピアニストとしての衰えをはっきりと聞き取ることが出来ます。
それは、彼女が54年に録音したソナタの全集と聞き比べてみれば一目(一聴?)瞭然です。あのソナタ全集では、モーツァルトの音楽が持つ微妙なニュアンスが見事なまでに表現されていました。しかし、このコンチェルトの演奏では、そう言う微妙なニュアンスを表現しきる能力がすでに失われていることは明らかです。
しかしながら、それでは全体としてつまらぬ演奏なのかと言えばそうとも言いきれない部分があるので困ってしまうのです。
ここでのクラウスのピアノの響きに微妙で多彩な表情を求めることは出来ないのですが、逆に、驚くほど華やかで明るく、そしてチャーミングな響きで最初から最後まで貫徹しています。これは1番から27番まで一気に聞き通したので自信を持って言い切ることが出来ます。
おそらく己の能力を自覚した上で、それでもその限界の中で実現可能なモーツァルトの姿を探求した結果かもしれません。
そして、そう言う衰えたクラウスを必死でサポートしたのが指揮者のスティーヴン・サイモンでした。オーケストラの「ウィーン音楽祭管弦楽団」というのは怪しげな存在のように聞こえるのですが、その実態はウィーン交響楽団からの選抜メンバーであったことはすでに知られています。
ところが、どういう訳か、世間一般では衰えたクラウスを持ち上げて、逆にオーケストラ伴奏を批判する人が多いのです。
曰く、「響きが薄い」、曰く、「表情が平板に過ぎる」等々です。
しかし、そう言う批判は本当に的を射ているのでしょうか。
わたしには、指揮者であるサイモンがクラウスの衰えを敏感に感じとり、その衰えに最も相応しいやり方で伴奏を付けたがゆえに、明るく華やかで、そして無垢な姿のモーツァルトが実現したのではないかと考えます。
モーツァルトのピアノ協奏曲には19番と20番の間に大きな断層が存在していることがよく指摘されます。しかし、このコンビによる演奏で聞いてみれば、そこに大きな断層を聞き取ることは難しいかもしれません。そして、その事の責をオーケストラ伴奏に求めるのでしょうが、聞けばすぐに分かるようにクラウスのピアノにはロマン派好みのバイアスがかかったような微妙な陰影を描き出す能力はすでに失われています。
スティーヴン・サイモンにしてみれば、20番以降の作品群においても、それ以前と同じようなスタイルで伴奏を付けるしかなかったのです。
しかし、漏れ聞くところによると、そう言うサイモンのオーケストラ伴奏にクラウスはたびたび不満を申し立てていたようです。ということは、もしかしたら彼女は自らの「衰え」を自覚できていなかったのかもしれません。
もしも、このエピソードが事実ならば、それこそ「演奏家」という種族が陥らざるをえない「誤解」だと言わなければなりません。そして、それが「誤解」であったとすれば、その「誤解」を「美しき誤解」に仕立て直した功績はスティーヴン・サイモンとウィーン交響楽団からの選抜メンバーで構成された「ウィーン音楽祭管弦楽団」にこそあったのかもしれません。
そして、クラウスもこの辺りを潮時として第一線から身を引いていれば、彼女にも「齢を重ねた女性はさらに麗しい。」という言葉を捧げることができたのかもしれません。
<追記>
最初にも指摘したように、この時のクラウスのピアノの響きに微妙で多彩な表情を求めることは出来なくなっています。しかし逆に、驚くほど華やかで明るく、そしてチャーミングな響きで全ての協奏曲を最初から最後まで貫徹しています。
そして、その事を持ってこのクラウスの演奏を低く評価する向きもあるのですが、それは一面ではモーツァルトの作品をロマン派好みの視点から、言葉をかえればロマン的なバイアスがかかった視点で捉えようとすことから来る批判でもあります。そして、そん批判は、確かに20番咽喉の、つまりはモーツァルトが大きな飛躍を遂げた後の作品では認めざるを得ない批判かもしれません。
しかし、このような華やかなウィーンの社交界で人気を得ていた時代の作品に関しては、このようなクラウスの響きで紡ぎ出される音楽は決して悪くはありません。逆に、あまりにも濃厚な表情を付けすぎるよりはかえって好ましいと思われます。
もっとも、それはモーツァルトの作品からロマン派的なバイアスを排除しようとしたピリオド演奏的な要素から生まれたものではありません。
それは、疑いもなく隠しようもない衰えを自覚しながら、しかし、その衰えの中にあっても必死で己のモーツァルトの姿を模索した結果です。
ですから、最後にもう一度この言葉を彼女に捧げたいと思います。
二人の女性が歩いている。
若い女性は麗しい。
齢を重ねた女性はさらに麗しい。
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