シベリウス:交響曲第7番 ハ長調, Op.105
ロリン・マゼール指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 1966年3月録音
Sibelius:Symphony No. 7 in C major, Op. 105
交響曲には内的な動機を結びつける深遠な論理が大切
マーラーとシベリウスは交響曲という形式の最後を飾る両極端な作曲家だと言えます。片方は、まさに後期ロマン派を象徴するような異常なまでに肥大化した音楽を生み出し、他方はこれまた異常なまでに凝縮した音楽を生み出しました。
この二人が出会ったときに話は交響曲という形式のそもそも論にいたり、マーラーは「交響曲は世界のようでなくてはならない」と語り、シベリウスはそれに対して「交響曲には内的な動機を結びつける深遠な論理が大切」だと語ったそうです。
なるほど、マーラーのように何でもかんでも取り込んで肥大化していくことに何の疑問も感じなければ、音楽を生み出すという行為はそれほどの苦痛を生み出さないのかもしれません。
もちろん、そう言ったからといって、マーラーの音楽を単純な足し算だと貶めるつもりはありません。しかし、マーラーの場合はその後の演奏を通して不都合な点があればどんどん補筆改訂していくのが常でした。その意味では、何年何月何日に筆を置いて「完成」としても、それが創作の「終わり」を意味するものではなかったのです。
交響曲が世界のようなものであるならば、これで「完成」として筆を置いたとしても、その地点から不都合が発生すれば、いかようなものでも付け足すことが出来、いかようなものでも排除することが可能だったのです。
しかし、「交響曲には内的な動機を結びつける深遠な論理が大切」だとするシベリウスのような立場に立つのならば、創作という行為は実にしんどい行為だろうなと同情を禁じ得ません。
何故ならば、内的な論理が必要ならば、途中で不都合が生じればその瞬間に全てが御破算になってしまうからです。
シベリウスの音楽には創作の過程の一番最初から徹底した彫琢が必要なのです。
そして、そういうシベリスが選んだ方向性の行き着くところは、シェーンベルクやウェーベルンのような新ウィーン楽派のような音楽に向かっていくだろう事は容易に察しがつきます。
とりわけ、この第7番の交響曲などはもうこれ以上「凝縮」しようがないほどに凝縮しています。
同じ事は、第4番の交響曲にも言えるかもしれません。
とにかく音楽は内へ内へと向かっていき、緊張感の高まりとともに聴くものを息苦しくさえしていきます。形式的には通常の4楽章構成を持ったスタンダードな顔はしているのですが、その凝縮ぶりは7番以上かもしれません。
しかし、シベリウスにとって音楽からメロディやハーモニーが消え去るというのは到底受け入れられない事だったのでしょう。シベリウスという人の本質はフィンランドという土地に根付いた民族性にあることは間違いありませんが、それと同じほどにベートーベンやモーツァルトなどの古典的な均衡に満ちた音楽のあり方も彼にとっては本能のようなものとして存在していたはずです。
例えば、1番、2番で彼の民族性が大きく前面に出たあとには、先祖帰りのようなコンパクトな3番を生み出していますし、それと同じ事が5番と6番においても指摘できます。そして、その先祖帰りが3番よりは6番の方が上手くいっていることは誰しもが認めるところでしょう。
そんな男にとって、無調の無機的な音楽が受け入れられるはずがありません。
しかし、彼が7番の交響曲を生み出した1920年代という時代は、まさにその様な無調の音楽が一気に広まった時代でもありました。
シェーンベルクの生み出した12音技法の最大の問題点は、そのルールに則っていれば、それほど才能のない人間でも時代の最先端を行く現代的な音楽が「書けてしまう」ところにあったんだと思います。
それは、本人は思いもしなかったでしょうが、結果として12音技法は「芸術」をフォーマット化してしまいました。
フォーマットとは、取りあえずその「形」に従って「パーツ」を作れば、後はそれを適当に組み合わせることで「何か新しいもの」が出来てしまうという便利なシステムです。
そして、その「利点」に真っ先に気づいたのは、おそらくは才能に恵まれていない若き「作曲家」たちだったのではないでしょうか。
問題の核心は「飯が食えるか否か」というせっぱ詰まったものだけに、おそらくはシェーンベルク自身も驚くほどの勢いでこの動きが作曲界全体を蔽ってしまいました。
その結果として、「12音技法」というフォーマットに従うことでそれなりの完成度とクオリティを持つ「無調の音楽」が大量生産されることになってしまったのです。
唯一残念だったのは、圧倒的大多数の聞き手によってそう言う「12音技法に基づいた無調の音楽」が拒否されたことで、結局「食えない」連中はやはり「食えなかった」ことです。。
そして、シベリウスはその様な動きをフィンランドの片田舎から絶望的な思いで眺めていたのではないでしょうか。
この第7番の調性は「ハ長調」です!!
もちろん、音楽は光と影が燦めき交錯するように様々な調を自由に行き来します。しかし、土台に据えられた礎石のようにハ長調の響きは全曲をしっかりと貫いています。
やはり、シベリウスにとってここが行き着いた先だったのでしょう。
歌謡性を極限までひきだしている
マゼールとウィーンフィルによるシベリウスの交響曲に関してはすでに1番と2番を紹介しています。その時に「暖色系」の響きに違和感を覚えたと書いたのですが、そのあとにトマス・イェンセンとデンマーク国立放送交響楽団による「カレリア」組曲やヤッシャ・ホーレンシュタインによる第2番の交響曲を聞いてしまうと、さすがに「暖色系」は言い過ぎだったかもしれません。
しかし、1番と2番と同じようにこの5番と7番もウィーンフィルの美音全開ですし、それを押さえ込もうという無理は一切行っていないことは同様です。ですから、マゼールとウィーンフィルによるシベリウスの交響曲全集の特徴は、その美音によってシベリウスの音楽がもっている歌謡性を極限までひきだしているところにあるのかもしれません。
ここで今さら指摘するまでもないのですが、初期作品の範疇に入る1番と2番はチャイコフスキーの影響下にあるので、その歌謡性を引き出すのは自然なアプローチです。しかし、シベリウスは次第にそう言う音楽から離れていき、一つの旋律を息長く歌うのではなく、どこかパッチワークのように短い旋律を組み合わせていくような雰囲気に変わっていきました。
それを少し厳密に表現すれば、「交響曲は形式の厳格さと堅固なロジックがすべてのモティーフに内的関連を与えなければならない」と言うことになるのでしょう。
しかし、その一つの旋律として息長く歌うことが難しい交響曲であるにもかかわらず、マゼールはその一つ一つのパッチワークを実に上手くつなぎ合わせてその歌謡性を実現させてしまっています。
おそらく、これほど優雅に歌い上げた第7番の交響曲は他には思い当たりません。さらに言えば、それがこの上もなく美しいウィーンフィルの響きによって歌われているのですから、交響曲は形式の厳格さと堅固なロジックが必要などと言う小難しいことを考えなければ十分に魅力的な音楽に志賀っています。
そして、その事は5番にも言えて、7番ほどにはパッチワーク化していなくても、どこか歌いきれるところを意図的に回避しているように聞こえる部分でもマゼールは上手くつなぎ合わせて歌謡性にあふれる音楽に仕上げています。そして、唐突に終わる様な感じがいつも拭いきれない終結部分も何となく納得がいくように上手く仕立て上げています。
とは言え、それがシベリウスの一つの解釈として楽しむことは出来ても、やはりこれをスタンダードというには躊躇いは覚えざるを得ないでしょう。そして、ウィーンフィル自体もその事をこの全集によってあらためて認識したのでしょうか、結局はこれが最初にして最後のウィーンフィルによるシベリウス交響曲全集となってしまいました。
なお、残る3番と6番は残念ながら1968年のリリースなので、ギリギリのところでパブリック・ドメインの手の中からこぼれ落ちてしまいました。残念なことです。
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