クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~

ベートーベン:交響曲第3番 変ホ長調 作品55「英雄」

ウィリアム・スタインバーグ指揮 ピッツバーグ交響楽団 1963年4月29日~5月1日録音





Beethoven:Symphony No.3 in E flat major , Op.55 "Eroica" [1.Allegro Con Brio]

Beethoven:Symphony No.3 in E flat major , Op.55 "Eroica" [2.Marcha Funebre; Adagio Assai]

Beethoven:Symphony No.3 in E flat major , Op.55 "Eroica" [3.Scherzo. Allegro Vivace; Trio]

Beethoven:Symphony No.3 in E flat major , Op.55 "Eroica" [4.Allegro Molto; Poco Andante; Presto]


音楽史における最大の奇跡

この交響曲は「ハイリゲンシュタットの遺書」と結びつけて語られることが多いのですが、それは今回は脇においておきましょう。
その様な文学的意味づけを持ってこなくても、この作品こそはそれまでの形式にとらわれない、音の純粋な芸術性だけを追求した結果として生み出された雄大にして美しい音楽なのですから。
それゆえに、この作品は「音楽史上の奇蹟」と呼ばれるのです。

それでは、その「音楽史上の奇蹟」と呼ばれるのはどんな世界なのでしょうか?

まず一つめに数え上げられるのは主題の設定とその取り扱いです。

ベートーベン以前の作曲家がソナタ形式の音楽を書こうとすれば、まず何よりも魅力的で美しい第1主題を生み出すことに力が注がれました。
しかし、ベートーベンはそれとは全く異なる手法で、より素晴らしい音楽が書けることを発見し、実証して見せたのです。

冒頭の二つの和音に続いて第1楽章の第1主題がチェロで提示されます。

第1楽章の主題




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「運命」がたった4つの音を基本的な構成要素として成立したことと比べればまだしもメロディを感じられますが、それでもハイドンやモーツァルトの交響曲と比べればシンプルきわまりないものです。
それは、もはや「主題」という言葉を使うのが憚られるほどにシンプルであり、「構成要素」という言葉の方が相応しいものです。

しかし、そんな小難しい理屈から入るよりは、実際に音楽を聞いてみれば、このシンプルきわまりない構成要素が楽章全体を支配していることをすぐに了解できるはずです。
もちろん、これ以外にもいろいろな楽想が提示部に登場しますが、この構成要素の支配力は絶対的です。
そして、この第1主題に対抗するべき柔和な第2主題が登場してきてもその支配力は失われないのです。

ベートーベンは音楽の全てがこの構成要素から発し、そしてその一点に集中するようにな綿密な設計に基づいて交響曲を書き上げるという「革新」をなしえたのです。
そして、第5番「運命」ではたった4つの音を基本的な構成要素として巨大な交響曲全体を成立させるという神業にまで至ります。単純きわまる構成要素を執拗に反復したり、その旋律を変形・重複させたり、さらには省略することで切迫感を演出することで、交響曲の世界を成立させてしまったのです。

音楽において絶対と思われた「歌謡性」をバラバラの破片に解体し、その破片を徹底的に活用することで巨大な建築物を作り上げる手法を編み出してしまったのです。
しかしながら、これが「奇蹟」の正体ではありません。それは正確に言えば「奇蹟」を実現するための「手段」でした。

二つめに指摘しなければいけないのは、「デュナーミクの拡大」です。
もちろん、ハイドンやモーツァルトの交響曲においても「デュナーミク」は存在しています。

「デュナーミク」とは日本語にすると「強弱」と言うことになるのですが、つまりは強弱の変化によって音楽に表情をつける事を意味します。通常はフォルテやピアノと言った指示やクレッシェンド、ディミヌエンドなどの記号によって指示されるものです。
ベートーベンはこの「デュナーミク」の幅を飛躍的に拡大してみせたのです。

主題が歌謡性に頼っていれば、そこで可能なデュナーミクはクレッシェンドかディミヌエンドくらいです。音量はなだらかに増減するしかなく、そこに急激な変化を導入すれば主題の形は壊れてしまいます。
しかし、ベートーベンはその様な歌謡性を捨てて構成要素だけで音楽を構成することによって、未だ考えられなかったほどにデュナーミクを拡大してみせたのです。
そして、それこそが「奇蹟」の正体でした。

構成要素が執拗に反復、変形される過程で次々と楽器を追加していき、その頂点で未だかつて聞いたことがないような巨大なクライマックスを作りあげることも可能となりました。
延々とピアニッシモを維持し続けた頂点で突然のようにフォルティッシモに駆け上がることも可能です。
さら言えば、その過程で短調から長調への転調も可能なのです。

結果として、ハイドンやモーツァルトの時代には考えられないような、未だかつてない大きさをもった音楽が聴衆の前に現れたのです。そして、その「大きさ」を実現しているのが「デュナーミクの拡大」だったのです。

とは言え、この突然の変貌に対して当時の人は驚きを感じつつも、その強烈なインパクトに対してどのように対応して良いものか戸惑いはあったようです。
当時の聴衆にとってこれは異形の怪物ととも言うべき音楽であり、第1、第2というすばらしい「傑作」を書き上げたベートーベンが、どうして急にこんな「へんてこりんな音楽」を書いたのかと訝ったという話も伝わっています。

しかし、この音楽が聞くもののエモーショナルな側面に強烈に働きかける事は明らかであり、最初は戸惑いながら、やがてはその感情に素直となってブラボーをおくることになったのです。

しかしながら、交響曲は複数の楽章からなる管弦楽曲ですから、この巨大な第1楽章受けて後の楽章をどうするのかという問題が残ります。
ベートーベンはこの「エロイカ」においては、巨大な第1楽章に対抗するために第2楽章もまた巨大な葬送行進曲が配置することになります。

第2楽章の主題




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ベートーベンは、このあまりにも有名な葬送のテーマでしっかりと第1楽章を受け止めます。

しかし、ここで問題が起こります。
果たして、この2つの楽章を受けて続く第3楽章は従前通りの軽いメヌエットでよいのか・・・と言う問題です。

答えはどう考えても「否」です。

そこで、ベートーベンは第2番の交響曲に続いて、ここでも当然のようにスケルツォを採用することになります。
つまりは、優雅さではなくて諧謔、シニカルな皮肉によって受け止めざるを得なかったのです。

ベートーベンはこの「スケルツォ」という形式を初期のピアノソナタから使用しています。しかしながら、その実態は伝統的なメヌエット形式を抜け出すものではありませんでした。
そこでの試行錯誤の結果として、彼は第2番の交響曲でついにメヌエットの殻を打ち破る「スケルツォ」を生み出すのですが、その一つの完成形がここに登場するのです。

そして、これら全ての3つの楽章を引き受けてまとめを付けるのが巨大な変奏曲形式の第4楽章です。
ベートーベンはこの主題がよほどお気に入りだったようで、「プロメテウスの創造物」のフィナーレやピアノ用の変奏曲などでも使用しています。

第4楽章の主題




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しかしながら、交響曲という形式は常に、この最終楽章をどのようにしてけりをつけるのかという事が悩ましい問題として残ることになります。

ありとあらゆる新しい試みと挑戦が第1楽章で為され、それを引き受けるために第2楽章は緩徐楽章で、第3楽章はスケルツォでという「スタイル」が出来上がっても、それらすべてを引き受けて「けり」をつける最終楽章はどうすべきかという「形式上の問題」は残り続けるのです。
ベートーベンはここでは「変奏曲形式」を用いることでこの「音楽史上の奇蹟」を見事に締めくくってみせたのですが、それは必ずしも常に使える手段ではありませんでした。

しかしながら、この「エロイカ」の登場によって、「交響曲」という音楽形式はコンサートの前座を務める軽い音楽からクラシック音楽の王道へと変身を遂げた事は事実です。
そして、それはまさに「これからは新しい道を進もうと思う」と述べた若きベートーベンの言葉が、一つの到達点となって結実した作品でもあったのです。

聞いてみる価値は十分にある


スタインバーグは手兵のピッツバーグ交響楽団をともに1962年から1966年にかけてベートーベンの交響曲の全曲録音を行っています。
さて問題は、その録音を聞いてみたいかどうかです。

50年代から60年代はクラシック音楽にとっては輝ける黄金の時代であり、多くの指揮者とオーケストラによって数多くのベートーベンの交響曲全集が録音されました。そう言う宝の山に埋もれている状態で、いわゆる職人肌による指揮者がピッチバーグというアメリカの地方オケを振って録音したベートーベンの9曲を時間をかけて聞いてみたいかということです。
率直にって、それほど簡単に「Yes」とは言いにくいのではないでしょうか。実際私も最初はそうでした。

そして、その証拠に、この録音はデジタルの時代に入ってもCDで復刻されることはなく、聞こうと思えば中古レコードを探すしかない状態が続きました。
ところが人間というのは不思議なもので、聞こうと思ってもなかなか聞くことができない状態で、何らかの僥倖に恵まれてそれを聞くことが出来た人はその録音と演奏を持ち上げたくなります。気がつくと、あちこちでこのスタインバー&ピッツバーグ響によるベートーベン演奏を「幻の名演」という人があらわれてきます。

ただし、その真偽を確かめることはほとんどの人にとっては不可能なのですから、いつの間にかそう言う評価がじわりじわりと広がりはじめます。そして、隣接権が消滅すると得体の知れないレーベルが板おこしと思われるやり方で復刻盤CDをリリースします。
聞くところによると、このレーベルは最初は国外では販売しないと言っていたようなのですが、やがてどういうルートを使ったのかは分かりませんが、少しずつ日本国内でも入手が可能になりました。そして、その噂の「幻の名盤」をその復刻盤CDで聞いた人たちは唖然とします。ただし、その「唖然」は演奏の巣らしさゆえに「唖然」としたのではなく、その復刻盤CDの音質が「唖然」とするほどの劣悪だったのです。

その悪さたるや、人によれば50年代初頭のフルトヴェングラーの音源よりも劣悪だと言うことでした。
しかしながら、「Command Classics」というマイナーレーベルでの録音とはいえ、60年代中頃のスタジオ録音がそこまで劣悪なことは考えられません。となると、その板おこしで復刻をしたレーベルはかなりいい加減なと言うよりは、犯罪的とも言えるやり方で復刻をしたと言うことになります。

しかしながら、最近になって遂にドイツ・グラモフォンが正式に復刻盤をリリースしたことで、漸くにして多くの人にその全貌が明らかになる時が来ました。
それでも、一部の「幻の名盤」という評価を聞きながらも、それでも残り少ない人生の中でこの組み合わせでベートーベンの9曲を聴く価値はあるのだろうかという懸念は消えません。

と言うことで、前置きが少し長くなってしまったのですが、そう言う懸念を振り払って9曲を聴き通した感想は、「幻の名盤」と言う評価は「聞きたくても聞けないのに聞けちゃった」というバイアスがかかった評価であったと言うことは間違いないと言うことです。しかし、残された人生において、このスタインバーグによるステレオ録音のベートーベンは聞いてみる価値は十分にあると言うこともまた間違いないようです。

まずは一通り聞いてみて感じたことを簡単に記しておきます。
第1番の交響曲はその弾むようなリズム感と爽快な推進力は若きベートーベンのファースト・シンフォニーとしては最高の演奏の一つと言えます。この第1番の交響曲はどうしても軽く見られがちなだけにこれは貴重な演奏と録音だと言えます。続く第2番も同じようなコンセプトで貫かれているのですが、この作品の聞かせどころとも言うべき「Larghetto楽章」がいささかあっさりしすぎている感じがします。
このラルゲット楽章の美しいロマン性は第1番の交響曲では聞くことが出来なかったものですし、そこには「歌う」事への試行錯誤が結実していると思われるだけに、ここまで意図的に素っ気なく演奏することはないのではないかとは思ってしまいました。

ただし、第4番の「Adagio楽章」もどちらかと言えば素っ気ない感じなので、そのあたりはスタインバーグの姿勢なのかもしれません。
しかし、第4番では長い序奏の後に第1主題が表れてくるところで思いっきり「タメ」を作って見得を切ったりしているのですから、そのあたりがただの「職人肌」とは言いきれないスタインバーグの複雑さが表れています。そして、第3楽書から第4楽章にかけてはあ青の第1番で見せた推進力とリズムが炸裂して、何処かカルロス・クライバーの姿を思い出してしまう自分がいました。

それからもう一つ面白いのは、突然テンポ設定が変わってしまう場面があることです。
例えば、第6番「田園」では嵐がやってくる前の場面で急激にテンポが速くなって緊張感を高めるのですが、いささかあざといという感じがしないでもありません。

それから、第7番の交響曲では最初の2楽章はやや遅めのテンポ設定で演奏して、第2楽章の「Allegretto」では2番や4番の緩徐楽章とは対照的なほどに入念に歌っています。どうも、このあたりがスタインバーグという男のつかみ所のなさです。そして、第3楽章からは途端にテンポを上げるのでそのつながり具合にいささか違和感を感じるのですが、そのテンポのまま最終楽章になだれ込むとその強い推進力ゆえに、「まあ、これでいいのだ」と思わせられてしまうのです。

それからもう一つ気づいたのは、第8番におけるオケの響きです。
後期の作品でありながら小ぶりなこの交響曲は下手をすると初期のシンフォニーのように聞こえてしまうのですが、スタインバーグはここでは明らかに低声部を分厚めにならしてどっしりとした雰囲気を醸し出しています。そう言えば、「田園」の第1楽章でも結構低声部を厚めに成らしているので、そのあたりのオケの響きにも彼なりのポリシーが貫かれていたのかもしれません。

つまりは、一見するとスタインバーグのベートーベンというのは職人肌の指揮者がキッチリと仕上げただけの演奏のように見えるのですが、じっくりと聞いてみるといろいろと屈折した部分があちこちにに顔を出すのです。
ただし、私の効き方が悪いのだと思うのですが「エロイカ」や「運命」のような大物ではあまり無茶なことはしないでキッチリと仕上げているように思われます。悪い演奏ではないのですが、数多の名演がひしめくこの作品の録音の中ではいささか自己主張が乏しいかもしれません。

しかしながら、スタインバーグの全集の中で一番注目すべきは最後の第9番でしょう。
何故ならば、そこでスタインバーグは一般的に「マーラー版」と呼ばれるものを使っているからです。

ただし、このマーラー版というのはマーラーが実際に演奏したときに楽譜に追加したり書き直したりしたもので、シューベルトの「死と乙女」を弦楽合奏版にしたように新たにスコアにしたものではないようです。そして、マーラーは演奏のたびにスコアに手を加えるのを常にしていましたから、ベートーベンの第9にしても定まった「マーラー版」があるわけではないようです。

ですから、スタインバーグが「マーラー版」と記しているのは、おそらくはマーラーがニューヨークフィル時代に、そのライブラリに書き込んだものを参考にしたものだと思われます。
ところが、この「マーラー版」による第9なのですが、実際に聞いてみると何処がどのように改変されているのかほとんど分かりません。どちらかと言えば、上で述べたような他の交響曲の独特な解釈の部分の方が印象的です。

ただし、最終楽章にはいると急に低声部が分厚くなって響きが太くなるのが印象的ですし、第2楽章のホルンのソロの部分からの音楽の運びが印象的なので、そのあたりに何らかのマーラーの手が入っているのかなと憶測する程度です。
ですから、スタインバーグはこの全集を完成させる上で、何故に、この第9番だけにその様なエディションを使ったのかの方が興味があります。
それはもしかしたら、職人肌で、手堅く作品をまとめるだけという印象をこのベートーベンの交響曲全集で払拭したかったのかもしれません。確かに、この全集を聞いてみれば、彼がただの職人肌だけの指揮者でないことはよく分かります。しかし、一部で囁かれるような「幻の名盤」はさすがに言いすぎのようです。
とは言え、この時代に数多くの優れたベートーベン演奏が生み出されたのですが、その中にあってもそれなりに聞く価値は十分にある録音であることは間違いようです。

なお、その後あれこれ調べてみると、第九のマーラー版の最大の特徴はスコアの細かい改変ではなくて、2管編成で書かれていたオリジナル編成を倍管にし、ティンパニを2人に増強し、さらに原曲に用いられていないテューバを加えるという「巨大化」を目指すことが目玉だった事が分かりました。
つまりは、その編成の巨大化を最大に活用することによって、ベートーベンの本質の一つである「デュナーミクの拡大」をより一層「壮絶」なものにしたかったようなのです。
私が第2楽章のホルンソロからの音楽運びに通常にはない美しさを感じたのはその成果だったようです。最終楽章に感じた分厚さもオケの巨大化によるものかもしれません。その証拠に、楽章の始めの部分ではオケと合唱・ソリストのバランスがあまり良くないのですが、次第にそのバランスが整っていくのがよく分かります。
そのあたり、録音エンジニアも苦労したようです。

とは言え、そういうマーラーの意図は、プリアンプのボリュームでいくらでも音量が調整できる録音ではなかなか実感するのは難しいかもしれません。

よせられたコメント

2022-12-16:藤原正樹


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