クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~

ベートーベン:交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱」

ウィレム・ヴァン・オッテルロー指揮 ハーグ・レジデンティ管弦楽団 (S)E.スポーレンベルク (A)M.イシュロヴァイ (T)F.ヴローン (Br)H.シャイ アムステルダム・トーンクンスト合唱団 1952年5月3日~4日録音





Beethoven:Symphony No.9 in D minor, Op.125 "Choral"l [1.Allegro Ma Non Troppo, Un Poco Maestoso]

Beethoven:Symphony No.9 in D minor, Op.125 "Choral" [2.Molto Vivace]

Beethoven:Symphony No.9 in D minor, Op.125 "Choral" [3.Adagio Molto E Cantabile; Andante; Adagio]

Beethoven:Symphony No.9 in D minor, Op.125"Choral"l [4.Presto; Allegro Ma Non Troppo; Allegro Assai; Presto; Allegro Vivace; Alla Marcia; Andante Maestoso; Allegro Energico Sempre Ben Marcato; Allegro Ma Non Tanto; Poco Adagio; Prestissimo]


何かと問題の多い作品です。

ベートーベンの第9と言えば、世間的にはベートーベンの最高傑作とされ、同時にクラシック音楽の最高峰と目されています。
そのために、日頃はあまりクラシック音楽には興味のないような方でも、年の暮れになると合唱団に参加している友人から誘われたりして、コンサートなどに出かけたりします。

しかし、その実態はベートーベンの最高傑作からはほど遠い作品であるどころか、9曲ある交響曲の中でも一番問題の多い作品なのです。さらに悪いことに、その問題点はこの作品の「命」とも言うべき第4楽章に集中しています。
そして、その様な問題を生み出した原因は、この作品の創作過程にあります。

この第9番の交響曲はイギリスのフィルハーモニア協会からの依頼を受けて創作されました。しかし、作品の構想はそれよりも前から暖められていたことが残されたスケッチ帳などから明らかになっています。
当初、ベートーベンは二つの交響曲を予定していました。

一つは、純器楽による今までの延長線上に位置する作品であり、もう一つは合唱を加えるというまったく斬新なアイデアに基づく作品でした。

後者はベートーベンの中では「ドイツ交響曲」と命名されており、シラーの「歓喜によせる」に基づいたドイツの民族意識を高揚させるような作品として計画されていました。
ところが、何があったのかは不明ですが、ベートーベンはまったく異なる構想のもとにスケッチをすすめていた二つの作品を、何故か突然に、一つの作品としてドッキングさせてフィルハーモニア協会に提出したのです。
そして出来上がった作品が「第九」です

交響曲のような作品形式においては、論理的な一貫性は必要不可欠の要素であり、異質なものを接ぎ木のようにくっつけたのでは座り心地の悪さが生まれるのは当然です。
もちろん、そんなことはベートーベン自身が百も承知のことなのですが、何故かその様な座り心地の悪さを無視してでも、強引に一つの作品にしてしまったのです。

年末の第九のコンサートに行くと、友人に誘われてきたような人たちは音楽が始めると眠り込んでしまう光景をよく目にします。そして、いよいよ本番の(?)第4楽章が始まるとムクリと起きあがってきます。
でも、それは決して不自然なことではないのかもしれません。

ある意味で接ぎ木のようなこの作品においては、前半の三楽章を眠り込んでいたとしても、最終楽章を鑑賞するにはそれほどの不自由さも不自然さもないからです。
極端な話前半の三楽章はカットして、一種のカンタータのように独立した作品として第四楽章だけ演奏してもそれほどの不自然さは感じません。
そして、「逆もまた真」であって、第3楽章まで演奏してコンサートを終了したとしても、聴衆からは大ブーイングでしょうが・・・、これもまた、音楽的にはそれほど不自然さを感じません。

ですから、一時このようなコンサートを想像したことがあります。
それは、第3楽章と第4楽章の間に休憩を入れるのです。

前半に興味のない人は、それまではロビーでゆっくりとくつろいでから休憩時間に入場すればいいし、合唱を聴きたくない人は家路を急げばいいし、とにかくベートーベンに敬意を表して全曲を聴こうという人は通して聞けばいいと言うわけです。
これが決して暴論とは言いきれないところに(言い切れるという人もいるでしょうが・・・^^;)、この作品の持つ問題点が浮き彫りになっています。

エネルギー感とスピード感に満ちた第9


追記

これもまたうっかりとアップするのを忘れていた録音です。確か、一度アップしたもののシェルヘンの録音と混同してしまったようで、そのまま放置になってしまったいたようです。
それにしても、今までのオッテルローによるベートーベン演奏を聞いてるものにとっては、彼が第9を演奏すればおそらくこうなるだろうという想像はつくのですが、確かにその想像は裏切られることはにのですが、それ以上に素晴らしい音楽が出来上がっていることに驚かされます。これをアップするのを忘れていたとは、何ともお馬鹿な話です。

オッテルローという人は確信犯的に音楽が「巨大」なものになるのを避けようとします。そして、その確信犯的行いは第9のような音楽においても貫かれています。そして、こういう音楽で巨大さを意図的に放棄すれば凡演になるのが普通なのですが、そうならないのがオッテルローの凄いところです。

確かにオケの響きはハーグ・レジデンティ管弦楽団なので、それほど芳しいものではありません。しかし、巨大さを意図的に放棄することによって得られているのはエネルギー感とスピード感です。最初の2楽章は言うまでもないのですが、第3楽章の「Adagio Molto E Cantabile」にはいっても音楽が滞ることは全くありません。もっとも、もう少し叙情豊かに歌い上げて欲しいという人もいるのでしょうが、作品全体の構造から見れば、ここもまた粘るわけにはいかないのです。

そして、その意図は最終楽章に入っても変わることはなく、ソリストにも合唱団にもオッテルローの意図は貫徹されています。最後のソリストによる4重唱でソプラノが最高音に駆け上がるところでもこれ見よがしの外連味とは全く縁のない自然な歌い回しに徹しています。また、合唱団も編成がかなり小さいようで巨大さよりは凝縮したエネルギー感を良く表現しています。
そう言えば、これとよく似たスタイルの第9としてティルソン・トーマスがイギリス室内管弦楽団と録音した思い出さないわけではないのですが、内包されたエネルギー感は全くの別世界です。それは、最後の叩きこむようなフィナーレに聞けばすぐに分かることですし、一見すれば軽い音楽のように見えながら、その底にはかつての巨匠達がベートーベンに捧げた魂と同じものが貫かれていることに気づくはずです。
追記終わり

オッテルローの残した録音を眺めていると、ウィーン交響楽団との録音がたくさん残されていますから両者の関係は浅からぬものがあったのではないかと思われます。あくまでも私見ですが、マーラーの1番を録音した「ウィーン祝祭管弦楽団」という正体不明のオーケストラもその実体はウィーン交響楽団ではないかと考えています。
ただし、今となっては資料の少ない指揮者ですから、実際のコンサートで彼らがどれくらい共演していたのかは分かりませんでした。

今、私の手もとには、彼が50年代に録音したベートーベンの交響曲がいくつがあるのですが、5番、6番、7番はウィーン交響楽団と録音し、4番、8番、9番は手兵のハーグ・レジデンティ管弦楽団と録音をしています。
両者を聞き比べれば、やはりウィーン響は上手いなと思ってしまいます。(^^v
しかしながら、今さら繰りかえすまでもないのですが、ハーグ・レジデンティ管弦楽団の響きには他にかえがたい「色」と「味」があります。そして、オッテルローとウィーン響とのコンビでベートーベンを聞く楽しみの一つは、その「色」と「味」がどれほど反映されているかです。

それにしたも、オッテルローという人は不思議なベートーベンを造形したものです。
ベートーベンは「デュナーミクの拡大」によって、今まで誰もが考えもしなかったような「巨大」さを音楽で実現した人でした。つまりは「巨大」さこそは中期のベートーベンが最も深く追求した課題だったのです。
ところが、オッテルローはその中期の交響曲において、何故かその「巨大」さを敢えて追求していないように思えるのです。そして、その基本的なスタンスはウィーン響においても大きな変化はなかったのです。
ただし、手兵のハーグ・レジデンティ管弦楽団と較べてみれば、オケが上手い分だけ「スタイリッシュ」な側面がより前面に出てきます。

話がいささか脇道にそれるのですが、ベイヌムが思わぬ若さでこの世を去ったときに、コンセルトヘボウはどうしてこのオッテルローではなくてハイティンクを首席指揮者に選んだのでしょうか。それも、その若さに対する不安ゆえに、わざわざヨッフムをサポート役に付けてまで若手のハイティンクを選んだ理由は何処にあったのでしょうか。
当時の実力とキャリアを考えれば、まさに脂ののりきったオッテルローがハーグ・レジデンティ管弦楽団からコンセルトヘボウ管に横滑りをしても何の不思議もないと言うよりは、むしろその方が妥当なように思われるのです。
しかし、どなたが書いていたような気がするのですが、結局オランダはオッテルローをハーグで飼い殺しにし、オッテルローもそんな祖国に嫌気がさしたのか、祖国オランダを見限ったかのように活躍の場をオーストラリアに移してしまうのです。

歴史に「もしも」はないのですが、もしもオッテルローがコンセルトヘボウ管のシェフに就任していれば、どんなベートーベンを聞かせてくれたのだろうかと想像せずにはいられません。
ただし、このウィーン響との録音を聞いていると、彼には「オケの響き」に対する強い信念があったのかもしれないなとは思ってしまいます。
ハーグ・レジデンティ管弦楽団が太めの筆で味濃く描き出していたとすれば、ウィーン響ではもっと細めの筆で繊細に描き出しています。
しかし、色彩のトーンには共通点があります。

そして、結果として出来上がった音楽は小ぶりな造形ではあるのですが、その造形物の手触りはしっとりとした木目調であり、その色彩は穏やかな美しさを失うことはありません。
とりわけ、今回聞いてみた第6番「田園」の録音では、ウィーン郊外の田園を思わせるにはピッタリの響きで描き出され、その音楽が「巨大」さを追求していないがゆえに、まさに唯一無二の、他にはかえがたい「田園」風景を描き出すことに成功しています。

と、ここまで書いてきてコンセルトヘボウ管が何故にオッテルローを拒否したのか何となく分かってきたような気がします。
コンセルトヘボウ管というのもまた、自らの響きに強い信念を持ったオーケストラでした。そして、その信念は絶対に交わることがないものだと言うことも何となく見えてくるのです。

とは言え、キャリア的には不幸な指揮者だったと言わざるをえないでしょう。

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