クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~

ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調 作品95(B.178)「新世界より」

ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮 北ドイツ放送交響楽団 1957年9月11日録音





Dvorak:Symphony No.9 in E minor, Op.95 (B.178) "From the New World" [1.Adagio-Allegro molto]

Dvorak:Symphony No.9 in E minor, Op.95 (B.178) "From the New World" [2.Largo]

Dvorak:Symphony No.9 in E minor, Op.95 (B.178) "From the New World" [3.Molto vivace]

Dvorak:Symphony No.9 in E minor, Op.95 (B.178) "From the New World" [4.Allegro con fuoco]


ボヘミアの郷愁を歌った音楽であると同時にアメリカの息吹に触れることによってのみ生まれた作品である

ドヴォルザークが、ニューヨーク国民音楽院院長としてアメリカ滞在中に作曲した作品で、「新世界より」の副題がドヴォルザーク自身によって添えられています。

ドヴォルザークがニューヨークに招かれる経緯についてはどこかで書いたつもりになっていたのですが、どうやら一度もふれていなかったようです。ただし、あまりにも有名な話なので今さら繰り返す必要はないでしょう。
しかし、次のように書いた部分に関しては、もう少し補足しておいた方が親切かもしれません。

この作品はその副題が示すように、新世界、つまりアメリカから彼のふるさとであるボヘミアにあてて書かれた「望郷の歌」です。

この作品についてドヴォルザークは次のように語っています。
「もしアメリカを訪ねなかったとしたら、こうした作品は書けなかっただろう。」
「この曲はボヘミアの郷愁を歌った音楽であると同時にアメリカの息吹に触れることによってのみ生まれた作品である」


この「新世界より」はアメリカ時代のドヴォルザークの最初の大作です。それ故に、そこにはカルチャー・ショックとも言うべき彼のアメリカ体験が様々な形で盛り込まれているが故に「もしアメリカを訪ねなかったとしたら、こうした作品は書けなかっただろう」という言葉につながっているのです。

それでは、その「アメリカ体験」とはどのようなものだったでしょうか。
まず最初に指摘されるのは、人種差別のない音楽院であったが故に自然と接することが出来た黒人やアメリカ・インディオたちの音楽との出会いです。

とりわけ、若い黒人作曲家であったハリー・サンカー・バーリとの出会いは彼に黒人音楽の本質を伝えるものでした。
ですから、そう言う新しい音楽に出会うことで、そう言う「新しい要素」を盛り込んだ音楽を書いてみようと思い立つのは自然なことだったのです。

しかし、そう言う「新しい要素」をそのまま引用という形で音楽の中に取り込むという「安易」な選択はしなかったことは当然のことでした。それは、彼の後に続くバルトークやコダーイが民謡の採取に力を注ぎながら、その採取した「民謡」を生の形では使わなかったののと同じ事です。

ドヴォルザークもまた新しく接した黒人やアメリカ・インディオの音楽から学び取ったのは、彼ら独特の「音楽語法」でした。
その「音楽語法」の一番分かりやすい例が、「家路」と題されることもある第2楽章の5音(ペンタトニック)音階です。

もっとも、この音階は日本人にとってはきわめて自然な音階なので「新しさ」よりは「懐かしさ」を感じてしまい、それ故にこの作品が日本人に受け入れられる要因にもなっているのですが、ヨーロッパの人であるドヴォルザークにとってはまさに新鮮な「アメリカ的語法」だったのです。
とは言え、調べてみると、スコットランドやボヘミアの民謡にはこの音階を使用しているものもあるので、全く「非ヨーロッパ的」なものではなかったようです。

しかし、それ以上にドヴォルザークを驚かしたのは大都市ニューヨークの巨大なエネルギーと近代文明の激しさでした。そして、それは驚きが戸惑いとなり、ボヘミアへの強い郷愁へとつながっていくのでした。
どれほど新しい「音楽的語法」であってもそれは何処まで行っても「手段」にしか過ぎません。
おそらく、この作品が多くの人に受け容れられる背景には、そう言うアメリカ体験の中でわき上がってきた驚きや戸惑い、そして故郷ボヘミアへの郷愁のようなものが、そう言う新しい音楽語法によって語られているからです。

「この曲はボヘミアの郷愁を歌った音楽であると同時にアメリカの息吹に触れることによってのみ生まれた作品である」という言葉に通りに、ボヘミア国民楽派としてのドヴォルザークとアメリカ的な語法が結びついて一体化したところにこの作品の一番の魅力があるのです。
ですから、この作品は全てがアメリカ的なもので固められているのではなくて、まるで遠い新世界から故郷ボヘミアを懐かしむような場面あるのです。

その典型的な例が、第3楽章のスケルツォのトリオの部分でしょう。それは明らかにボヘミアの冒頭音楽(レントラー)を思い出させます。
そして、そこまで明確なものではなくても、いわゆるボヘミア的な情念が作品全体に散りばめられているのを感じとることは容易です。

初演は1893年、ドヴォルザークのアメリカでの第一作として広範な注目を集め、アントン・ザイドル指揮のニューヨーク・フィルの演奏で空前の大成功を収めました。
多くのアメリカ人は、ヨーロッパの高名な作曲家であるドヴォルザークがどのような作品を発表してくれるのか多大なる興味を持って待ちかまえていました。そして、演奏された音楽は彼の期待を大きく上回るものだったのです。

それは、アメリカが期待していたアメリカの国民主義的な音楽であるだけでなく、彼らにとっては新鮮で耳新しく感じられたボヘミア的な要素がさらに大きな喜びを与えたのです。
そして、この成功は彼を音楽院の院長として招いたサーバー夫人の面目をも施すものとなり、2年契約だったアメリカ生活をさらに延長させる事につながっていくのでした。

劇場的な面白さに溢れた演奏


イッセルシュテットのライブ演奏は穏健なスタジオでの録音と較べると随分様子が異なることは、モーツァルトのジュピター(1961年録音)を紹介したときに気づきました。

スタジオと違うのは当然なのですが、最初から気合いの入り方が違います。しかし、手綱を緩めることはないのでコントロールは失っていません。
そして、音楽は最終楽章のフーガに向けてじわじわと盛り上がっていくのですが、その最後にいたって一気に力を解放するかのようにため込んでいた力が解放されます。「驀進するモーツァルト」というのもおかしな表現なのですが、しかし最後はそう言うしかないような盛り上がりで締めくくられるので、「穏健」どころの話ではありません。


ライブ録音というのは劇場での芸であり、何度も繰り返し聞かれることを前提としたスタジオ録音とは異なるのは当然と言えば当然です。
しかし、おかしな話なのですが、オーケストラのクオリティが上がったことも原因かもしれないのですが、ライブでもスタジオ録音であるかのような演奏を指向する指揮者が最近は増えてきているような気がするのです。
昔は、クナパーツブッシュに代表されるように、スタジオ録音でもライブであるかのように演奏することを疑わない人もいたのですから、面白い話です。

劇場というのは本来は不思議な世界であるはずなのです。
それは日常の生活からは切り離された空間であり、どれほどのハイ・エンドシステムをあてがったとしても、日常的な空間の中で享受しなければいけないオーディオ的な世界とは根本的に異なる世界だったはずです。
ところが、昨今のクラシック音楽の演奏会には、そう言う特別なワクワク感を引き起こされる事が少なくなってきたように思うのです。

ついでながら、私はお芝居を見に行くのも好きなので、そちらの方もよく足を運びます。
そして、その二つを較べてみると、日々つまらなくなっているのは音楽の演奏会の方です。

お芝居にも「劇場中継」というものがあるのですが、あれはもう実際の劇場でお芝居を観ることと較べればお話にならないほど味気ないものです。
ところが、演奏会の方は、こんな演奏ならばオーディオで音楽を聞いていた方がましだと思うときもあります、と言うか、そう思うときの方が多くなっているような気がするのです。

役者が台本通りの台詞を一字一句間違わずに立て板に水のようにしゃべったからと言って素晴らしい芝居になるわけではありません。そんな事は論議するまでもないほどに自明のことです。
ところが、クラシック音楽の世界では、楽譜に書かれた音符を一音も蔑ろにせずに正確に音に変換することが出来れば、それで事足れりと考えているとしか思えないような演奏が少なくないのです。

そして、不幸だと思うのは、そう言う価値観が一部の聴衆にとっても共有されてしまっていることです。

その事を思えば、これは「正確」さだけを尊ぶ「現代的価値観」からすれば問題の多い演奏かもしれません。
何しろ、冒頭のホルンからしてこけていますし、音程的に不安定になっている部分も散見されます。

しかし、第1楽章後半の畳み込んでいくような音楽の盛り上がりや、何とも言えない響きで歌われていくラルゴ楽章の深い情緒などは劇場的な面白さに溢れています。
そして、何度も聞かれることを前提としたスタジオ録音では古典的な規矩を崩さずに、穏やか音楽的表現へと己を抑制するイッセルシュテットが、劇場ではどれほど異なった姿を見せるかを改めて教えてくれる録音でもあります。

なお、この録音は8月の末から9月初旬にかけてスイスのモントルーで行われる音楽祭での演奏のようです。
イッセルシュテットと北ドイツ放送交響楽団は1957年の音楽祭に出演していたようで、これ以外にもブラームスの2番の録音が残っています。その録音もまたスタジオ録音とは異なるイッセルシュテットの姿が刻み込まれているのです。

それからもう一つ、この「新世界より」の録音で面白いのは、曲の最後で何人かの聴衆がフライングで拍手をしてしまうのです。すると、イッセルシュテットはそれを面白がるように最後の音を目一杯引き延ばすのです。
おそらく、聴衆にしてみれば、さあ今度は何処で拍手しようかと耳を澄ますことになると同時に、その茶目っ気みたいなものにニヤリとさせられたはずです。

そう言う茶目っ気みたいなものを持っている指揮者も今は殆どいなくなりました。
年寄りの愚痴みたいなものですが・・・。

よせられたコメント

2018-12-02:Joshua


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