クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~

ベートーベン:交響曲第3番変ホ長調 作品55 「英雄」

ルドルフ・ケンペ指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 1959年9月3日録音





Beethoven:Symphony No.3 in E flat major, Op.55 "Eroica" [1.Allegro con brio]

Beethoven:Symphony No.3 in E flat major, Op.55 "Eroica" [2.Marcia funebre. Adagio assai]

Beethoven:Symphony No.3 in E flat major, Op.55 "Eroica" [3.Scherzo. Allegro vivace - Trio]

Beethoven:Symphony No.3 in E flat major, Op.55 "Eroica" [4.Finale. Allegro molto]


音楽史における最大の奇跡

この交響曲は「ハイリゲンシュタットの遺書」と結びつけて語られることが多いのですが、それは今回は脇においておきましょう。
その様な文学的意味づけを持ってこなくても、この作品こそはそれまでの形式にとらわれない、音の純粋な芸術性だけを追求した結果として生み出された雄大にして美しい音楽なのですから。
それゆえに、この作品は「音楽史上の奇蹟」と呼ばれるのです。

それでは、その「音楽史上の奇蹟」と呼ばれるのはどんな世界なのでしょうか?

まず一つめに数え上げられるのは主題の設定とその取り扱いです。

ベートーベン以前の作曲家がソナタ形式の音楽を書こうとすれば、まず何よりも魅力的で美しい第1主題を生み出すことに力が注がれました。
しかし、ベートーベンはそれとは全く異なる手法で、より素晴らしい音楽が書けることを発見し、実証して見せたのです。

冒頭の二つの和音に続いて第1楽章の第1主題がチェロで提示されます。

第1楽章の主題




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「運命」がたった4つの音を基本的な構成要素として成立したことと比べればまだしもメロディを感じられますが、それでもハイドンやモーツァルトの交響曲と比べればシンプルきわまりないものです。
それは、もはや「主題」という言葉を使うのが憚られるほどにシンプルであり、「構成要素」という言葉の方が相応しいものです。

しかし、そんな小難しい理屈から入るよりは、実際に音楽を聞いてみれば、このシンプルきわまりない構成要素が楽章全体を支配していることをすぐに了解できるはずです。
もちろん、これ以外にもいろいろな楽想が提示部に登場しますが、この構成要素の支配力は絶対的です。
そして、この第1主題に対抗するべき柔和な第2主題が登場してきてもその支配力は失われないのです。

ベートーベンは音楽の全てがこの構成要素から発し、そしてその一点に集中するようにな綿密な設計に基づいて交響曲を書き上げるという「革新」をなしえたのです。
そして、第5番「運命」ではたった4つの音を基本的な構成要素として巨大な交響曲全体を成立させるという神業にまで至ります。単純きわまる構成要素を執拗に反復したり、その旋律を変形・重複させたり、さらには省略することで切迫感を演出することで、交響曲の世界を成立させてしまったのです。

音楽において絶対と思われた「歌謡性」をバラバラの破片に解体し、その破片を徹底的に活用することで巨大な建築物を作り上げる手法を編み出してしまったのです。
しかしながら、これが「奇蹟」の正体ではありません。それは正確に言えば「奇蹟」を実現するための「手段」でした。

二つめに指摘しなければいけないのは、「デュナーミクの拡大」です。
もちろん、ハイドンやモーツァルトの交響曲においても「デュナーミク」は存在しています。

「デュナーミク」とは日本語にすると「強弱」と言うことになるのですが、つまりは強弱の変化によって音楽に表情をつける事を意味します。通常はフォルテやピアノと言った指示やクレッシェンド、ディミヌエンドなどの記号によって指示されるものです。
ベートーベンはこの「デュナーミク」の幅を飛躍的に拡大してみせたのです。

主題が歌謡性に頼っていれば、そこで可能なデュナーミクはクレッシェンドかディミヌエンドくらいです。音量はなだらかに増減するしかなく、そこに急激な変化を導入すれば主題の形は壊れてしまいます。
しかし、ベートーベンはその様な歌謡性を捨てて構成要素だけで音楽を構成することによって、未だ考えられなかったほどにデュナーミクを拡大してみせたのです。
そして、それこそが「奇蹟」の正体でした。

構成要素が執拗に反復、変形される過程で次々と楽器を追加していき、その頂点で未だかつて聞いたことがないような巨大なクライマックスを作りあげることも可能となりました。
延々とピアニッシモを維持し続けた頂点で突然のようにフォルティッシモに駆け上がることも可能です。
さら言えば、その過程で短調から長調への転調も可能なのです。

結果として、ハイドンやモーツァルトの時代には考えられないような、未だかつてない大きさをもった音楽が聴衆の前に現れたのです。そして、その「大きさ」を実現しているのが「デュナーミクの拡大」だったのです。

とは言え、この突然の変貌に対して当時の人は驚きを感じつつも、その強烈なインパクトに対してどのように対応して良いものか戸惑いはあったようです。
当時の聴衆にとってこれは異形の怪物ととも言うべき音楽であり、第1、第2というすばらしい「傑作」を書き上げたベートーベンが、どうして急にこんな「へんてこりんな音楽」を書いたのかと訝ったという話も伝わっています。

しかし、この音楽が聞くもののエモーショナルな側面に強烈に働きかける事は明らかであり、最初は戸惑いながら、やがてはその感情に素直となってブラボーをおくることになったのです。

しかしながら、交響曲は複数の楽章からなる管弦楽曲ですから、この巨大な第1楽章受けて後の楽章をどうするのかという問題が残ります。
ベートーベンはこの「エロイカ」においては、巨大な第1楽章に対抗するために第2楽章もまた巨大な葬送行進曲が配置することになります。

第2楽章の主題




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ベートーベンは、このあまりにも有名な葬送のテーマでしっかりと第1楽章を受け止めます。

しかし、ここで問題が起こります。
果たして、この2つの楽章を受けて続く第3楽章は従前通りの軽いメヌエットでよいのか・・・と言う問題です。

答えはどう考えても「否」です。

そこで、ベートーベンは第2番の交響曲に続いて、ここでも当然のようにスケルツォを採用することになります。
つまりは、優雅さではなくて諧謔、シニカルな皮肉によって受け止めざるを得なかったのです。

ベートーベンはこの「スケルツォ」という形式を初期のピアノソナタから使用しています。しかしながら、その実態は伝統的なメヌエット形式を抜け出すものではありませんでした。
そこでの試行錯誤の結果として、彼は第2番の交響曲でついにメヌエットの殻を打ち破る「スケルツォ」を生み出すのですが、その一つの完成形がここに登場するのです。

そして、これら全ての3つの楽章を引き受けてまとめを付けるのが巨大な変奏曲形式の第4楽章です。
ベートーベンはこの主題がよほどお気に入りだったようで、「プロメテウスの創造物」のフィナーレやピアノ用の変奏曲などでも使用しています。

第4楽章の主題




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しかしながら、交響曲という形式は常に、この最終楽章をどのようにしてけりをつけるのかという事が悩ましい問題として残ることになります。

ありとあらゆる新しい試みと挑戦が第1楽章で為され、それを引き受けるために第2楽章は緩徐楽章で、第3楽章はスケルツォでという「スタイル」が出来上がっても、それらすべてを引き受けて「けり」をつける最終楽章はどうすべきかという「形式上の問題」は残り続けるのです。
ベートーベンはここでは「変奏曲形式」を用いることでこの「音楽史上の奇蹟」を見事に締めくくってみせたのですが、それは必ずしも常に使える手段ではありませんでした。

しかしながら、この「エロイカ」の登場によって、「交響曲」という音楽形式はコンサートの前座を務める軽い音楽からクラシック音楽の王道へと変身を遂げた事は事実です。
そして、それはまさに「これからは新しい道を進もうと思う」と述べた若きベートーベンの言葉が、一つの到達点となって結実した作品でもあったのです。

未だヨーロッパの田舎オケとしての魅力を残していた時代のベルリンフィルの響きが堪能できる


ケンペによるベートーベンの交響曲と言えば、1970年代の初めにミュンヘンフィルと録音した全集が真っ先に思い浮かびます。
その全集は日本では1975年に「レコード・アカデミー賞」を受賞するほど評価されたのですが、その翌年にケンペがこの世を去ってしまうと忘れ去られてしまい、CDの時代にはいると再発もされないという状況が長く続きました。
その後、聞くところによると、日本からの強い要望でDiskyが版権を買い取って漸くにしてCD化されたというような経緯があったようです。

最近になってつくづくと感じるのですが、ヨーロッパと日本とでは時間の流れ方が根本的に異なるようです。
日本では、私などはその典型かもしれないのですが、いつまでも古い時代の中にどっぷりとつかっていて新しい流れには常に懐疑的です。
しかし、ヨーロッパでは常に新しい流れに目を配り、興味をひくものがあれば取りあえずはその流れに乗ってみようというアグレッシブさがあります。

ピリオド演奏という新しいムーブメントがヨーロッパからおこったのはその意味では当然のことであり、そう言う新しい動きに何処までも懐疑的だったのが日本のクラシック音楽を底辺で支えてきた「保守的」な聞き手達でした。
そうなってしまう背景にはそれなりの理由があるとは思っているのですが、それを述べる場はここではないことは明らかなので、そう言う違いがあることを指摘するだけに留めます。

そして、その様に考えてみれば、80年代以降のヨーロッパではこのケンペとミュンヘンフィルによる全集などと言うものは「過去の遺物」でしかなかったことは明らかです。
いや、それ以前に、70年代前半という時期にあっても、何故にこのコンビでこのようなベートーベン演奏を録音する意味があるんだという疑問はあったはずです。

しかし、時の流れが止まった(^^;日本ではその価値は色あせることはなかったのです。
それは、これが録音された70年代は言うに及ばず、80年代においても、そしてそれは今に至るまでもその価値は色あせないのです。

そして、その事は、その全集よりも10年以上も遡る50年代の録音であるならば尚更です。
このエロイカなどは、ヨーロッパの田舎オケとしての魅力を残していたベルリンフィルとの録音と言うことで、その魅力はさらに大きいかもしれないのです。

このずしりと腹にこたえるようなベルリンフィルの響きは、それだけでこの録音を聞く喜びを与えてくれます。
おそらく、こういう録音はある程度のクオリティを持ったシステムで、大きめの音量で再生しないとその魅力は伝わりにくいかもしれません。

面白いのは、このエロイカの冒頭の和音がずれていることです。
おそらく、エロイカなんてのは耳にたこができるほど聞き込んでいる人が大多数ですから、この冒頭のずれには違和感を感じるはずです。

しかし、その後に、悠然たるテンポで歩みをすすめていくケンペの音楽に接すると、その冒頭のずれは確信犯だったことに気づくのです。間違ってもアンサンブルのずれなどと言うお粗末な話ではありません。
そのずれによってもたらされるふんわりとした音楽への入り方は、これから展開される音楽は「エロイカ」というタイトルから想起されるような縦割り構造の悲劇的な音楽ではないですよという、宣言みたいなものだったのです。

ケンペと言う人は、時々震えるような下拍でアインザッツが不明瞭になるような振り方をしたそうです。新入りのプレーヤーがそれに対して分かりにくいと苦情を言うと、ケンペはニコニコと笑って言われたとおりに明確な振り方を変えたそうなのですが、本番ではまた震える事によって結局はケンペが意図した響きを引き出したそうです。

震える指揮棒と言えば「振ると面喰らう」を思い出すのですが、それもまた一つの劇場的継承だったのかもしれません。
指揮者が明瞭に振り分け、それによって隅々までクリアな響きがしたとしても、それで素晴らしい音楽が実現するわけではないと言うことです。

よせられたコメント

2022-02-15:枝


2022-12-01:笑枝


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