チャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調 作品74 「悲愴」
ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮 北ドイツ放送交響楽団 1954年1月14日録音
Tchaikovsky:Symphony No.6 in B minor, Op.74 "Pathetique" [1.Adagio - Allegro non troppo]
Tchaikovsky:Symphony No.6 in B minor, Op.74 "Pathetique" [2.Allegro con grazia]
Tchaikovsky:Symphony No.6 in B minor, Op.74 "Pathetique" [3.Allegro molto vivace]
Tchaikovsky:Symphony No.6 in B minor, Op.74 "Pathetique" [4.Adagio lamentoso]
私は旅行中に頭の中でこれを作曲しながら幾度となく泣いた。
チャイコフスキーの後期の交響曲は全て「標題音楽」であって「絶対音楽」ではないとよく言われます。それは、根底に何らかの文学的なプログラムがあって、それに従って作曲されたというわけです。
もちろん、このプログラムに関してはチャイコフスキー自身もいろいろなところでふれていますし、4番のようにパトロンであるメック夫人に対して懇切丁寧にそれを解説しているものもあります。
しかし6番に関しては「プログラムはあることはあるが、公表することは希望しない」と語っています。弟のモデストも、この6番のプログラムに関する問い合わせに「彼はその秘密を墓場に持っていってしまった。」と語っていますから、あれこれの詮索は無意味なように思うのですが、いろんな人が想像をたくましくしてあれこれと語っています。
ただ、いつも思うのですが、何のプログラムも存在しない、純粋な音響の運動体でしかないような音楽などと言うのは存在するのでしょうか。いわゆる「前衛」という愚かな試みの中には存在するのでしょうが、私はああいう存在は「音楽」の名に値しないものだと信じています。人の心の琴線にふれてくるような、音楽としての最低限の資質を維持しているもののなかで、何のプログラムも存在しないと言うような作品は存在するのでしょうか。
例えば、ブラームスの交響曲をとりあげて、あれを「標題音楽」だと言う人はいないでしょう。では、あの作品は何のプログラムも存在しない純粋で絶対的な音響の運動体なのでしょうか?私は音楽を聞くことによって何らかのイメージや感情が呼び覚まされるのは、それらの作品の根底に潜むプログラムに触発されるからだと思うのですがいかがなものでしょうか。
もちろんここで言っているプログラムというのは「何らかの物語」があって、それを音でなぞっているというようなレベルの話ではありません。時々いますね。「ここは小川のせせらぎをあらわしているんですよ。次のところは田舎に着いたうれしい感情の表現ですね。」というお気楽モードの解説が・・・(^^;(R.シュトラウスの一連の交響詩みたいな、そういうレベルでの優れものはあることにはありますが。あれはあれで凄いです!!!)
私は、チャイコフスキーは創作にかかわって他の人よりは「正直」だっただけではないのかと思います。ただ、この6番のプログラムは極めて私小説的なものでした。それ故に彼は公表することを望まなかったのだと思います。
「今度の交響曲にはプログラムはあるが、それは謎であるべきもので、想像する人に任せよう。このプログラムは全く主観的なものだ。私は旅行中に頭の中でこれを作曲しながら幾度となく泣いた。」
チャイコフスキーのこの言葉に、「悲愴」のすべてが語られていると思います。
50年代のイッセルシュテットは己の本質に対して正直に指揮をしていた
私の手もとにはイッセルシュテットのチャイコフスキーは4種類あります。録音の古い順番から並べると以下の通りで、オーケストラは言うまでもなく全て北ドイツ放送交響楽団です。
- チャイコフスキー:交響曲第5番 ホ短調 Op.64:1952年録音(DECCA)
- チャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調 Op.74「悲愴」:1954年1月14日録音(TELEFUNKEN)
- チャイコフスキー:交響曲第4番 ヘ短調 Op.36:1960年3月23日~24日録音(EMI)
- チャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調 Op.74「悲愴」:1960年3月23日~24日録音(EMI)
1960年に録音されたEMIの4番と6番がともに「モノラル録音」というのはいささか不思議です。
ステレオ化の波に乗り遅れたEMIと言えども、さすがに1960年ならばモノラルからステレオに切り替わっています。ただし、ユーザーの側は未だステレオ再生に対応出来ていない層も多数存在していたので、モノラルとステレオのレコードが平行して発売されていた時期でもありました。
おそらくは、復刻に使ったレコードがモノラル盤だったのかも知れません。
しかし、4種類の全てが全てモノラル録音と言うことなので、フォーマットの違いを考慮すること無しに演奏の比較が出来ます。そうしてみると、50年代前半に録音された5番と6番、60年に録音された4番と6番の間には明瞭な違いがあることに嫌でも気付かされます。
60年に録音されたEMI盤の方は明らかに角を丸め込んだような演奏になっていて、よく言えば無難で中庸をわきまえた演奏、有り体に言えば何とも特徴に乏しい演奏になってしまっています。
そして、イッセルシュテットによく奉られる「中庸」とか「温和な格調」という言葉は、こういう録音から生まれたものかと気付かせてくれるのです。
もっとも、こういう感想というのは「比較」という作業から生まれるのであって、50年代前半に録音された「DECCA」と「TELEFUNKEN」の録音を聞かなければ、「往年のカペルマイスターによるチャイコフスキーならばこんなものか」と思ってしまうかもしれません。
確かに、大人しい演奏ではあるのですが、それでも「悲愴」などは最終楽章に向かってジリジリと盛り上がっていき、最後にはそれなりに聞き手を感動させる盛り上がりを実現しています。
チャイコフスキーのような音楽であるならば、最終楽章に向けて盛りあげていき、最後のところでそれなりの説得力を持ってフィナーレを形作れば、前半部分のちょっとした物足りなさも帳消しになるような気がすることは否定できません。
おそらく、何度も繰り返し聞かれるという「録音」という行為の特徴を考えれば、それもまた一つの見識かも知れません。
しかし、50年代に前半に録音された2種類のチャイコフスキーではそのようなスタンスは取っていません。
特に「悲愴」に関しては「直接比較」が可能ですから、その違いは簡単に了解できるはずです。
50年代の録音は一言で言えば剛直さを感じるほどの直線性に富んでいて、60年代の録音から感じられたなだらかで女性的な姿はどこを探しても見つけることは出来ません。そして、おそらくは「TELEFUNKEN」のプロデューサーもそう言う勢いを大事にしたのでしょう、細かいことは無視をしてほぼ一発録りに近い形で録音したのではないかという気がするくらいの「熱さ」に貫かれています。
イッセルシュテットの実演に接した人の話によると、彼もまた録音と実演ではスタイルを大きく変える人だったようです。
この50年代前半の録音は、イッセルシュテットが未だ実演のスタイルで録音に臨んでいた時代の記録なのかもしれません。
そして、既に紹介済みの5番は録音年代はもっとも古いのですが、さすがは「DECCA」録音で、もしかしたら録音クオリティとしてはこれが最も優れているかも知れません。
その悠揚迫らぬ個性あふれる造形は、イッセルシュテットという指揮者の本質的な部分をさらけ出したような演奏になっています。
それは一見すると、後年の「中庸で温和」な姿と似通っているように見えるかも知れませんが、本質的には全く異なるものです。
そう言えば、ヴァイオリニストの千住真理子がその著書で「悲しそうに弾くチェリスト」と「悲しみのなかで弾くチェリスト」について語っていました。
その言葉を借りるならば、50年代のイッセルシュテットは己の本質に対して正直に指揮をしていたものが、60年代に入って録音という行為の特殊性に思い至ることによって、中庸で温和を大切にする指揮に変わってしまったといいのかも知れません。
そして、それがEMIの録音プロデューサーからの助言と指示によるものだったとすれば、随分といらぬお節介をしてくれたものです。
ただし、ヨーロッパから遠く離れた極東の島国では、レコードと言う媒体を通してでしかその演奏に接することは出来なかった音楽かが大多数です。
そのレコードがその音楽家の真価を十分に伝えきれないものであるならば、この島国での評価が高まらなかったのは致し方のないことでした。
さらに言えば、イッセルシュテットという指揮者は録音そのものにも恵まれなかったようなのですから、この国での認知度が高くならなかったのもやむを得なかったのかも知れません。
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