シューベルト:交響曲第8番 ロ短調 D.759 「未完成」
アンドレ・クリュイタンス指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 1960年11月25日録音
Schubert:Symphony No.8 in B Minor, D.759 "Unfinished"[1.Allegro moderato]
Schubert:Symphony No.8 in B Minor, D.759 "Unfinished"[2.Andante con moto]
わが恋の終わらざるがごとく・・・

この作品は1822年10月30日に作曲が開始されたと言われています。しかし、それはオーケストラの総譜として書き始めた時期であって、スケッチなどを辿ればシューベルトがこの作品に取り組みはじめたのはさらに遡ることが出来ると思われています。
そして、この作品は長きにわたって「未完成」のままに忘れ去られていたことでも有名なのですが、その事情に関してな一般的には以下のように考えられています。
1822年に書き始めた新しい交響曲は第1楽章と第2楽章、そして第3楽章は20小説まで書いた時点で放置されてしまいます。
シューベルトがその放置した交響曲を思い出したのは、グラーツの「シュタインエルマルク音楽協会」の名誉会員として迎え入れられることが決まり、その返礼としてこの未完の交響曲を完成させて送ることに決めたからです。
そして、シューベルトはこの音楽協会との間を取り持ってくれた友人(アンゼルム・ヒュッテンブレンナー)あてに、取りあえず完成している自筆譜を送付します。しかし、送られた友人は残りの2楽章の自筆譜が届くのを待つ事に決めて、その送られた自筆譜を手元に留め置くことにしたのですが、結果として残りの2楽章は届かなかったので、最初に送られた自筆譜もそのまま忘れ去られてしまうことになった、と言われています。
ただし、この友人が送られた自筆譜をそのまま手元に置いてしまったことに関しては「忘れてしまった」という公式見解以外にも、借金のカタとして留め置いたなど、様々な説が唱えられているようです。
しかし、それ以上に多くの人の興味をかき立ててきたのは、これほど素晴らしい叙情性にあふれた音楽を、どうしてシューベルトは未完成のままに放置したのかという謎です。
有名なのは映画「未完成交響楽」のキャッチコピー、「わが恋の終わらざるがごとく、この曲もまた終わらざるべし」という、シューベルトの失恋に結びつける説です。
もちろんこれは全くの作り話ですが、こんな話を作り上げてみたくなるほどにロマンティックで謎に満ちた作品です。
また、別の説として前半の2楽章があまりにも素晴らしく、さすがのシューベルトも残りの2楽章を書き得なかったと言う説もよく言われてきました。
しかし、シューベルトに匹敵する才能があって、それでそのように主張するなら分かるのですが、凡人がそんなことを勝手に言っていいのだろうかと言う「躊躇い」を感じる説ではあります。
ただし、シューベルトの研究が進んできて、彼の創作の軌跡がはっきりしてくるにつれて、1818年以降になると、彼が未完成のままに放り出す作品が増えてくることが分かってきました。
そう言うシューベルトの創作の流れを踏まえてみれば、これほど素晴らしい2つの楽章であっても、それが未完成のまま放置されるというのは決して珍しい話ではないのです。
そこには、アマチュアの作曲家からプロの作曲家へと、意識においてもスキルにおいても急激に成長をしていく苦悩と気負いがあったと思われます。
そして、この時期に彼が目指していたのは明らかにベートーベンを強く意識した「交響曲への道」であり、それを踏まえればこの2つの楽章はそう言う枠に入りきらないことは明らかだったのです。
ですから、取りあえず書き始めてみたものの、それはこの上もなく歌謡性にあふれた「シューベルト的」な音楽となっていて、それ故に自らが目指す音楽とは乖離していることが明らかとなり、結果として「興味」を失ったんだろうという、それこそ色気も素っ気もない説が意外と真実に近いのではないかと思われます。
この時期の交響曲はシューベルトの主観においては、全て習作の域を出るものではありませんでした。
彼にとっての第1番の交響曲は、現在第8(9)番と呼ばれる「ザ・グレイト」であったことは事実です。
その事を考えると、未完成と呼ばれるこの交響曲は、2楽章まで書いては見たものの、自分自身が考える交響曲のスタイルから言ってあまり上手くいったとは言えず、結果、続きを書いていく興味を失ったんだろうという説にはかなり納得がいきます。
ちなみに、この忘れ去られた2楽章が復活するのは、シューベルトがこの交響曲を書き始めてから43年後の1865年の事でした。ウィーンの指揮者ヨハン・ヘルベックによってこの忘れ去られていた自筆譜が発見され、彼の指揮によって歴史的な初演が行われました。
ただ、本人が興味を失った作品でも、後世の人間にとってはかけがえのない宝物となるあたりがシューベルトの凄さではあります。
一般的には、本人は自信満々の作品であっても、そのほとんどが歴史の藻屑と消えていく過酷な現実と照らし合わせると、いつの時代も神は不公平なものだと再確認させてくれる事実ではあります。
- 第1楽章:アレグロ・モデラート
冒頭8小節の低弦による主題が作品全体を支配してます。この最初の2小節のモティーフがこの楽章の主題に含まれますし、第2楽章の主題でも姿を荒らします。
ですから、これに続く第2楽章はこの題意楽章の強大化と思うほど雰囲気が似通ってくることになります。また、この交響曲では珍しくトロンボーンが使われているのですが、その事によってここぞという場面での響きに重さが生み出されているのも特徴です。
- 第2楽章:アンダンテ・コン・モート
クラリネットからオーベエへと引き継がれていく第2主題の美しさは見事です。
とりわけ、クラリネットのソロが始まると絶妙な転調が繰り返すことによって何とも言えない中間色の世界を描き出しながら、それがオーボエに移るとピタリと安定することによって聞き手に大きな安心感を与えるやり方は見事としか言いようがありません。
ゆったりと深々とした息づかいでシューベルトの切ないまでの憧れを歌い上げている
クリュイタンスがベルリンフィルと「未完成」を録音していたとは知りませんでした。
そして、ベートーベンの交響曲全集を録音した「おまけ」みたいなものだろうと思って聞き始めてみると、それが驚くほどに素晴らしい演奏だったのでさらに驚かされるのです。そして、これほどに素晴らしい演奏がほとんどスルーされていることにも驚くのです。
ただし、偉そうなことは言えません。
こう書いている私も、この録音は全く視野に入っていなかったのです。
ですから、この録音がスルーされているのは、演奏は聞いたけれど今ひとつ良くなかったのでスルーしたと言うよりは、ほとんどの人にとってこの録音は視野に入っていなかったのでしょう。
そう思えば、こういうサイトでこのような録音を紹介することにはそれなりの意味があるというものです。
さすがに、最近は下火になりましたが、シューベルトの交響曲でもピリオド楽器を使った演奏が席巻したときがありました。
多くのレーベルがそう言うムーブメントにのって新譜をリリースしてくるのですから、「レコード評論家」達はそれを売るために褒めなければいけなかったでしょう。
もちろん、それなりに一つの解釈として興味深いものもあったことも事実なのですが、それでもワルターの
古いSP盤や
新しいステレオ録音でこの作品になじんできたものにとっては、到底しっくりと心になじむものではありませんでした。
もちろん、そう言う態度はマーラー風に言えば「伝統とは怠惰の別名」かもしれないのですが、それでも何度聞いても心になじまないものを無理して聞き続けるほど人生は長くはありません。
他者の新しい提案に耳を傾ける謙虚さは必要ですが、自分の心に従う正直さも必要です。
そして、その二つが矛盾するとすれば、従うべきは謙虚さではなくて正直さです。
話はそれますが、人生においても他者からの忠告には耳を傾ける謙虚さは必要ですが、その忠告に「真心」がないと分かれば、そう言う手合いとは永遠に手を切るべきなのです。とりわけ、「年寄り」の忠告というものの大部分はその人のためというよりは、自分の「偉さ」を誇示するために為されることが多いので、若者は注意すべきです。
そして、そう言う素直な心(^^;にとって、このクリュイタンスの演奏は実に心にしっくりとなじむ演奏です。
シューベルトのこの音楽に潜んでいるのは若さゆえの希望の切なさです。それは切ないまでの憧れであり、もしかしたらそこには永遠に手が届かないかもしれないという恐れと身もだえが影を落とすのです。
そう言う音楽を強めのアーティキュレーションで、さらに言えば色んな楽器の響きがクッキリと賑やかに聞こえてくるように演奏されたのでは、到底心になじむはずもありません。
それと比べれば、クリィタンスの演奏は実にゆったりとしていて、深々とした息づかいでシューベルトの切ないまでの憧れと身もだえを歌い上げてくれます。
面白いと思ったのは、ベートーベンの交響曲では頑固なまでのインテンポの鬼と化していたのが、ここではそう言う力みがすっかり取れていることです。
そして、ベルリンフィルもピッチを高めに調節したドーピングは未だ為されていないようで、昔ながらの生成りの風合いがこの演奏には実に相応しく思えます。
ネット上を散見すると、このベルリンフィルの響きを「明るめ」と書いている方が多いのですが、ベートーベンの時よりもやや分厚めの低域の上にバランス良く楽器を積み重ねているように聞こえます。そして、それこそが伝統的なヨーロッパの響きであり、後のカラヤンによってドーピングされることで失われてしまった響きなのです。
決して明るめの響きという感じはしません。
ただし、誤解のないように申し添えておきますが、そう言うカラヤンの響きを否定しているわけではありません。
あのカラヤン美学は疑いもなく20世紀におけるオーケストラ美学の一つの頂点です。ただし、クラシック音楽という懐の深い世界では頂点は一つではないということを言いたいだけなのです。
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