クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~

ベルリオーズ:幻想交響曲 Op.14

ユージン・オーマンディ指揮 フィラデルフィア管弦楽団 1960年12月14日録音



Berlioz:Symphonie Fantastique Op.14 [1.Reveries - Passions. Largo - Allegro agitato e appassionato assai - Religiosamente]

Berlioz:Symphonie Fantastique Op.14 [2.Un bal. Valse. Allegro non troppo

Berlioz:Symphonie Fantastique Op.14 [3.Scene aux champs. Adagio]

Berlioz:Symphonie Fantastique Op.14 [4.Marche au supplice. Allegretto non troppo]

Berlioz:Symphonie Fantastique Op.14 [5.Songe dune nuit de sabbat. Larghetto - Allegro]


ベートーベンのすぐ後にこんな交響曲が生まれたとは驚きです。

ユング君はこの作品が大好きでした。「でした。」などと過去形で書くと今はどうなんだと言われそうですが、もちろん今も大好きです。なかでも、この第2楽章「舞踏会」が大のお気に入りです。

 よく知られているように、創作のきっかけとなったのは、ある有名な女優に対するかなわぬ恋でした。
 相手は、人気絶頂の大女優であり、ベルリオーズは無名の青年音楽家ですから、成就するはずのない恋でした。結果は当然のように失恋で終わり、そしてこの作品が生まれました。

 しかし、凄いのはこの後です。
 時は流れて、立場が逆転します。
 女優は年をとり、昔年の栄光は色あせています。
 反対にベルリオーズは時代を代表する偉大な作曲家となっています。
 ここに至って、漸くにして彼はこの恋を成就させ、結婚をします。

 やはり一流になる人間は違います。ユング君などには想像もできない「しつこさ」です。(^^;

 しかし、この結婚はすぐに破綻を迎えます。理由は簡単です。ベルリオーズは、自分が恋したのは女優その人ではなく、彼女が演じた「主人公」だったことにすぐに気づいてしまったのです。
 恋愛が幻想だとすると、結婚は現実です。そして、現実というものは妥協の積み重ねで成り立つものですが、それは芸術家ベルリオーズには耐えられないことだったでしょう。「芸術」と「妥協」、これほど共存が不可能なものはありません。

 さらに、結婚生活の破綻は精神を疲弊させても、創作の源とはなりがたいもので、この出来事は何の実りももたらしませんでした。
 狂おしい恋愛とその破綻が「幻想交響曲」という実りをもたらしたことと比較すれば、その差はあまりにも大きいと言えます。

 凡人に必要なもは現実ですが、天才に必要なのは幻想なのでしょうか?それとも、現実の中でしか生きられないから凡人であり、幻想の中においても生きていけるから天才ののでしょうか。
 ユング君も、この舞踏会の幻想の中で考え込んでしまいます。

なお、ベルリオーズはこの作品の冒頭と格楽章の頭の部分に長々と自分なりの標題を記しています。参考までに記しておきます。

「感受性に富んだ若い芸術家が、恋の悩みから人生に絶望して服毒自殺を図る。しかし薬の量が足りなかったため死に至らず、重苦しい眠りの中で一連の奇怪な幻想を見る。その中に、恋人は1つの旋律となって現れる…」
第1楽章:夢・情熱

「不安な心理状態にいる若い芸術家は、わけもなく、おぼろな憧れとか苦悩あるいは歓喜の興奮に襲われる。若い芸術家が恋人に逢わない前の不安と憧れである。」

第2楽章:舞踏会

「賑やかな舞踏会のざわめきの中で、若い芸術家はふたたび恋人に巡り会う。」

第3楽章:野の風景

「ある夏の夕べ、若い芸術家は野で交互に牧歌を吹いている2人の羊飼いの笛の音を聞いている。静かな田園風景の中で羊飼いの二重奏を聞いていると、若い芸術家にも心の平和が訪れる。
無限の静寂の中に身を沈めているうちに、再び不安がよぎる。
「もしも、彼女に見捨てれられたら・・・・」
1人のの羊飼いがまた笛を吹く。もう1人は、もはや答えない。
日没。遠雷。孤愁。静寂。」

第4楽章:断頭台への行進

「若い芸術家は夢の中で恋人を殺して死刑を宣告され、断頭台へ引かれていく。その行列に伴う行進曲は、ときに暗くて荒々しいかと思うと、今度は明るく陽気になったりする。激しい発作の後で、行進曲の歩みは陰気さを加え規則的になる。死の恐怖を打ち破る愛の回想ともいうべき”固定観念”が一瞬現れる。」

第5楽章:ワルプルギスの夜の夢

「若い芸術家は魔女の饗宴に参加している幻覚に襲われる。魔女達は様々な恐ろしい化け物を集めて、若い芸術家の埋葬に立ち会っているのだ。奇怪な音、溜め息、ケタケタ笑う声、遠くの呼び声。
”固定観念”の旋律が聞こえてくるが、もはやそれは気品とつつしみを失い、グロテスクな悪魔の旋律に歪められている。地獄の饗宴は最高潮になる。”怒りの日”が鳴り響く。魔女たちの輪舞。そして両者が一緒に奏される・・・・」

能動的ニヒリズム


オーマンディという指揮者は実に不思議な指揮者です。
これが彼の録音を集中して聞き続けた後に残った率直な思いです。

私にとってオーマンディという指揮者は遠い存在でした。

既に何回も繰り返していますが、吉田大明神がベートーベンのエロイカの録音を引き合いに出して、セルを「文化のクリエーター」、オーマンディを「文化のキーパー」と切って捨てた一言が大きく影響していたからです。
さらに言えば、その「キーパー」という言葉と「フィラデルフィア・サウンド」という言葉が私の頭の中で勝手に合体して、どこか効果だけを狙った底の浅い音楽をやった人という図式が出来上がってしまったのです。

しかし、実際に彼が残した録音を集中的に聞いてみれば、彼の演奏がただの保守者でないことは明らかですし、響きの華やかさだけを狙った底の浅い音楽でないことは明らかでした。

吉田が切って捨てたエロイカにしても、セルと較べればはるかに流麗でありながらも締めるべきべきところはしっかりとエッジを効かせていて、十分に存在価値のあるベートーベンになっていました。
オペラを振らなかったオーマンディの事をストラヴィンスキーが「ヨハン・シュトラウスの理想的指揮者」と鼻であしらったというエピソードも残されているのですが、例えばリヒャルト・シュトラウスの「薔薇の騎士」組曲を聴いてみればまさに「薔薇の騎士」のダイジェスト版、その語り口の上手さに驚かされました。
また、オーマンディのレパートリーは非常に広く、多様性に満ちた音楽を高いクオリティで外れ無しに演奏できました。

つまりは、彼は指揮者に求められるあらゆる資質において、疑いもなく超一流だったのです。
しかし、それは考えてみれば当たり前のことで、それだけの資質がなければアメリカのトップオケであるフィラデルフィアに40年も君臨できるはずはないのです。

しかし、その事を全て認めた上で、それでも彼の残した演奏には、聞き手の記憶に何時までも残るような「強さ」が希薄なのです。
彼の演奏を聴けば、作品のフォルムをゆがめるような恣意性は皆無ですし、オケの全てのパートはこの上もなく整然と、そして完璧に鳴り響いています。その意味では、この時代を席巻した新即物主義の流れの中にあることは疑いないのです。しかし、それではその潮流の本家であるトスカニーニ、ライナー、セルという流れと較べてみればその音楽の佇まいは明らかに異質なのです。

その違いは何処にあるのだろうかと思案してみて気づいたのは、「自己喪失」という言葉です。
トスカニーニしてもライナーにしても、もちろんセルにしても、彼らは楽譜に忠実であれといいながら、そして実際に楽譜には限りなく忠実でありながら、その枠の中で抑えがたい「自己」があふれ出しています。そして、そう言う「自己」表出に出会うことで、聞き手はそこにトスカニーニならではの、ライナーならではの、そしてセルならではの音楽に出会って心を揺さぶられるのです。

それと比べてみれば、オーマンディの音楽は驚くほどにニヒリスティックです。この上もなく高いレベルでオケ鳴らしきりながら、その中で音楽の統率者であるべき指揮者の姿がなかなか見えてこないのです。オケの全てのパートは、その様な指揮者の気配を消すかのごとくに、完璧なまでに等価に鳴り響いているだけです。

そう言えば、この世の中には「能動的ニヒリズム」とか「積極的ニヒリズム」という便利な言葉があるようです。

「すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方。つまり、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度」

おオー、まさにこれこそオーマンディの指揮姿ではないですか!!

そう言えば、彼は本当は指揮者になんかなりたくなかったというエピソードが残されています。

ユージン・オーマンディを聴く

若きオーマンディが最初に就いた職は、無声映画時代の映画館でのヴァイオリン奏者でした。そのヴァイオリン奏者として就職して5日目にソロ・コンサートマスターが解任されたためににコンマスに抜擢されまう
そして、ある日、運命の歯車が回り始めます。
演奏の始まる5分前に指揮者が病気で来られなくなくなり、代わりの副指揮者も全て不在であったので、仕方なしに指揮台に立ったのです。それは全く持って仕方無しのことで、彼は指揮なんて本当にはやりたくなかったのです。しかし、25ドルの給料アップと引き替えに嫌々ながら副指揮者に就任したのが彼の指揮者としてのキャリアの出発点になったのです。
この出発点で感じた「指揮なんてものはすべてが無価値・偽り・仮象」でしかないという思いは、フィラデルフィアのシェにに登りつめても変わることがなったのではないでしょうか。

しかし、彼はその無価値なことを前向きにとらえ、指揮という活動を通して、一瞬一瞬を一所懸命生きたのです。あの作品のフォルムを一切ゆがめることなく、それでいながらオーケストラの全てのパートが整然と均等に、そして完璧に鳴り響く姿を聞くときに、オーマンディという指揮者のなかの深い能動的ニヒリズムを感じてしまうのです。

指揮者という仕事は基本的には強烈な自己表出が求められます。ところが、そう言うスタンスとは真逆なところに自分を置き続けてトップオケに40年も君臨したのがオーマンディでした。
おそらくこんな指揮者はオーマンディが初めてだったのではないでしょうか。
しかし、こういう指揮者は最近は少しずつ増えているような気はします。蒸留水のような演奏を聴かされるたびにその思いは強くなってきています。

それがいいかどうかはひとまず脇におくとして、もしかしたら、そう言う意味において彼は時代を先駆けた存在だったのかもしれません。

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