サン=サーンス:交響曲第3番ハ短調 Op.78「オルガン付き」
オーマンディ指揮 (Org)パワー・ビッグス フィラデルフィア管弦楽団 1962年10月7日録音
Camille Saint-Saens:Symphony No.3 in C minor, Op.78 Symphonie avec orgue [1-1.Adagio - Allegro moderato ]
Camille Saint-Saens:Symphony No.3 in C minor, Op.78 Symphonie avec orgue [2-1.Allegro moderato - Presto - Allegro moderato - Maestoso - Allegro]
虚仮威しか壮麗なスペクタルか?
巨大な編成による壮大な響きこそがこの作品の一番の売りでしょう。3管編成のオケにオルガンと4手のピアノが付属します。そして、フィナーレの部分ではこれらが一斉に鳴り響きます。
交響曲にオルガンを追加したのはサン=サーンスが初めてではありません。しかし、過去の作品はオルガンを通奏低音のように扱うものであって、この作品のように「独奏楽器」として華々しく活躍して場を盛り上げるものではありませんでした。それだけに、このフィナーレでの盛り上がりは今まで耳にしたことがないほどの「驚きとヨロコビ」を聴衆にもたらしたと思われるのですが、初演の時に絶賛の嵐が巻き起こったという記述は残念ながら見あたりません。
これは全くの想像ですが、当時のイギリスの聴衆(ちなみに、この作品はイギリスのフィルハーモニー協会の委嘱で作曲され、初演もイギリスで行われました)は、おそらく「凄いなー!!」と思いつつ、その「凄いなー」という感情を素直に表現するには「ちょっと気恥ずかしいなー」との警戒感を捨てきれずに、表面的にはそこそこの敬意を表して家路をたどったのではないでしょうか。
まあ、全くの妄想の域を出ませんが(^^;。
しかし、その辺の微妙な雰囲気というのは今もってこの作品にはつきまとっているように見えます。
よく言われることですが、この作品は循環形式による交響曲としてはフランクの作品と並び称されるだけの高い完成度を誇っています。第1部の最後でオルガンが初めて登場するときは、意外にもピアノで静かに静かに登場します。決して効果だけを狙った下品な作品ではないのですが、しかし、「クラシック音楽の王道としての交響曲」という「観点」から眺められると、どこか物足りなさと「気恥ずかしさ」みたいなものを感じてしまうのです。ですから、コアなクラシック音楽ファンにとって「サン=サーンスのオルガン付きが好きだ!」と宣言するのは、「チャイコフスキーの交響曲が好きだ」と宣言するよりも何倍も勇気がいるのです。
これもまた、全くの私見ですが、ハイドン、ベートーベン、ブラームスと引き継がれてきた交響曲の系譜が行き詰まりを見せたときに、道は大きく二つに分かれたように見えます。一つは、ひたすら論理を内包した響きとして凝縮していき、他方はあらゆるものを飲み込んだ響きとして膨張していきました。前者はシベリウスの7番や新ウィーン楽派へと流れ着き、後者はマーラーへと流れ着いたように見えます。
その様に眺めてみると、このオルガン付きは膨張していく系譜のランドマークとも言うべき作品と位置づけられるのかもしれません。
おそらく、前者の道を歩んだものにとってこの作品は全くの虚仮威しとしか言いようがないでしょうが、後者の道をたどったものにとっては壮麗なスペクタルと映ずることでしょう。ただ、すでにグロテスクなまでに膨張したマーラーの世界を知ったもににとって、この作品はあまりにも「上品すぎる」のが中途半端な評価にとどまる原因になっているといえば、あまりにも逆説的にすぎるでしょうか?
もしも、この最終楽章に声楽を加えてもっと派手に盛り上げていれば、保守的で手堅いだけの作曲家、なんて言われなかったと思うのですが、そこまでの下品さに身をやつすには彼のフランス的知性が許さなかったと言うことでしょう。
響きに対する狂信と献身
後の時代の人が何を語ろうと、50年代から60年代にかけてのCBSレーベルの看板指揮者はオーマンディとバーンスタインでした。我が敬愛するジョージ・セルは、その卓越した才能を玄人筋では認められていたものの、彼が録音活動をしたのはCBS傘下のEPICレーベルでした。当時のアメリカにおけるオーマンディ&フィラデルフィアのサウンドは絶大な人気を誇っていたのです。
そして、その人気の背景には、小難しい芸術論議などは吹き飛ばしてしまうほどの名人芸の披露が、時には深い精神性に裏打ちされた(と、言われていた)ヨーロッパの芸術を凌ぐことがあるという事実をハイフェッツやホロヴィッツが証明したことも大きな力となっていたはずです。
そして、それと同じ事を、アメリカの人々はオーケストラの分野にも求めたのでしょう。
当然、そこで求められるのは、しんねりむっつりとした響きではなくて、この上もなく美しくて豊満な響きであったはずです。音楽は何よりも官能的であり、聞くものの心をとらえて放さない感覚的な喜びが求められたのです。
そう考えてみれば、歩んだ道は全く違うのですが、求めたものはセルもまた同じだったのかもしれないという気がします。
オーマンディはオーケストラの響きに人生をかけたのだとすれば、セルは完璧性に己の命をかけました。そして、両者に共通するのは「音のサーカス」だと言えば、セルファンに叱られるでしょうか。
しかし、セルは常にコンサートに聞きにくれている聴衆のことを気にかけていました。なれ合いの妥協で完璧性を犠牲にすることはお客さんに申し訳ないみたいなことをどこかで語っていました。
大阪の人間にとっては、このエピソードは藤山寛美の事を思い出させてくれます。
演劇の芸術性などというものとは全く無縁な大衆演劇の世界で活躍した寛美もまた、完璧性への狂信者であったことはよく知られてます。彼の稽古の厳しさは有名で、彼の思い通りに演じられない役者に対して「俺はなんぼでも我慢するけど、お客さんは我慢してくれヘンのや」というのが口癖でした。
おそらく、セルもまた「独裁者」「軍隊的」「楽団員を豚扱いする」と陰口をたたかれながらも、心の中では「俺はなんぼでも我慢するけど、お客さんは我慢してくれヘンのや」と叫んでいたことでしょう。そして、オーマンディに関してはその様なエピソードは伝わっていませんが、それでも何らかの狂信がなければこの豊かにして美しい響きを長きにわたって維持することは絶対に不可能だったはずです。
その事は、オーマンディ亡き後のフィラデルフィアの凋落を見れば明らかです。
そして、その様なオーマンディとフィラデルフィア管の音楽に対する献身が最もよく分かるのは、ベートーベンやブラームスのようなドイツ。オーストリア系の本流よりは、その傍流であったのは仕方のないことでした。
しかし、その事を持って彼らの音楽を低く評価するのは間違っているでしょう。評価というものは、何よりもその人が目指したものを持ってこそ判断されるべきものだからです。
レスピーギやサン=サーンスの音楽などを今は聞いているのですが、なるほど、こういう響きでここまで演じきってくれた演奏はそうそう聞けるものではないのです。
とは言え、彼の次の時代にアメリカに君臨したショルティ&シカゴにしても日本での評価は低いですね。
そこが日本のいいところでもあり、困ったところでもあるのかもしれませんが・・・。
よせられたコメント
2021-07-15:りんごちゃん
- オーマンディからまず感じられるのは響きの心地よさです
響きは常に中庸から外れることがなく、聞いていて引っかかるような棘のようなものは全て排除され、物語の気分が聞き手の心に素直に落とし込まれるよう巧みに演出されています
テンポ設定なども変なことは一切致しませんで、主旋律が聞き取りやすく、物語の流れを演出するのに最適化したテンポを確実に選んでいますよね
ストコフスキーは、響きの心地よさを獲得するための理知的作業を音作りの方で極めて独創的に行ったのですが、オーマンディから感じられるのはそのような種類のものではありません
彼はむしろ職人なのだと思います
ハリウッド映画や時代劇のような娯楽作品は全て、既存の定石を様々に変奏することによって成立しているのでして、どこかで見たようなものだけど観客を確実に満足させる技術の洗練された結晶でもあるのです
オーマンディの演奏からはそういったものに近いものが感じられるのでして、そういった技術を洗練させ習得した職人だからこそ、極めて広いレパートリーを極めて高品質に外れなくこなすことができるのでしょう
こういった技術は主に娯楽作品の中で洗練される類のものなので、作品の魂と言えるような部分をどこか拾い出して尖らせることで個性を演出するタイプのつまりはほとんどの大家と言われるような人々の演奏を聞き慣れた人は、この演奏を娯楽作品のようだと感じてしまうことでしょう
曲が曲なので尚更ですね
わたしにとってのオーマンディはバルトークのピアノ協奏曲第三番を初演した人だったのですが、実はこんな人だったのですね
悲劇を演じる役者がたとえ心のなかで涙を流していなかったとしても、見るものに満足を与えることができるならそれでよいのではないでしょうか
これ別に批判してるのではなくて、わたしとしては絶賛してるつもりなのですが
こういった演奏に敬意を感じるというのはやはり天の邪鬼なんでしょうかね
クラシックの名演奏はみな「大家」のものばかりなので、こういった種類の名演奏のほうがむしろ貴重なのかもしれませんね
わたしはオーマンディがこの曲を録音してくれていてよかったと思います
ふと思ったのですが、こういった文章を書くにしましても、自分の感じたものにひたすら素直になって棘丸出しで書きなぐってしまいますと、読んだ人の気持ちを逆なでするだけで、自分の意図は伝わらずただ喧嘩して終わりになってしまい、全てを台無しにしてしまいがちですよね
慎重に棘を抜き聞き手の心に素直に気持ちを落とし込む努力というものは本当はとても大切なのでして、それができる人を大人と呼ぶのです
オーマンディはまちがいなく大人ですよね
よろしければパレーのところもご覧くださいませ
2023-09-18:大串富史
- 管理人様へのエール、また深い感謝と共に。
フランクと同時代のフランス、しかも接点がないわけでもなく、まあそれなり定評?もあるという、この交響曲の解説を拝読させていただき、相応に期待してこちらを聴かせていただきました。
#えっ?結果はどうだったかって?ええっとあのその、うーん… サン=サーンスに余りに申し訳なくて言えませんー(まて
わたしも自分がこの年になって、自分は凡人でよかった、凡人でない皆様は本当に大変だとの思いを日々強くしているのですが、「動物の謝肉祭」別にいいんじゃないですか?その気持ち分からないでもないですよー、と思う一方、こちらはなんだか、どうだ文句付けられるんだったら付けてみなさいハッハッハみたいに言われてもなー、と思ってしまうわけです。正直もうそんな音楽志向の時代ではないし、それ以上に時間も暇もない凡人の現代人なものですから、ただただ申し訳ない…
#これは自論めいてしまうのですが、人の能力の差というのはとどのつまり脳内のシナプス連結の差であって、そうであれば筋肉の鍛錬と同様にシナプス連結の生成のため相応に時間とエネルギーが必要で、結果的に人は70年80年の寿命内であれやこれをどれも完璧にすることはできず、あれかこれを、自分能力の範囲内で、まあ相応程度にできるのみなので、実際に一途に作曲に取り組んだ(というかそうする衝動に駆られてそうした)作曲家の大先生の皆様には、ただただ感謝しかありません。
もっともこの曲のネット鑑賞も曲の解説の拝読も、管理人様のご苦労がなければ実現しなかったでしょう(まあそれ以前に、バックグラウンドミュージック探しのためのクラシック音楽総聴き巡りという大義があってそうなるわけですが)。エールと謝意を再度お送りしつつ。
#実は残念ながら、マーラーの復活とシャルル=マリー・ヴィドールのオルガン交響曲(違)は、特定宗教の宣伝とみなされかねないと悟り、急きょ外させていただきました… まずこのフィルター(宗教曲や復活云々やオルガン曲等)に、現代人にとってあまりにクラシックなクラシック音楽はNGというフィルターをかけ、人をびっくりさせたり(あちらがかり?のもの?)注意を過度にそらせたり(歌曲等)もNGというフィルターをかけ、プチプチもクレームが来るのでNGというフィルターをかけ、現代音楽過ぎて「怖い音楽」もNGというフィルターをかけ(それでも自分はバルトークを聴きますし、たまにちょろっと流してしまったりもするわけですが)、その中から自分がこれはと思うものを流させていただいているわけですが、まあ相応に手ごたえを感じています(ある中国人の生徒さんはフランクを聴いて相応に感動していました)。されどクラシック音楽、でしょうか。現代人にとって、やっぱり隅には置けませんね、この音楽ジャンル(とこちらのサイト)は。
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