クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~

シューベルト:交響曲第4番ハ短調 D.417「悲劇的」

ロリン・マゼール指揮 ベルリンフィル 1959年1月録音




シューベルトの交響曲のナンバリングにつて

シューベルトの交響曲には悩ましい問題がつきまといます。それは、彼が作曲した、もしくは作曲しようとした交響曲の総数がクリアに確定できないので、ナンバリングの仕方が複数存在しているという問題です。
シューベルトの作品と言えば、O.E.ドイチュによって敢行された年代順作品目録(1978年刊)が基本です。そこでは、シューベルトの交響曲は以下のように整理されています。


  1. D.2B→交響曲 ニ長調 1811年?

  2. D.82→ 交響曲第1番 ニ長調 1813年

  3. D.125→ 交響曲第2番 変ロ長調 1814年-15年

  4. D.200→ 交響曲第3番 ニ長調 1815年

  5. D.417→ 交響曲第4番 ハ短調『悲劇的』 1816年

  6. D.485→ 交響曲第5番 変ロ長調 1816年

  7. D.589→ 交響曲第6番 ハ長調 817年-18年

  8. D.615→ 交響曲 ニ長調 1818年

  9. D.708A→交響曲 ニ長調 1820年以後

  10. D.729→交響曲 ホ長調 1821年

  11. D.759→ 交響曲第7(8)番 ロ短調『未完成』

  12. D.944→ 交響曲第8(9)番 ハ長調『ザ・グレート』1825年-26年

  13. D.936A→交響曲 ニ長調 1828年?



なんだか見慣れない「交響曲」もたくさん入っているのですが、紆余曲折の末に、現在ではこの13曲が確定されています。
それでは、いささか煩わしいのですが、その紆余曲折を簡単に紹介しておきます。

まず、「D.28」が与えられているニ長調の交響曲は断片しか残っていませんので、「作曲しよう」としたことは認定されているものの「番号」は与えられていません。ですから、栄えある「交響曲第1番」は「D.82」のニ長調交響曲の方に与えられています。
そして、ここから「D.589」までの交響曲についてはなんの問題もありません。作品は完成されていますし、作曲年代も確定されていますので、「第1番」から「第6番」までのナンバリングが揺らぐことはありませんでした。

問題はここからです。
まず、シューベルトの死後、1849年に「大ハ長調」交響曲が出版されます。いわゆる「ザ・グレート」です。この時に、出版社は6番に次ぐ交響曲と言うことで「7番」という番号を割り振りました。
そして、1865年には、「未完成」というタイトルで知られる事になる「ロ短調交響曲」が発見されたので、こちらの方には順番通り「第8番」が付与され、このナンバリングが1884年から1885年にかけて出版されたシューベルトの旧全集にも反映されました。

しかし、その後、第6番の交響曲を完成させた後に、シューベルトが多くのスケッチを残していることが音楽学の成果によって明らかになってきました。その中で、特に問題となったのが、現在では「D.729」が与えられているホ長調交響曲でした。この交響曲はピアノ譜は完成されているのでスケッチ以上の状態であることが判明しました。さらに、幾人かの手になる補筆譜も公にされるようになったので、それをきっかけに成立順にナンバリングの見直しが行われ、この「ホ長調交響曲」には「7番」、ロ短調の「未完成交響曲」は「8番」、そしてハ長調の「ザ・グレート」は「9番」ということになりました。
これが現在一般的に使用されているナンバリングです。

しかし、1978年に刊行されたドイチュの新作品目録では、演奏できる形で作品が残っていない「D.729」のホ長調交響曲に「7番」を与えることに疑義があるとして削除されてしまいました。そして、この時、ついでに「未完成」と「ザ・グレート」の番号も繰り上げてしまったので、それぞれ「第7番」、「第8番」となってしまって、これが混乱を招く要因となってしまいました。
つまり、ハ長調交響曲の「ザ・グレート」は時代によって「7番」「8番」「9番」という3つの番号、ロ短調の「未完成交響曲」も「8番」と「7番」という二つの番号を持つようになったのです。

さらに、この問題を複雑にしているのが、「D.789」が与えられている「ガスタイン交響曲」という謎の交響曲の存在です。これも、色々なすったもんだがあったのですが、結論から言えばこれは現在のハ長調交響曲「ザ・グレート」と同一の作品だということで、その存在は否定されています。しかし、この「定説」にも根強い反論もあり、この謎の交響曲のために「7番」を確保し、未完成には「8番」、「ザ・グレート」には「9番」という慣れ親しんだ番号を与えておこうという主張も根強く存在します。
ですから、今日ではその様な煩わしさから解放されるために「交響曲第7(8)番 ロ短調『未完成』」「交響曲第8(9)番 ハ長調『ザ・グレート』」と表記されることが多くなっているのです。

以上、どうでもいいような些末な話題におつきあいいただきありがとうございました。
ただ、どうしてこんな些末なことを話題にしたのかというと、某有名ヴァイオリニストが監修するクイズ番組で「9番の呪い」という話題が取り上げられ、その具体例として「シューベルトも9番の交響曲を書いた後に亡くなった」と述べていたからです。

今さら言うまでもないことですが、この「9番の呪い」を気にした作曲家はマーラーだけです。ですから、彼がベートーベンやブルックナーやドヴォルザークが9番目の交響曲を書いた後に亡くなったという事実に恐れをなしたと解説していればよかったのですが、そこにシューベルトを持ってくると、いささか困った話だなと思わざるを得ませんでした。
何故なら、マーラーが生きた時代は「旧全集」の時代ですから、シューベルトの交響曲は「第8番」までしかなかったからです。
ましてや、シューベルト自身が「自分がいったい何曲の交響曲を書いたのか」などということを問題にしていなかった・・・どころか、よく分かってもいなかったことが明らかなのですから。

不用意と言えば不用意なのでしょうが、それでも、シューベルの交響曲のナンバリングに関わる話はそれほどコアな話でもありません。しかし、そのヴァイオリニストの話しぶりから推測すると、彼はこの問題については何も理解していないこと明らかでした。
日本のクラシック音楽界というところは、演奏は指が回ればいいのであって、そういう周辺部の知識はそれほど必要ではないというスタンスです。それはアメリカなども同様のようです。
しかし、ヨーロッパでは指が回るだけでは不十分であり、それに加えて音楽が生み出されてきた背景についても十分に理解していなければいけないというスタンスを取ります。

何でもないようなことですが、今回の一寸した出来事から図らずも両者のスタンスが垣間見られたような気がしました。それから、そのヴァイオリニストはクイズの問題として時々演奏するのですが、その左手の雑さには驚かされました。プロなんだから、どんな場であってもまじめに演奏してほしいものです・・・と言ってから、真面目にやってあの雑さだったらどうしよう・・・と言う、怖い思いもしたりして・・・。

閑話休題。
最後に、簡単に作品の紹介もしておきます。

シューベルトの音楽家としての出発点はコンヴィクト(寄宿制神学校)の学生オーケストラでした。彼は、そのオーケストラで最初は雑用係として、次いで第2ヴァイオリン奏者として、最後は指揮者を兼ねるコンサートマスターとして活動しました。この中で最も重要だったのは「雑用係」とシェの仕事だったようで、彼は毎日のようにオーケストラで演奏するパート譜を筆写していたようです。
当時の多様な音楽家の作品を書き写すことは、この多感な少年に多くのものを与えたことは疑いがありません。

ですから、コンヴィクト(寄宿制神学校)を卒業した後に完成させた「D.82」のニ長調交響曲はハイドンやモーツァルト、ベートーベンから学んだものがつぎ込まれていて、十分に完成度の高い作品になっています。そして、その作品はコンヴィクト(寄宿制神学校)からの訣別として、そこのオーケストラで初演された可能性が示唆されていますが詳しいことは分かりません。

彼は、その後、兵役を逃れるために師範学校に進み、やがて自立の道を探るために補助教員として働きはじめます。しかし、この仕事は教えることが苦手なシューベルトにとっては負担が大きく、何よりも作曲に最も適した午前の時間を奪われることが彼に苦痛を与えました。
しかし、その様な中でも、「D.125」の「交響曲第2番 変ロ長調」と「D.200」の「交響曲第3番 ニ長調」が生み出されます。

ただし、これらの作品は、すでにコンヴィクト(寄宿制神学校)の学生オーケストラとの関係は途切れていたので、おそらくは、シューベルトの身近な演奏団体を前提として作曲された作品だと思われます。この身近な演奏団体というのは、シューベルト家の弦楽四重奏の練習から発展していった素人楽団だと考えられているのですが、果たしてこの二つの交響曲を演奏できるだけの規模があったのかは疑問視されています。
第2番の変ロ調交響曲についてはもしかしたらコンヴィクトの学生オーケストラで、第3番のニ長調交響曲はシューベルトと関係のあったウィーンのアマチュアオーケストラで演奏された可能性が指摘されているのですが、確たる事は分かっていません。

両方とも、公式に公開の場で初演されたのはシューベルトの死から半生ほどたった19世紀中葉です。
作品的には、モーツァルトやベートーベンを模倣しながらも、そこにシューベルトらしい独自性を盛り込もうと試行錯誤している様子がうかがえます。

そして、この二つの交響曲に続いて、その翌年(1816年)にも、対のように二つのシンフォニーが生み出されます。この対のように生み出された4番と5番の交響曲は、身内のための作品と言う点ではその前の二つの交響曲と同じなのですが、次第にプロの作曲家として自立していこうとするシューベルトの意気込みのようなものも感じ取れる作品になってきています。

第4番には「悲劇的」というタイトルが付けられているのですが、これはシューベルト自身が付けたものです。しかし、この作品を書いたとき、シューベルトはいまだ19歳の青年でしたから、それほど深く受け取る必要はないでしょう。
おそらく、シューベルト自身はベートーベンのような劇的な音楽を目指したものと思われ、実際、最終楽章では、彼の初期シンフォニーの中では飛び抜けたドラマ性が感じられます。しかし、作品全体としては、シューベルトらしいと言えば叱られるでしょうが、歌謡性が前面に出た音楽になっています。
また、第5番の交響曲では、以前のものと比べるとよりシンプルでまとまりのよい作品になっていることに気づかされます。もちろん、形式が交響曲であっても、それはベートーベンの業績を引き継ぐような作品でないことは明らかですが、それでも次第次第に作曲家としての腕を上げつつあることをはっきりと感じ取れる作品となっています。シューベルトの初期シンフォニーを続けて聞いていくというのはそれほど楽しい経験とはいえないのですが、それでもこうやって時系列にそって聞いていくと、少しずつステップアップしていく若者の気概がはっきりと感じとることが出来ます。

この二つの作品を完成させた頃に、シューベルトはイヤでイヤで仕方なかった教員生活に見切りをつけて、プロの作曲家を目指してのフリーター生活に(もう少しエレガントに表現すれば「ボヘミアン生活」に)突入していきます。

そして、これに続く第6番の交響曲は、シューベルト自身が「大交響曲ハ長調」のタイトルを付け、私的な素人楽団による演奏だけでなく公開の場での演奏も行われたと言うことから、プロの作曲家をめざすシューベルトの意気込みが伝わってくる作品となっています。
また、この交響曲は当時のウィーンを席巻したロッシーニの影響を自分なりに吸収して創作されたという意味でも、さらなる技量の高まりを感じさせる作品となっています。

その意味では、対のように作曲された二つのセット、2番と3番、4番と5番の交響曲、さらにはプー太郎になって夢を本格的に追いかけ始めた頃に作曲された第6番の交響曲には、夢を追い続けたシューベルトの青春の、色々な意味においてその苦闘が刻み込まれた作品だったといえます。

強い共感に裏打ちされた演奏


マゼールのシューベルトと言えば、バイエルン放送交響楽団と録音した全集(2001年)が思い出されますが、それもまた、それほど話題になったわけではありません。ですから、この50年代後半から60年代初めにかけて、それも1番と9番が欠ける形で残された録音は、今となっては殆ど記憶のかなに跳んでいってしまっています。
ただ、いささか話題性があると言えば、カラヤン治下に入ったばかりのベルリンフィルが相手だと言うことです。
そして、一番最初の録音が1959年ですから、この時マゼールは29歳です。
驚きの若さですが、10歳にしてトスカニーニが率いるNBC交響楽団の指揮台に立った神童です。さらにその指揮台も大人がお膳立てをしたお座なりのものではなく、ガキ相手に馬鹿らしいと様々な嫌がらせをしてくるNBC響のメンバーを相手にした指揮台だったと伝えられていますか。
その経験を思えば、今さら、ベルリンフィルだからと言って臆する事はなかったでしょう。

ただ、こうして聞いてみると不思議な感じがするのですが、この若い時代のマゼールは、壮年期のマゼールから感じ取れた「強烈な我」みたいなものが希薄なのです。
ウィーンの歌劇場のシェフを追い出されるきっかけとなったのは、高すぎるピッチを「正確なピッチ」になおそうとしたからっだと言われています。オケの響きは長い歴史の中で培われてきたものですから、それを一気に変えようなどとは無謀極まる試み試みだと思うのですが、そう言う事をやってやろうとするところにマゼールらしい「強烈な我」がありました。

そして、その「我」が長い年月の中で磨きがかかることで最晩年の「輝き」がもたらされたのだと思います。
そう思えばマゼールとは不思議な人です。
おそらくは、20世紀という100年の中で、彼ほどの早熟の天才はいなかったと思うのですが、棺を閉じて振り返ってみれば、彼は疑いもなく「晩成」の指揮者だったのです。

この若い時代のマゼールは、一見すると、相手の言い分は聞きながらも自分が目指すストレートな音楽作りを成し遂げていることがよく分かります。
58年の録音からは、カラヤン治下ながらも、未だにドイツの田舎オケらしい響きが残っているのがよく分かります。そして、60年代に入ると、カラヤンが少しずつオケの響きを自分の色に染めていくのですが、その変化がマゼールという鏡によってはっきりと聞き取れる面白さがあります。

それと、この時代のマゼールの録音は、どれもこれも良くできているのですが、どこか優等生の模範解答のようなつまらなさを感じるときがあります。しかし、このシューベルト10代の作品である6番までの交響曲に関しては、同じく早熟の天才としての共感があるのか、そう言う「味気なさ」とは無縁です。
さすがに8番に関しては「薄味」に過ぎる感じはあるのですが、初期の交響曲に関しては、他の巨匠の手すさびの芸としての演奏とは異なる強い共感が感じ取れます。

惜しむらくは、録音がお座なりなことです。
小綺麗には音を拾っているのですが、そこに愛情がないことは聞いているとよく分かります。この世界、若造はいつも辛い立場に立たされるもののようです。そう言うことも含めてみると、最後に録音した2番と3番が一番効いていて面白いかもしれません。


  1. 交響曲第8(7)番ロ短調 D.759『未完成』:1959年1月録音

  2. 交響曲第4番ハ短調 D.417『悲劇的』:1959年1月録音

  3. 交響曲第5番変ロ長調 D.485:1961年1月録音

  4. 交響曲第6番ハ長調 D.589:1961年1月録音

  5. 交響曲第2番変ロ長調 D.125:1962年3月録音

  6. 交響曲第3番ニ長調 D.200:1962年3月録音


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