ベートーベン:交響曲第3番 変ホ長調 作品55「英雄」
フリッチャイ指揮 ベルリンフィル 1958年10月6日~13日録音
Beethoven:Symphony No.3 in Em, Op.55 Eroica [1.Allegro con brio]
Beethoven:Symphony No.3 in Em, Op.55 Eroica [2.Marcia funebre. Adagio assai]
Beethoven:Symphony No.3 in Em, Op.55 Eroica [3.Scherzo. Allegro vivace - Trio]
Beethoven:Symphony No.3 in Em, Op.55 Eroica [4.Finale. Allegro molto]
音楽史における最大の奇跡
今日のコンサートプログラムにおいて「交響曲」というジャンルはそのもっとも重要なポジションを占めています。しかし、この音楽形式が誕生のはじめからそのような地位を占めていたわけではありません。
浅学にして、その歴史を詳細につづる力はありませんが、ハイドンがその様式を確立し、モーツァルトがそれを受け継ぎ、ベートーベンが完成させたといって大きな間違いはないでしょう。
特に重要なのが、この「エロイカ」と呼ばれるベートーベンの第3交響曲です。
ハイリゲンシュタットの遺書とセットになって語られることが多い作品です。人生における危機的状況をくぐり抜けた一人の男が、そこで味わった人生の重みをすべて投げ込んだ音楽となっています。
ハイドンからモーツァルト、そしてベートーベンの1,2番の交響曲を概観してみると、そこには着実な連続性をみることができます。たとえば、ベートーベンの第1交響曲を聞けば、それは疑いもなくモーツァルトのジュピターの後継者であることを誰もが納得できます。
そして第2交響曲は1番をさらに発展させた立派な交響曲であることに異論はないでしょう。
ところが、このエロイカが第2交響曲を継承させ発展させたものかと問われれば躊躇せざるを得ません。それほどまでに、この二つの間には大きな溝が横たわっています。
エロイカにおいては、形式や様式というものは二次的な意味しか与えられていません。優先されているのは、そこで表現されるべき「人間的真実」であり、その目的のためにはいかなる表現方法も辞さないという確固たる姿勢が貫かれています。
たとえば、第2楽章の中間部で鳴り響くトランペットの音は、当時の聴衆には何かの間違いとしか思えなかったようです。第1、第2というすばらしい「傑作」を書き上げたベートーベンが、どうして急にこんな「へんてこりんな音楽」を書いたのかと訝ったという話も伝わっています。
それほどまでに、この作品は時代の常識を突き抜けていました。
しかし、この飛躍によってこそ、交響曲がクラシック音楽における最も重要な音楽形式の一つとなりました。いや、それどことろか、クラシック音楽という芸術そのものを新しい時代へと飛躍させました。
事物というものは着実な積み重ねと前進だけで壁を突破するのではなく、時にこのような劇的な飛躍によって新しい局面が切り開かれるものだという事を改めて確認させてくれます。
その事を思えば、エロイカこそが交響曲というジャンルにおける最高の作品であり、それどころか、クラシック音楽という芸術分野における最高の作品であることを確信しています。それも、「One of the Best」ではなく、「The Best」であると確信しています。
白紙のノートに描いた音楽
精緻さへの執念
フリッチャイと言えば白血病を境として芸風が大きく変わったと指摘されます。しかし、彼が残した録音、そう50年に満たない人生だったにもかかわらず実に多く残された彼の録音を辿ってみれば、その変化は表面的なものであり、本質的な部分においてはそれほど大きく変化していないのではないかと思うようになってきました。
例えば、ベートーベンの録音を辿ってみると以下のようになります。
- ベートーベン:交響曲第1番 ハ長調 作品21・・・ベルリンフィル 1953年1月9日~10日録音
- ベートーベン:交響曲第8番 ヘ長調 作品93・・・ベルリンフィル 1953年10月8日~13日録音
- ベートーベン:交響曲第3番 変ホ長調 作品55「英雄」 1958年10月6日~13日録音
- ベートーベン: 交響曲第9番 ニ短調 作品125 「合唱」・・・ベルリンフィル他 1957年12月28日~1958年1月2日録音
- ベートーベン: 交響曲第7番 イ長調 作品92・・・ベルリンフィル 1960年10月3日~5日録音
- ベートーベン: 交響曲第5番 ハ短調 作品67 「運命」・・・ベルリンフィル 1961年9月25日~26日録音
これを線引きしてみれば、白血病以前の録音は1953年の第1番と8番の交響曲です。そして、60年代以降の7番と5番が明確に白血病以後の録音となります。
微妙なのは1958年に録音された二つの交響曲です。
フリッチャイはこの年の秋以降に体調の不良を感じるようになり、この年の11月20日に手術を行い、さらに翌年の1月6日に再手術を行っています。つまりは、この二つの交響曲はその様な手術が必要となるような体調不良の中で行われたわけです。
特に、再手術の後は「死線をさまようような絶望的な状態」に陥ったのですから、その4日前までベートーベンの第9の録音を行っていたというのは驚き以外の何ものでもありません。
53年に行われた二つの録音からは、キャリアの階段を駆け上っていく若きフリッチャイの意気軒昂たる姿が垣間見られます。
彼はこの年の11月にアメリカデビューを果たし、翌54年にはヒューストン交響楽団の常任指揮者になる 契約が交わされています。しかしこの契約はフリッチャイが楽団の理事会に突きつけた以下のような要求によって、わずか3ヶ月で終了してしまいます。
その要求というのは、伝えられているところに夜と以下の8項目らしいです。
- 今の演奏会場は使い物にならないので、新しいオーケストラ専用ホールを即時建設すること。
- 楽員総数を現在の85名から95名に増やし、その約4分の1を入れ替える。
- 現在の24週のシーズンを28週にのばし、リハーサルの回数も増やす。
- 弦楽器を全て買いかえる。
- オペラの上演にふみきる。
- 契約4年度にヨーロッパ演奏旅行を行う。
- 契約5年度に全米演奏旅行を行う。
- 音楽監督の年棒を5万ドルから8万ドルの間に設定する。
同郷の先輩であるセルやライナーに肩を並べようと思ったのかどうかは分かりませんが、ここからは己に対する絶対的な自信がうかがえます。つまりは、フリッチャイという指揮者は自分にはこれだけの値打ちがあるんだという自信の表明です。
そして、楽団の理事会はこの要求に対して「われわれテキサス人はアメリカ国内ではおおぼら吹きの人種として知られているが、さすがおおぼらで有名なハンガリー人は桁外れですな。」と言って契約を終了したのですが、残されたフリッチャイの若き日の録音を聞く限りでは、大ボラ吹きと言われるほどには不当ではないことが分かります。
大切なことは、この若い時代の録音からも、60年代以降の録音で指摘したような精緻さへの執念が貫かれていることです。
違うのは、そこに弾むようなリズム感に裏打ちされた強烈な推進力が内包されていることです。
そして注意が必要なのは、パッと聞く限りではその様な勢いに耳を奪われるのですが、彼が本質的に重視しているのは作品を構成している細部の綾を克明に描き出すことだと言うことです。そして、私のようなセルやライナーの演奏に心惹かれるタイプのものにとっては、もしかしたらこちらの方を高く評価してしまう部分があることも否定できないのです。
60年代以降の録音を聞いていると明らかにテンポが遅くなりますからその様な若さに溢れた推進力は全く影を潜めます。しかし、その遅さが精緻さへの執念をはっきりと聞き手の耳も届けてくれます。
しかし、そのテンポの遅さは時として、前に進むことを拒否しているように聞こえるときがあります。
それは、もしかしらファウストの「時よ止まれ お前は美しい」に似たものすら感じ取れる「遅さ」です。
おそらく、彼は己の人生に残された時間はそれほど多くないことは覚悟していたでしょう。ならば、今、自分の前を流れ去っていこうとする音楽の美しさを、その細部の細部に至るまで見届けたかったことでしょう。それ故に、その音楽は「時よ止まれ」と言いたくなるほどの美しさを身にまとうことになりました。
しかし、その美しさはあまりにも痛ましいのです。
芸には上りと下りがあります。
多くの芸術家はその山を長い時間をかけて上り、そして長い時間をかけて下っていきます。
しかし、フリッチャイは白血病という病によって、あまりにも短い時間で頂へ登り詰め、そしてさらに短い時間で下っていきました。人はその見事な下りに涙するのですが、そして、その事は否定はしないのですが、己を信じて頂への急坂を一気に駆け上っていった上りの時代の彼にも心を寄せてみたいと思います。
ただ残念なのは、この上りと下りが交錯する病の時期の音楽には、戸惑いが見られる事です。
とりわけ、エロイカの演奏は立派であることは否定しないのですが、53年に聞くことが出来た弾むような推進力は影を潜めていますし、この後の時を止めたくなるような佇まいにもいたっていません。
しかし、それ故に、病を前に戸惑っているフリッチャイの姿が垣間見られるような気がしてして、その立派さの中に痛ましさを感じてしまう私がいます。
よせられたコメント
2015-12-27:セル好き
- 一音一音かみしめるような演奏だか、音の出方や持続が自然なためか清々しい印象を残します。特に楽章の終わり方に神経が行き届き、2楽章などは鳥肌ものです。
「ある英雄の思いで」というテーマにもピッタリな解釈となっていて、ベルリンフィルの面々も持ち前の力強い美音が発揮でき、共感を持った演奏となっている様に感じられる。
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