ベートーベン:交響曲第9番 ニ短調 作品125 「合唱」
ブルーノ・ワルター指揮 コロンビア交響楽団 1クンダリ(S)ランキン(A)デ・コスタ(T)ウィルダーマン(B)ウエストミンスターcho (1?3楽章)1959年1月19,21,26,29&30日録音 (4楽章)1959年4月6日&15日録音
Beethoven:交響曲第9番 ニ短調 作品125 「合唱」 「第1楽章」
Beethoven:交響曲第9番 ニ短調 作品125 「合唱」 「第2楽章」
Beethoven:交響曲第9番 ニ短調 作品125 「合唱」 「第3楽章」
Beethoven:交響曲第9番 ニ短調 作品125 「合唱」 「第4楽章」
何かと問題の多い作品です。
ベートーベンの第9と言えば、世間的にはベートーベンの最高傑作とされ、同時にクラシック音楽の最高峰と目されています。そのために、日頃はあまりクラシック音楽には興味のないような方でも、年の暮れになると合唱団に参加している友人から誘われたりして、コンサートなどに出かけたりします。
しかし、その実態はベートーベンの最高傑作からはほど遠い作品であるどころか、9曲ある交響曲の中でも一番問題の多い作品なのです。さらに悪いことに、その問題点はこの作品の「命」とも言うべき第4楽章に集中しています。
そして、その様な問題を生み出して原因は、この作品の創作過程にあります。
この第9番の交響曲はイギリスのフィルハーモニア協会からの依頼を受けて創作されました。しかし、作品の構想はそれよりも前から暖められていたことが残されたスケッチ帳などから明らかになっています。
当初、ベートーベンは二つの交響曲を予定していました。
一つは、純器楽による今までの延長線上に位置する作品であり、もう一つは合唱を加えるというまったく斬新なアイデアに基づく作品でした。後者はベート?ベンの中では「ドイツ交響曲」と命名されており、シラーの「歓喜によせる」に基づいたドイツの民族意識を高揚させるような作品として計画されていました。
ところが、何があったのかは不明ですが、ベートーベンはまったく異なる構想のもとにスケッチをすすめていた二つの作品を、何故か突然に、一つの作品としてドッキングさせてフィルハーモニア協会に提出したのです。
そして出来上がった作品が「第九」です
交響曲のような作品形式においては、論理的な一貫性は必要不可欠の要素であり、異質なものを接ぎ木のようにくっつけたのでは座り心地の悪さが生まれるのは当然です。もちろん、そんなことはベートーベン自身が百も承知のことなのですが、何故かその様な座り心地の悪さを無視してでも、強引に一つの作品にしてしまったのです。
年末の第九のコンサートに行くと、友人に誘われてきたような人たちは音楽は始めると眠り込んでしまう光景をよく目にします。そして、いよいよ本番の(?)第4楽章が始まるとムクリと起きあがってきます。
でも、それは決して不自然なことではないのかもしれません。
ある意味で接ぎ木のようなこの作品においては、前半の三楽章を眠り込んでいたとしても、最終楽章を鑑賞するにはそれほどの不自由さも不自然さもないからです。
極端な話前半の三楽章はカットして、一種のカンタータのように独立した作品として第四楽章だけ演奏してもそれほどの不自然さは感じません。そして、「逆もまた真」であって、第3楽章まで演奏してコンサートを終了したとしても、?聴衆からは大ブーイングでしょうが・・・?これもまた、音楽的にはそれほど不自然さを感じません。
ですから、一時ユング君はこのようなコンサートを想像したことがあります。
それは、第3楽章と第4楽章の間に休憩を入れるのです。
前半に興味のない人は、それまではロビーでゆっくりとくつろいでから休憩時間に入場すればいいし、合唱を聴きたくない人は家路を急げばいいし、とにかくベートーベンに敬意を表して全曲を聴こうという人は通して聞けばいいと言うわけです。
これが決して暴論とは言いきれないところに(言い切れるという人もいるでしょうが・・・^^;)、この作品の持つ問題点が浮き彫りになっています。
心優しき男の笑顔
心優しき男の笑顔
ワルターによるコロンビア交響楽団とのベートーベン交響曲全集は以下のような順番で行われています。一見すると、無味乾燥なだけの録音データも、こうして並べてみると色々なことがうかがえてきて面白いですね。
交響曲第8番 ヘ長調 作品93 1958年1月8、10,13&2月12日録音
交響曲第6番 ヘ長調 作品68 「田園」 1958年1月13,15,17日録音
交響曲第3番 変ホ長調 「エロイカ(英雄)」 作品55 1958年1月20,23、25日録音
交響曲第5番 ハ短調 作品67 「運命」 1958年1月27日&30日録音
交響曲第7番 イ長調 作品92 1958年2月1,3&12日録音
交響曲第4番 変ロ長調 作品60 1958年2月8日&10日録音
交響曲第1番 ハ長調 作品21 1959年1月5,6,8&9日録音
交響曲第2番 ニ長調 作品36 1959年1月5日&9日録音
交響曲第9番 ニ短調 作品125 「合唱」 1959年1月19,21,26,29&30日録音 (4楽章)1959年4月6日&15日録音
よく知られている話ですが、引退を表明していたワルターを録音現場に呼び戻すためにレコード会社は破格の条件を提示したといわれています。
その「破格の条件」はギャラだけでなく、録音の進め方に関しても色々な優遇措置があったようです。その中で最もよく知られているのが「一日のセッションは3時間以内」という条件です。
オケのメンバーと録音スタジオをおさえた上で、実際に稼働するのは3時間だけというのですから、いくら老齢のワルターの健康状態を慮ったとしても考えられないほどの優遇措置です。
そして、そういう優遇措置を知った上で上記の録音データを眺めてみると、この一連のセッションが実にゆったりとしたペースで進められたことがよく分かります。
録音は基本的に一日か二日の間隔を開けて行われていますし、その録音も一日に3時間を超えないのです。その「ゆったり度」は信じがたいほどです。
そして、面白いのは、第8番と第7番だけが、この年のベートーベン録音の最後になった第4番の録音が終わった後の2月12日にもう一度だけ録音されていることです。おそらくは、どうしても手直ししておきたい箇所があったための再録音なのでしょう。
何とも、のんびりした話です。
それから、このコンプリートの最後を飾る第9番は最初の3楽章の録音と最終楽章の録音がかなり日程が開いています。不思議だなと思って調べてみると、どうやらこの最終楽章はクレジットは「コロンビア交響楽団」となっているものの、ぞの実体はニューヨークフィルだったことが関係しているようなのです。
おそらくは、ワルターの強い要望で、「この楽章だけはニューヨークフィルを使いたい!」ということになったのでしょう。ただし、突然そんなことを言われてもオケにはオケのスケジュールがあります。結果として、ニューヨークフィルの都合がつくまでに3ヶ月ほど開いてしまった・・・という話らしいのです。
何とも、贅沢な話です。
しかしながら、そう言う「ゆったり感」と相反するのが、全体の録音の進捗ペースです。
ワルターは一つの録音が仕上がるとほとんど日をおかずして、ほいほい・・・という感じで次の録音へと移っています。そのペースは一つの録音を仕上げていたときと全く同ペースであり、何の躊躇いもなく次の作品の録音へと移行しています。
率直に言って、安直と言えばこれほど安直な録音の進め方はありません。
しかし、そう言う安直さの原因は、この一連の録音を聞いてみればその理由はすぐに了解できます。
この録音におけるワルターは、明らかに、今まで自分が演奏してきたベートーベンの交響曲を、もう一度恵まれた環境の中で、そしておそらくは自分の楽しみということも否定しない心構えのもとで演奏しています。結果として、言葉の正確性が欠けるかもしれませんが、ワルターの持っている「モーツァルト的本能」が「素」のままに発揮された音楽になっています。音楽は基本的に気持ちよく、そして実に大らかに横へ横へと流れていきます。
その大らかさが、作品によってはあまりにも緩いと思わざるを得ないことも事実です。
しかしながら、それがツボにはまるような音楽だと、他では聞けないような魅力にふれることができるのも事実です。
その一番良い例が、おそらくは第2番の第2楽章でしょう。この音楽をこんな風に歌わせる事ができる指揮者は悲しいかな、今や絶滅してしまいました。
同じように、第9の「Adagio molto e cantabile」、4番の「Adagio 」そして、「田園」!!のように、ベートーベンの「歌」が前面に出た部分ではワルター以外では聞くことのできない世界が堪能できます。
しかしながら、これは私の偏見かもしれませんが、音楽を煉瓦を積み上げるように構築するのと、聞き心地がいいように横へと流していくのでは、おそらく手間がかかるのは前者の方でしょう。前者のやり方で聞き手を納得させるには、それこそ見事な建築物を作り上げないといけません。
そして、そのような立派な構築物を仕上げようとすれば、地味でしんどい作業が連続します。そして、そう言うしんどい仕事を積み上げていったとしても、途中でヘボがいれば一瞬にして建物が崩壊することだってあります。
そう言う意味では、指揮者にとってもオケにとっても骨の折れる仕事です。
そして、ヨーロッパからアメリカに亡命したワルターも、そう言う骨の折れる仕事を通してアメリカでも巨匠と呼ばれるようになったのです。
しかしながら、このコロンビア響との仕事では、そう言う骨の折れるしんどい仕事は一切していないようです。
話は少しばかり横道にそれますが、そう言う骨の折れる仕事を最後の最後までやり遂げた男がクレンペラーでした。こういうワルターの緩めの演奏を聴かされると、あらためてクレンペラーという男は異形の天才であったことを思いしらされます。
と言うことで、トータルとして見れば、ベートーベンの交響曲を聞きたいと思ったときに、おそらくはファーストチョイスにはならいでしょうし、もしかしたらセカンドチョイスにもならないかもしれません。
そのことは否定しません。
しかし、色々なベートーベンの録音を聞きあさった後にここに帰ってくれば、戦争の世紀であった20世紀を必死の思いで生き抜いた心優しき男の笑顔にふれることができて、しばし心癒され、そしてほんのちょっぴりの勇気をもらえるような音楽あることも事実です。
やはり今もって、忘れ去ってしまうにはあまりにも惜しいと言わざるを得ない録音です。
よせられたコメント 2013-06-03:palmandnuts いつも楽しみに聞かせていただいています。本当にありがとうございます。ワルターの「第9」の3楽章の美しさは疲れた時にそこだけ取り出して聴くほどの愛聴盤でした。ユングさんの炯眼に同意しつつ、ちょとだけ言わせてもらえば世評で言うほどこの演奏はなよなよしていないです。1楽章とか2楽章も構えの大きな、きわめて良い演奏だと考えます。
4楽章でも管弦楽の部分での低弦のしなやかさとその歌わせ方が、生涯を通じてリハーサルで「歌って!」と丁寧に、それでも叫び続けたワルターの芸術の到達点を示しているようです。評価のきわめて別れる同楽章後半ですが、合唱の入る部分でのテンポのとりかたと合唱・ソリストに対する指示がやはり他の演奏とは異なっていると感じます。テンポはクラッチを切り替えるように遅くなり、オーケストラはフォルテであっても人の声を常に優先させるように響きます。その結果、この時代の録音にも関わらす、すべての声部のすべての歌詞が明瞭に聴き取れます(こういう録音は不勉強のせいもあるのですが他に知らない)。これがワルターのしたかったことなのではないかと勝手に考えています。
1949年の旧録音の歌手や合唱はひどかったのでその反動かもしれません。あちらではテノールさん、定冠詞をぽろぽろ間違えたり明らかに発音に自信が持てずに鼻歌モードになるところもちらほら、なので「コトバがっつり」、が願いになのはありうることではないかと。そういう立場から聞くとこれまたワルターが「到達点でやりつくした」感にあふれる、アソビまで感じられる無二の演奏ではないかと思います。 2013-06-10:オールドファン ワルターの「第九」独特な情緒がありますね。S社に「第四楽章はニューヨークフィルですか?」と質問したら「いいえ。多くのプレーヤーが参加しましたがコロンビア響です」と回答がありました。本当でしょうか?皆さんこの回答どう思われますか?個人的なことでいつも思うのですが、「第九」は声楽が入るため純器楽的な自由な聴き方がちょっとできず聴くのを避けてきたように思います。しかしワルターは一般に言われるより、近代的でメリハリのある表現をとることが多いと思います。晩年とはいえステレオ録音を残してくれたことに感謝します。
<ユング君の追記>
「BRUNO WALTER HOMEPAGE」
http://www1.s2.starcat.ne.jp/danno/walter2.htm
のデータを信用しました。
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