ショーソン:交響曲 変ロ長調 作品20
ポール・パレー指揮 デトロイト交響楽団 1956年3月23日録音
Chausson:Symphony in B-flat major, Op.20 [1.Lent - Allegro vivo]
Chausson:Symphony in B-flat major, Op.20 [2.Tres lent]
Chausson:Symphony in B-flat major, Op.20 [3.Anime]
上品な叙情性に溢れた音楽
「フランキスト」なる言葉があります。作曲家フランクの弟子や影響を受けた音楽家のことをそのように呼ぶようです。
そして、その「フランキスト」の中で最も重要な存在がエルネスト・ショーソンです。
師であるフランクが、その晩年に狙いすましたように各ジャンルで1曲ずつきわめて完成度の高い作品をリリースしたように、ショーソンもまた寡作な作曲家でした。
ショーソンと言えばまず思い浮かぶのが「詩曲」なのですが、それ以外の作品となると大部分が「歌曲」ですから、フランスでも基本的に「歌の人」と評価されているようです。彼のトレードマークである「詩曲」のように管弦楽を使った作品は非常に少なくて、管弦楽伴奏の歌曲集を含めても5曲にも満たないはずです。
そんなショーソンが、1989年から1890年にかけて「交響曲」を生み出しました。彼の創作活動をを概観してみれば、これは実に持って画期的なことだと言えます。
その背景には、サン=サーンスの「交響曲第3番ハ短調(オルガン付き)」やフランクの「交響曲ニ短調」が生み出され、さらには同じフランキスト仲間であるダンディも「フランス山人の歌による交響曲」を発表するという、フランスにおける交響曲の高揚という流れがあったようです。
師であるフランクの交響曲と同様に3楽章構成であり、さらにはフランクのトレードマークともいうべき「循環形式」が採用されています。ただし、その循環形式は冒頭の導入部が最後のエンディングで思い出のように繰り返される程度ですから、かなり控えめな使われ方ではあります。また、第1楽章のトランペットが演奏する印象的なメロディも最終楽章でよみがえるのですが、どちらにしても師の交響曲と較べれば控えめであることは間違いありません。
そして、ショーソンも交響曲でもっとも印象的なのはそう言う場面ではなくて、中間部の第2楽章の叙情性です。
ショーソンの叙情は「詩曲」でもそうだったように、甘さゼロのキリッとした上品さが持ち味なのですが、ここではさらに磨きのかかった上品さによって貫かれています。
なお、この作品は1891年にショーソン自身の指揮で行われてまずまずの成功をおさめるのですが、評価が決定的になったのはニキッシュが1897年にベルリンフィルで取り上げて大成功を収めたことによります。しかし、最近はあまり光の当たることの少ない作品になっているのですが、実際に聞いてみれば十分すぎるほどに魅力的な音楽であることはすぐに気づくはずです。
もう少し取り上げられてもいい交響曲です。
スタンダードにはなれない偉大さ
ポール・パレーの生年は1886年で、没年は1979年ですから、その生涯はストコフスキー(1882年~1977年)、クレンペラー(1885年~1973年)、ボールト(1889年~1983年)達とほぼ重なります。
しかし、彼らと較べてみるとパレーという名前は随分古い時代の人のような気がします。
その最大の理由は、パレーの録音のキャリアが1952年から1963年までのデトロイト時代に集中していて、そこを退いてからは悠々自適の客演活動が中心で、録音活動をほとんど行っていなかったからです。
極東の島国に住まうものにとって、西洋の指揮者の活動等というものは録音を通してのみ垣間見るだけですから、録音活動が途絶えてしまえば「死んだ」も同然です。結果として、彼は60年代の初めに「死んだ」も同然と言うことで、私などは感覚的にはライナー(1888年~1963年)なんかと同じようなとらえ方をしていました。
ただし、ライナーとパレーは生年はほぼ一緒ですから、ライナーの75歳というのは指揮者稼業の中では「早死に」に分類されるのです。
さらに言えばパレーと同じ年のフルトヴェングラー(1886年~1954年)なんてのは、この稼業としては残念無念と言わざるを得ないほどの「早死に」だったわけです。言葉をかえれば、彼は「下り」の時代の芸を残さなかったともいえます。
そして、こういうビッグ・ネームの中にパレーの名前を置いてみると、彼の芸風のオリジナリティが浮かび上がってきます。
言うまでもないことですが、彼に最も近しいのはライナーですが、よく聞いてみると、何か本質的な部分で少し違うような気がします。その「違う」部分こそがパレーのオリジナリティです。
逆に、最も遠くにいるのはフルトヴェングラーです。
ところが、この二人には思わぬところで共通点が存在します。
パレーという人は基本的には「作曲家」でした。
フルトヴェングラーもまた「作曲家」でした。
そして、作曲家としての立ち位置がともに20世紀においては時代遅れ(^^;と言われるようなスタイルであったことが共通しています。
にもかかわらず、指揮者としては真逆と言っていいほどにスタンスが異なるというのは面白い話です。
ただ、21世紀に入って、今さらフルトヴェングラーの作品を録音しようという人はほとんどいないのに対して、パレーの作品は時々録音されているようです。さらには、聞くところによると、彼の作品に惚れ込んでレーベルまで起ち上げて録音する人もいるようです。
もちろん、そんな事で両者の優劣などは論じられるはずもないのですが、それでも、作曲家としてはパレーの方がより本職に近かったことは間違いないようです。
プロの作曲家であれば、言いたいこと、表現したいことは全て楽譜に詰め込んだという思いがあるはずです。
ですから、かなり思い切った言い方をしてしまえば、作曲家が指揮者(演奏家)に求めるものは、その楽譜を大切にして、それを「いかに」表現するかに力を傾注してくれることです。
間違っても、その楽譜を深読みして、そこに「何が」表現されているかを詮索し、その詮索をもとにしてもう一度「今まさに作品が生まれたか」かのように演奏するなどというのはお節介以外の何ものでもないはずです。
ですから、指揮者パレーは、そう言う作曲家パレーの願いに対して常に忠実でした。それを世の人は「ザッハリヒカイト」というイデオロギーで一括りにするのですが、パレーの演奏を聴いていると、そんな「イデオロギー」で括れるようなものではなく、そう言う作曲家の切なる願いから発した演奏だったような気がします。
確かに「楽譜」というものは不完全なもので、作曲家の思いを完璧に盛り込むにはあまりにもアバウトな存在です。しかし、そうであっても、作曲家として可能な限り「音符」という形で己の思いを書き込んだ以上は、演奏する側がそこに何かを忖度して「余分な何か」を付け足すというのは余計なお世話だったはずです。
そして、指揮者パレーが他の作曲家の作品を演奏するときも、その方法論に忠実であったと言うことです。
それと比べれば、フルトヴェングラーという人は、どんな楽譜を前にしても、それを「いかに」表現すべきかを考える前に、そこに「何が」表現されているのかを考えなければ気が済まない人でした。
そう言う意味では、作曲家としてのフルトヴェングラーはどこかプロになりきれない甘さがあったのかもしれません。
ただし、古今東西、どうしたわけか作曲家が自作を指揮すると「面白くない」というのが通り相場です。それは、リヒャルト・シュトラウスやストラヴィンスキーの録音を聞き直してみれば誰もが納得するはずです。
ただ、面白いのは、彼らは何時、何処で演奏しても全くぶれることなく同じような演奏になっていました。
それは、いつも「何が」表現されているかを考え続け、その「何か」を表現するために毎回音楽の形が変わり続けたフルトヴェングラーのスタイルとは正反対です。
時は流れて、今やフルトヴェングラーのように、表現すべき「何か」をいつも考え続けるような指揮者はほぼ絶滅してしまいました。
そして、原典尊重を錦の御旗に、楽譜を「いかに」表現するかに力を尽くす指揮者がこの世界を支配してしまいました。
しかし、そう言う原典尊重の演奏とパレーの演奏を較べてみると、先に述べたように、それもまたどこか違うような気がするのです。
一言で言えば、作曲家の手になる演奏というのは驚くほどに愛想がなさ過ぎるのです。
それと比べれば、プロの指揮者による演奏は原典尊重と言いながら聞き手に対するサービス精神が溢れているのです。つまりは、口では原典尊重と言いながらも、どこか「受けたい」という助平根性が見え隠れし、聞かせどころと「思う」ところがくれば「響きを磨いたり」、「必要以上に盛りあげたり」してサービスしてしまうのです。
作曲家というのは、どんなにかわいい自作であっても、その手のサービス精神は希薄を通り越して皆無と言っていいほどまでに無愛想です。
そして、指揮者としてのパレーの演奏を聴いてみると、作曲家の手になる演奏のように、そう言う助平根性みたいなものが驚くほどに希薄なのです。
とりわけ、Wilma Cozartによるワンポイント録音ですくい取られたがゆえに、その突っ張り方がひときわ鮮やかに浮かび上がってきます。
彼は常に、「余計なことはするな!」という作曲家の願いに驚くほどに忠実なように聞こえるのです。
しかし、その突っ切ったスタンスによって、フルトヴェングラー的なものとは真逆の位置で、怖ろしいまでのパワーに満ちた音楽が存在出来ることを証明して見せました。
フルトヴェングラーの演奏は偉大であるがゆえにスタンダードには不似合いでした。
同じように、パレーの演奏もまたスタンダードにはなれない偉大さが満ちています。
<ショーソン:交響曲 変ロ長調 作品20>
ともすれば、どこかとりとめのない雰囲気になってしまいがちなこの作品をしっかりとした統一感でまとめながら、随所に配置された美しい旋律ラインもくっきりと描き出しています。
これは、考えてみれば不思議な話です。
パレーという人は、私が聞いた範囲では、独襖系の作曲家の作品では強めのアクセントと快速テンポで「異形」と言わざるを得ない造形に徹します。しかし、何故かこれまた私が聞いた範囲では、フランスの作曲家の作品となるとその様なエキセントリックなアプローチが緩和されるように聞こえるのです。
もっとも、フランクの交響曲などはその例外といえるのですが、あの作品は基本的にはフランス的と言うよりは明らかにドイツ系の音楽です。また、シベリウスの音楽は北欧の音楽に分類されるのですが、あれもまた基本的な出自は独襖系です。
ですから、その切り分けの根拠は作曲家の国籍などという便宜的なものではなくて、あくまでも音楽そのものの「形」なのでしょう。
それにしても、音楽を締めくくる幕切れの美しさは出色です。
正直言って、ショーソンの交響曲って、こんなにも美しく幕が下りる音楽だったっけ?と思わされたほどです。ネット上ではこの録音をパレーにしては「緩い」と評している向きもあるのですが、それはパレーという人をあまりにも一面化しすぎた評価だと言わざるを得ません。
これもまた、パレーの顔なのです。
よせられたコメント
2021-06-28:コタロー
- ショーソンの交響曲はモントゥーがサンフランシスコ響を指揮した演奏を初めて聴いたのですが、モノラル録音のせいか、さほど感銘を受けませんでした。その点、パレーの演奏は、音楽の持つ躍動感だけではなく、叙情性をも上手く表現しているような感じがします。
大阪出身の音楽評論家である出谷啓氏がこの演奏を「花園のなかにいるよう」と評したのは、卓見だと私は思います(この演奏のオリジナルジャケットはとても美しいそうですね)。そういえば、ポール・パレーという指揮者の名前を聞いたのも、出谷氏の文章が最初でした。
そして、パレーの演奏に幅広く接することができたのは、ユング様のサイトのおかげです。
偶然にも、大阪出身のお二人がパレーに対して眼を開かせてくださったというのは面白い事実ですね。
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