クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~

ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 (Vn)クリスチャン・フェラス ベルリンフィル 1964年5月録音



Brahms:Violin Concerto in D Op.77 [1st movement]

Brahms:Violin Concerto in D Op.77 [2nd movement]

Brahms:Violin Concerto in D Op.77 [3rd movement]


ヴァイオリンを手にしてぼんやりと立っているほど、私が無趣味だと思うかね?

この言葉の前には「アダージョでオーボエが全曲で唯一の旋律を聴衆に聴かしているときに・・・」というのがくっつきます。
サラサーテの言葉です。(^^)
もっとも、その前にはさらに「ブラームスの協奏曲は素晴らしい音楽であることは認めるよ、しかし・・・」ということで上述の言葉が続きます。

おそらくこの言葉にこの作品の本質がすべて語られていると思います。
協奏曲と言う分野ではベートーベンが大きな金字塔をうち立てましたが、大勢はいわゆる「巨匠風協奏曲」と言われる作品が主流を占めていました。独奏楽器が主役となる聞かせどころの旋律あちこちに用意されていて、さらに名人芸を披露できるパッセージもふんだんに用意されているという作品です。
イタリアの作曲家、ヴィオッティの作品などは代表的なものです。
ただし、彼の22番の協奏曲はブラームスのお気に入りの作品であったそうです。親友であり、優れたヴァイオリニストであったヨアヒムと、一晩に二回も三回も演奏するほどの偏愛ぶりだったそうですから世の中わからんものです。

しかし、それでいながらブラームスが生み出した作品はヴィオッティのような巨匠風協奏曲ではなく、ベートーベンの偉大な金字塔をまっすぐに引き継いだものになっています。
その辺が不思議と言えば不思議ですが、しかし、ブラームスがヴィオッティのような作品を書くとも思えませんから、当然と言えば当然とも言えます。(変な日本語だ・・・^^;)

それから、この作品は数多くのカデンツァが作られていることでも有名です。一番よく使われるのは、創作の初期段階から深く関わり、さらに初演者として作品の普及にも尽力したヨアヒムのものです。
それ以外にも主なものだけでも挙げておくと、

レオポルド・アウアー
アドルフ・ブッシュ
フーゴー・ヘールマン
トール・アウリン
アンリ・マルトー
ヤッシャ・ハイフェッツ
ただし、秘密主義者のヴァイオリニストは自らのカデンツァを出版しなかったためにこれ以外にも数多くのカデンツァが作られたはずです。
この中で、一番テクニックが必要なのは想像がつくと思いますが、ハイフェッツのカデンツァだと言われています。

エンターテイメント性の果てで作品を追求する


「作品」と「演奏」は二択の関係ではなくて、分かちがたく結びついていることは理屈としてはおそらく100%正しくても、現実の中においてみると少なくとも二つの問題は避けて通れないことに気づきます、と書きました。
そして、文章が長くなることを考慮して、取りあえずはそのうちの一つである聞き手の「辛抱」に関わる問題だけにふれました。

今回も引き続き、この問題について考えてみます。
クラシック音楽のコンサートほど「辛抱」を強いられる場はありません。その辛抱にはいろいろあるのですが、その最大の「辛抱」は、演奏がどれほど面白くなくても最後までつきあうことを要求されることです。もちろん、クラシック音楽のコンサートは「強制収容所」ではありませんから、つまらなければ途中で席を立っても罰せられることはありません。
しかし、私の経験した範囲の中では、演奏に対する抗議として途中で退席した人はほとんど見たことがありません。オペラの舞台を除けば、演奏の途中でブーイングや野次が浴びせかけられる場面も見たことがありません。演奏が終わった後に拍手もしないでそそくさと席を立つくらいが精一杯の抵抗です。

この背景にはいろいろな事情が働いているでしょう。
聞き手にすれば、安からぬチケットを購入し、さらには時間の工面もして出かけてきているのですから、そのコンサートが「感動」的なものであってほしいという願望があります。そして、その「願望」をかなえるために、お利口にしてじっと辛抱強く「作品」と向き合うことが必要だという「自己規制」が働きます。そして、そう言う「自己規制」を働かしている人々が聴衆として会場を埋めることで、さらなる強い「同調圧力」がかかります。
そして、そう言う「同調圧力」を背景にして、演奏する側の「ちょっとくらい退屈でも、最後まで辛抱して演奏につきあってくれればそれなりの演奏になるんだよ」という開き直りが許容されます。

結果として、その他のジャンルのコンサートと比べれば、異常に重苦しい雰囲気がクラシック音楽のコンサートを覆います。そして、その雰囲気こそがクラシック音楽を他のジャンルと分かつステイタスだと考えている節もあります。

考えてみれば、これは他の芸術分野と比較してみても、かなり不寛容な態度だと言わざるを得ません。
美術作品ならば前を素通りすることができます。
文学作品ならば本を閉じることができます。
映画は少し似通った部分はありますが、途中で退席することははるかに容易です。そして、何よりも、観客に辛抱を強いるような映画は商業的に成立することが難しいです。
そういう事情は演劇の分野においてもほぼ同様です。

そして、映画や演劇の分野で、観客に「辛抱」を強いることのないようにエンターテイメント性を確保することは、その作品や上演の価値を下げることにはつながりません。事実、観客を飽きさせない工夫をあちこちに施しながら、それでも芸術的に成功している作品や上演は数多く存在します。
ところが、クラシック音楽の世界では、そう言うエンターテイメント性を明らかにした時点で一段低く見てしまう風潮があるのです。
ですから、私が本心からの褒め言葉としてストコフスキーに対して「路上で見かける素人、疲れ切った勤め人を楽しませる」事に音楽家人生を費やしたと書いても、それは彼を貶めることにしかならないと怒る人もいるのです。

確かに、作品の姿を徹底的に追求することで感動的な演奏を実現することは現在の王道です。
しかし、物事は逆もまた真であることが多いのです。

映画や演劇の世界ではエンターテイメントの果てに人間の真実を描き出すような営みは数多く存在します。
クラシック音楽だって、「路上で見かける素人、疲れ切った勤め人を楽しませる」事の果てで作品の姿を追求することはできるのです。

そして、おそらくは、カラヤンという人はベルリンフィルを手中に入れた1960年代の中頃から、「作品の姿を徹底的に追求することで感動的な演奏を実現する」という王道から、「エンターテイメント性の果てで作品を追求する」という新しい道に踏み出したのではないでしょうか。
そして、この道の偉大な先駆者として思い当たるのがストコフスキーだったのです。
この二人の共通点が、新しい録音方法に対して常に興味を持っていたことなのですが、それは彼らの立ち位置を考えれば実に納得のできる話なのです。

そして、こういう言い方をすると、またまたストコフスキー信奉者を怒らせることになるかもしれないのですが、カラヤンはこの道をより高いレベルで実現して見せたのです。
思い切った言い方をすれば、カラヤンは歌舞伎の千両役者でした。そして、彼が存命中はクラシック音楽は歌舞伎の世界だったのですが、彼が亡くなったとたんにクラシック音楽の世界は「能の世界」に戻ってしまいました。

もちろん、能という芸能を否定する気は全くありませんが、その素晴らしさを味わうためにはかなりの辛抱が必要です。そして、観客に辛抱を求めるジャンルはどうしても限られた人だけの世界になります。
カラヤンが亡くなり、その後を追うようにバーンスタインも亡くなって、クラシック音楽の世界は一気に収縮しました。

もちろん、こんな書き方をしたからと言って、観客に辛抱は不要だと言っているわけではありません。
しかし、辛抱だけを求めていては、やがては能のようにごく限られた人だけが受容できる世界になってしまいます。

そう言う文脈でカラヤンをとらえてみれば、改めて彼の凄みが分かってきます。

よせられたコメント

2015-03-27:Joshua


2015-04-03:セル好き


2017-06-27:north fox


2018-04-12:どっぐ


2019-04-23:白玉斎老人


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