ワーグナー:「さまよえるオランダ人」序曲
ジョージ・セル指揮 クリーブランド管弦楽団 1965年12月10,11日録音
Wagner:The Flying Dutchman Overture
ワーグナーの終生のテーマである「女性の愛による救済」の原型
ワーグナーはこれ以前にもいくつかのオペラを作曲していますが、ワーグナーの個性が初めて輝きだしたのはこの「さまよえるオランダ人」からです。そして、ワーグナーの終生のテーマであった「女性の愛による救済」がはっきりと明示されたのはこの作品からです。
「女性の愛による救済」というのは、何らかの理由で苦悩や宿命を背負った男(時には世界)が、女性の自己犠牲的な純愛によって救済されるというモチーフです。ワーグナーがこのモチーフがよほど好きだったようで、その後タンホイザーやトリスタン、リングなどで何度も何度もこのモチーフを持ち出しています。考えようによっては、エゴイストの権化であったワーグナーにはピッタリの好都合なモチーフだったのかもしれません。
この作品は古くからヨーロッパに伝わる「さまよえるオランダ人」の伝説、さらにはハイネによる寓話「フォン・シュナーベレヴォブスキー氏の回想記」をヒントとしていますが、それに加えてワーグナー自身の嵐での航海体験も反映していると言われています。
ここにはその後のワーグナー作品の全てがはっきりと姿を著していますし、逆に古いイタリアオペラの脳天気な響きも至る所に顔だすという不思議な雰囲気が満ちています。そういう意味では過渡期の作品といえるのかもしれませんが、後のワーグナー作品と比べるとコンパクトにまとまっていて話の展開もそれほど複雑ではないので、初めてワーグナーにふれるには取っつきやすい作品といえるかもしれません。
序曲
冒頭のホルンの不気味な響き「オランダ人の動機」が一気に観客を荒れ狂う北の海へと誘います。そして、それが一段落すると木管楽器が穏やかに「救済の動機」を歌い始めます。
この二つの動機は作品全体を通して核となるものなのですが、これを序曲のなかで見事なまでに対比させて物語り全体のテーマを暗示させる技術は実に見事なものです。
濃厚なロマンティシズムが清潔に描かれていく演奏
ふと気がついてみると、セルのワーグナー作品は1954年のモノラル録音しか取り上げていないことに気づきました。
ワーグナーの音楽というのは、なんだかんだ言っても、その価値の少なくない部分が人を仰け反らせるような巨大なオーケストラの響きに依存しています。そして、実演に接するたびに、その巨大さは「オーディオ」という枠の中には到底収まりきらないという「真実」を突きつけられて、私のようなものなどはいささか悲しい思いにさせられるものです。
ですから、「収まりきらない」という事実は認めながらも、それでも、少しでも状態のいい録音で聞くことの値打ちは認めざるを得ません。
録音なんかは少しくらい悪くても、その演奏が凄ければ少しずつ音の悪さなんかは気にならなくなってくる音楽もあります。それに対して、価値の少なくない部分をオケの響きに依拠しているような音楽だと、録音の悪さはかなり厳しいマイナスポイントとならざるを得ません。
こんな事を書くと、なんだかワーグナーを貶めているように聞こえるかもしれませんが、決してそんなわけではなくて、ワーグナーという音楽家はそれまでの誰もが思い浮かべもしなかったオーケストラの響きをうみだしたと言うことです。
そこで、問題となるのは、そのワーグナーの響きをどのように現実の音に変換するのかです。
演奏の歴史を振り返ってみれば、道は二つに分かれるようです。
一つは、大きな響きのうねりとして巨大さをひたすら追求する道です。フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュなどがその典型となるのでしょうが、彼らはその巨大さを実現するための引き替えとして細部のクリアさは犠牲にしています。
二つめは、それとは対照的に、ワーグナーが生み出した希有の響きを克明に描き出そうとする道です。彼らはその精緻さを実現するために、音楽がいささか小ぶりになってしまうことは仕方がないと割り切っているようです。
こういう図式化はあまりにも問題を単純化しすぎるかもしれませんが、それほど本質は外していないと思います。
そして、残念なことに、前者のようなスタイルで巨大なワーグナーを目指す指揮者はほぼ死に絶えてしまったようです。私個人の演奏会体験としては、テンシュテットの最後の(と言っても彼は結局は2回しか来日できませんでしたが)来日公演で聞かせてもらったワーグナーが、その手のワーグナー体験の最後でした。
そして最近は、多くの指揮者はその精緻さに磨きをかけることに全力を投入したいようで、まるで「室内楽」のようなワーグナーを聴かされる事もあって恐れ入るときもあります。
そこで、この62年と65年に録音されたセルのワーグナーです。
セルのワーグナーと言えば、68年に録音された指輪の管弦楽曲集が有名ですが、その底に流れるアプローチはほとんど代わっていません。
当然の事ながら、彼はワーグナー演奏の基本は精緻なオーケストレーションの妙を克明に描き出していくことです。そこには一点の曖昧さもなく、遅いテンポで音楽がもたれることはありません。
しかし、聞いてみれば分かるように、そのテンポ設定は速めではあっても一本調子ではなくて、そして、オケの響きは時にパワフルであり、ワーグナーの世界に内包される濃厚なロマンティシズムは清潔に描き出されています。
「濃厚なロマンティシズムが清潔に描かれる」というのは日本語の表現としてはおかしいのですが、セルの我が気出すワーグナーはそうとしか言いようがないのです。
そして、そこにこそ、セルという音楽家の根っこが世紀末ウィーンにあったという事実を思い出させてくれます。さらに言えば、それこそが「原典尊重」という錦の御旗に隠れて、表現すべきものを何も持たない己を糊塗しようとしている連中との根本的な違いなのです。
<追記>
「1960年前後のCBSの録音はそれほど悪くはないのに、セルの録音だけはどうしようもなく悪い。」等と言われることがよくあります。しかし、これなどを聞けば、何処が「どうしようもなく悪い」のかと首をかしげてしまいます。
本当にネット上の録音評ほど当てにならないもの貼りません。
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