チャイコフスキー:交響曲第2番 ハ短調 作品17「小ロシア」
ジュリーニ指揮 フィルハーモニア管弦楽団1956年9月27~29日録音
Tchaikovsky:Symphony No.2 in C minor , Op.17 "Little Russian" [1.Andante sostenuto - Allegro comodo]
Tchaikovsky:Symphony No.2 in C minor , Op.17 "Little Russian" [2.Andante marciale quasi Moderato]
Tchaikovsky:Symphony No.2 in C minor , Op.17 "Little Russian" [3.Scherzo. Allegro molto vivace]
Tchaikovsky:Symphony No.2 in C minor , Op.17 "Little Russian" [4.Finale. Moderato assai - Allegro vivo]
交響曲を書くという「使命」

チャイコフスキーは交響曲を書くことを求められれていました。
何故ならば、遅れたロシアが音楽の分野でもヨーロッパに追いつくためには、ロシアの音楽家がクラシック音楽の王道である交響曲の分野において、ヨーロッパの音楽家が書いた交響曲に劣らないような「交響曲」を書くことが求められていたからです。
もちろん、チャイコフスキーに先んじて交響曲を書いたロシアの音楽家は存在しました。たとえば、チャイコフスキーの師であったアントン・ルビンシテインは既に3曲の交響曲を書き上げていました。
しかし、それらの交響曲は既存のスタイルをなぞっただけの亜流の音楽の域を出ることはなく(聞いたことがないので無責任な受け売りです^^;)、未だ助走にしか過ぎませんでした。
ですから、ルビンシテインが初代の院長となって創設されたペルブルグ音楽院の目的は遅れたロシアが音楽の面でもヨーロッパの水準にまで引き上げることでした。
そして、その音楽院の第1期生として最優秀の成績で卒業したのがチャイコフスキーだったのです。
ロシアの音楽界は、この若き天才にロシアが超えなければいけない課題を託したのです。
ですから、彼は1865年に音楽院を卒業すると、すぐに交響曲の作曲に取りかかります。そして、その翌年の1866年に第1番の交響曲「冬の日の幻想」を完成させます。
おそらく、今でもコンサートで取り上げられる事がある「ロシア初の交響曲」としてはこれが間違いなく第1番です。
しかし、この交響曲を示された師のルビンシテインは全く気に入らなかったようです。理由は単純です。ヨーロッパの交響曲が持っている強固な形式感が希薄だと感じたのです。
確かにこの交響曲は、明らかに交響詩的な性格を色濃く持っています。
ここにあるのは主題を構成する動機をもとに音楽を論理的にくみ上げていくのではなく、彼が愛したロシアの大地のイメージを次々と提示していくような音楽だったからです。いや、提示していくのではなくて、まるで聞き手がロシアの大地を逍遙していくかのような雰囲気の音楽なのです。
ルビンシテインにしてみれば、オレが期待したのはこんな音楽じゃない!と言いたかったのでしょうね。
しかし、そんな師の不興にかかわらず、これを評価して初演を実現してくれた人がいました。
それが、1866年に開校されたモスクワ音楽院の初代院長、ニコライ・ルビンシテインでした。
アントン・ルビンシテインの弟であり、偉大なピアニストとして名を残した人です。(ただし、チャイコフスキーのピアノ協奏曲を演奏不可としてはねつけたことでも有名です)
なお、この作品は何度か改訂され、現在はかなり整理整頓されて短くなった1874年版(第3稿)が決定版として採用されています。
交響曲第1番 ト短調 作品13 「冬の日の幻想」
- 第1楽章:「冬の旅の幻想」Allegro tranquillo - Poco piu animato
- 第2楽章:「陰気な土地、霧の土地」Adagio cantabile ma non tanto - Pochissimo piu mosso
- 第3楽章:Scherzo. Allegro scherzando giocoso
- 第4楽章:Finale. Andante lugubre - Allegro moderato - Allegro maestoso - Allegro vivo - Piu animato
至る所にロシアの民謡の旋律が使われていて、さらに最終楽章では革命的な学生運動の中で歌われた「花が咲いた」のメロディが使われています。
こういうあたりが師の不興を買った原因のようです。
交響曲第2番 ハ短調 作品17「小ロシア」
- 第1楽章:Andante sostenuto - Allegro vivo - Molt meno mosso
- 第2楽章:Andantino marziale,quasi moderato
- 第3楽章:Scherzo.Allegro molt vivace - L'istesso tempo
- 第4楽章:Finale.Moderato assai - Allegro vivo - Presto
この作品は1872ンの7月に着手し10月には完成し、さらに翌年の1月には初演がされています。
第1楽章と終楽章でウクライナなの民謡が用いられているので「ウクライナ」もしくは「小ロシア」と呼ばれるようになった作品ですが、それはチャイコフスキー自身が与えた標題ではありません。
ただし、この作品も後に大幅に手を加えられ、1879年の第2稿が決定版となっています。
1879年と言えばすでに彼の個性がはっきりと刻印されるようになった第4番の交響曲が書き上げられた翌年です。そして、その改訂は部分的な手直しというよりは「改作」に近いものだったので、番号は2番と若くても内容的にはかなり充実したものになっています。チャイコフスキーの初期シンフォニー3曲の中ではもっとも演奏機会の多い作品だと言えます。
交響曲第3番 ニ長調 作品29「ポーランド」
- 第1楽章:ntroduzione e Allegro: Moderato assai (Tempo di marcia funebre) - Allegro Billante
- 第2楽章:Alla tedesca: Allegro moderato e semplice
- 第3楽章:Andante elegiaco
- 第4楽章:Scherzo: Allegro vivo
- 第5楽章:Finale: Allegro con fuoco (Tempo di polacca)
最初の二つの交響曲では国民楽派的な音楽作りをしていたのですが、そこからの脱却を目指したのがこの第3番の交響曲でした。しかし、「思いはあっても力は及ばず」という事は否定できず、結果として非常に中途半端な作品になってしまいました。
口の悪い人に言わせれば、楽章が5つもある上に、その楽章どうしに何の統一感もなく、雑多な組曲のようだと言われたようです。
ただし、チャイコフスキー自身はこの新しい一歩の踏み出しに自信があったようで、その思わぬ不評には心底がっかりしたようです。そして、その落胆の大きさ故に、最初の2曲のような改訂作業も行われずに放置されてしまいました。
結果として、チャイコフスキーの初期シンフォニー3曲の中ではもっとも演奏機会の最も少ない作品になってしまいまいました。
なお、「ポーランド」という標題は大終楽章でポロネーズのリズムが用いられているために謂われ始めたようなのですが、これもまた言うまでもなくチャイコフスキーのあずかり知らぬ事です。
フィルハーモニア時代にジュリーニが求めたもの
ブラームスの1番では、そのあまりの遅いテンポに腰が砕けそうになったのですが、どうやらあれは特別だったようで、その後ジュリーニのフィルハーモニア時代の録音をまとめて聞いてみると、あんな「変態的な(失礼^^;)」テンポは他では見あたりませんでした。
全体としてはじっくりと腰を下ろしたと言えるくらいのテンポで、実に堂々とした、そして見通しのよい、よく歌う音楽というのがファースト・インプレッションです。
そして、そんな言い方をすると、なるほどジュリーニはイタリア人の指揮者だからね・・・でけりがついてしまうのですが、しかし、詳しく彼の経歴を見てみると、確かにイタリア人ではあるのですが、少年時代を過ごしたのはドイツ語圏に属する北イタリアなのです。結果として、彼は母国語であるイタリア語だけでなく、ネイティブなドイツ語を完璧に話すことが出来た人でもあったのです。
言葉がその人の有り様に大きな作用を及ぼすことは言うまでもありません。
私たちが日本語を母国語とする限り、論理においても感性においても日本的なものから逃れることは出来ません。同じように、ドイツ語が母国語であるイタリア人という立ち位置は、ジュリーニの全てに大きな影響を及ぼしたはずです。
例えば、彼の演奏を聴くと、その中に何か分裂症的な化け物が顔を出すような雰囲気を感じるときがよくあります。その背景に、このドイツ的なものとイタリア的なものが共存していた彼の生い立ちに求めるのは安直に過ぎることはよく分かっているのですが、それでも幾ばくかの影響があったことも否定できないでしょう。
それにしても、フィルハーモニア時代のジュリーニは本当につかみ所のない指揮者です。
見通しの良いがっしりとした大きさを感じさせるときもあれば、ひたすら横へと流れていく歌で全曲を覆っているようなときもあります。
そして、その歌が重視されているときは、これが本当にジュリーニなんだろうか?・・・と思うほどの軽さに驚かされます。その最たるものがチャイコフスキーの悲愴です。
デモーニッシュ的なものは欠片もなく、音楽はひたすら気持ちよく横へと流れていくばかりです。そして、その流れを「さらさら」とまで言えば言い過ぎでしょうが、それでもこれほど軽さを感じる悲愴は珍しいでしょう。
逆にシューマンの3番なんかは、まるでマーラーのような重さに驚かされます・・・って、これってもしかしたらマーラーの編曲版を使ってる?(調べてみたら、そのまんま、マーラーの編曲版を使っていることがわかりました)
頭から力一杯オケを鳴らして、その響きの分厚さはなかなかに聴き応えがあります。(荒っぽいという噂もありますが・・・^^;)
そして、ブラームスの1番のあの重々しい足取りがあるかと思えば、一転してこの上もなく正統派のスタイルで全曲を構成した2番の演奏なんかもあります。
そんなわけで、そう言うおかしな多様性の中にジュリーニの分裂症的な側面をかぎ取ってしまう私なのですが、見方によっては、己の音楽の立ち位置を探し求めるための「実験」だったとも考えられます。
そう言えば、ジュリーニという人は、大戦中に軍から脱走して地下に潜んでいたという経歴を持っています。見つかれば敵前逃亡で銃殺刑は免れない行動だったのですが、幸いにして潜んでいた屋根裏部屋は発見されることなく戦争を乗り切ります。
しかし、その経歴は戦後になると大きなメリットとなります。
名の通った指揮者は多かれ少なかれナチスとの関係が足を引っ張り、そう言う脛の傷がないジュリーニはサンタ・チェチーリア音楽院管弦楽団、後ローマ放送管弦楽団、ミラノ放送管弦楽団と順調にキャリアを積み上げ、1953年からはデ・サバタの死去に伴ってミラノ・スカラ座の音楽監督を務めることになります。
もちろん、そのキャリアを積み上げるだけの才能があったことは疑いないのですが、才能があるだけではのし上がっていくことが出来ないのがこの世界です。ですから、その才能に見合うだけのキャリアが次々に用意されると言うだけで、この世界では希有な幸運なのです。
しかし、彼の望みは歌劇場のシェフではなく、コンサートオーケストラの指揮者でした。
そして、そう言うジュリーニの望みと才能を見いだしたのがEMIの敏腕プロデューサーだったウォルター・レッグでした。
レッグの一番の手駒はカラヤンだったのですが、彼はベルリンフィルのシェフに収まったので、次の手駒としてクレンペラーを担ぎ出してきました。しかし、この男の狷介な性格と怪我の多さを考えればスペアの手駒がどうしても必要だったのです。そんな中で白羽の矢が立ったのがジュリーニです。
ジュリーニもまた念願だったコンサートオケの指揮活動が出来るということで、1956年にはさっさとスカラ座の音楽監督は辞めてしまい、レッグとのコンビでフィルハーモニア管と録音活動をはじめます。活動の軸を少しずつベルリンに移しつつあったものの、未だにカラヤンは金看板として頑張っていましたし、クレンペラーもレッグとのコンビで最晩年の大きな花を咲かせようとしている時期でした。
そんな中で、ジュリーニの立ち位置はかなり気楽なものだったことは間違いありません。
確かに、例えばブラームスの2番などを聞くと、やろうと思えば正統派のスタイルで実に立派な音楽を聴かせることは造作もないことだったことは感嘆に分かります。しかし、それでは、先頭を走るトップランナー達の後塵を拝し続けるだけです。
おそらく、ドイツ的なものとイタリア的なものが矛盾無く共存しているジュリーニという複雑な人間が納得できる音楽を探し出すことが、ジュリーニにとっては絶対に必要だったのでしょう。見方によっては分裂症的に見えるほどの多様さに満ちたフィルハーモニア時代の録音は、もしかしたらそう言う「ジュリーニ的」なものを探り続けた実験的な時代だったのかもしれません。
もしそうだとすれば、この時代の録音に後年のロス時代。シカゴ時代、そしてギリギリ最後にやってきたウィーン時代のジュリーニの原型が全てここに含まれているとも言えます。
そして、そんな悠長なことを許した50年代の素晴らしさを改めて実感させられるのです。(クラシック音楽の世界では黄金の50年代という言い方がされます。)もちろん、それを許したレッグも大したものです。
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