クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~

デュカス:「魔法使いの弟子」

ゲオルク・ショルティ指揮 イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団 1957年3月録音





Dukas:L'Apprenti Sorcier


老先生のお出掛けじゃ、鬼の留守の羽翼伸ばし

デュカスと言えば「魔法使いの弟子」です。「魔法使いの弟子」と言えば「デュカス」です。それくらいにこの二つは強く結びついていますし、その結びつきをつくり出したのは言うまでもなくディズニーのアニメ映画「ファンタジア」の為せる業です。
しかし、それでは「魔法使いの弟子」以外のデュカスの作品となると何が思い浮かぶでしょうか。恥ずかしながら、私は何一つ思い浮かびませんでした。(^^;

それでは、デュカスというのはいわゆる「一発屋」だったのかと言えば、どうもそうでもないようなのです。どうやら、このデュカスという人は稀に見るほどの完璧主義者だったようで、自ら作品番号をつけたごく僅かの作品以外は跡形もなく破棄してしまったようなのです。ですから、その生涯に残された作品は20にも満たないのです。
しかし、その反面として「評論家」としても活躍して、多くの作品を厳しく批評し、その事が結果として自作への厳しい批評にもつながったようなのです。ですから、彼の作曲の教室には多くの有能な若者が集まり、その中にはモーリス・デュリュフレやオリヴィエ・メシアンなどもいたのです。
この写真はとても有名なもので、中央に先生のデュカスが写っていて、右端にひっそりと座っているのがオリヴィエ・メシアンだそうです。

デュカスの作曲クラス

「魔法使いの弟子」は最初は「ゲーテによる交響的スケルツォ」と名づけられたように、ゲーテのバラード「魔法使いの弟子」をもとにした管弦楽曲です。ただし、そのストーリーというものは映画ファンタジアによって多くの人に知れ渡っていますから、今さらゲーテの作品にかえって確かめる必要がないのは有り難い話です。しかし、デュカスはファンタジアを見てこの作品を作曲したのではなくて、あくまでもゲーテの詩のフランス語訳を呼んでこの作品をイメージしたのですから、一度はゲーテの作品にかえってみるのも有意義でしょう。

老先生のお出掛けじゃ、
鬼の留守の羽翼(はね)伸ばし、
いかな 霊ども、
今日はおれの厳命にそむくまいぞや、
呪文も印も一切合財
老師のすること残らず見てある、
細工はりゅうりゅう、
師匠にまさる念力で
いよいよこれから秘宝のはじまり。

ひたひた さらさら
流れよ 流れよ
そこまで ここまで
流れよ あふれよ 水の霊
たっぷりみなぎれ
ゆあみ 水あび できるまで

おつぎはおまえだ 古箒!
そこらのありぎれ引っかぶれ。
下男仕事がおまえのがらだ。
しっかり果たせ わたしのいいつけ。
ほら立て しゃんと、足を突っぱり
頭を起し。
いそいで汲め汲め
水甕(みずがめ)持って。

ひたひた さらさら
流れよ 流れよ
そこまで ここまで
流れよ あふれよ 水の霊
たっぷりみなぎれ
ゆあみ 水あび できるまで

ほらほら 岸を目がけて幕の下男、
早くも着いた 水際に。
雷光石火、
水汲み運ぶ、
たちまち返して二度目 三度目。
盤は溢れる、
うつわも鉢も
なみなみみなぎる。

とまれ とまれ。
汝のはたらき
しっかりと
見えたぞ。
あっ、これは大変。
ここのところの呪文を忘れた。

ああああ 箒を箒にかえす
呪文を忘れた。
ああ あの目まぐるしい走りよう、
もとの箒にもどらぬか、
汲んで運び 運んであける。
ああ 八方からの
水攻めだ。

もうこの上は
捨ておけぬ。
ひっとらまえよう。
あまりの沙汰だ。
ああ 心配がひどくなる。
あの形相は! あの目つきは!

こやつ、悪魔の出来そこないめ!
この家(うち)もすっかり流す気か。
扉から窓から
大洪水。
こら聞こえぬか、
箒のばけもの。
ありし姿の棒となれ、
棒となって立ち止まれ。

どうでも
やめぬか。
つかむぞ、
しめるぞ。
古びたその柄に
まさかり見舞うぞ。

ほら またしてもあくせく運ぶ、
体(たい)でとめるぞ 飛びつくぞ、
他愛もない奴、ばったり倒れた このとおり、
一刀両断、これ食らえ。
でかした 割れた、真二つ。
これで安心。
一息できる。

悲しや 悲しや、
割れた二つが
すぐさま立って
今度は二人で
水運ぶ。
お助けください ああ神さま

下男二人がやすまずうごく、
だんだん増す水
階段ひたす。
おそろしや 大洪水、
お師匠さま、お師匠さまはござらぬか。
あ、お師匠さまが見えられた。
先生、大変が起こりました。
私が呼び出した霊どもが
いいつけ聞かず
始末に困じておりまする。

「隅に寄れ、
片よれ 片よれ
古箒 古箒、
なんじ本来箒の性(しょう)、
汝に霊力授けて
使役にしうるは
ただ練達の師あるのみじゃ」

訳:手塚富雄

魔法使いの弟子は命じられた水汲み仕事に飽き飽きしてずるをしたのではなくて、最初から「老先生のお出掛けじゃ、鬼の留守の羽翼(はね)伸ばし」だったのですね。もっとも、全体のストーリーはファンタジアも大きな違いはないのですが、それでも、この笑える一連の「言い回し」を知った上で音楽を聞いた方がはるかに楽しめるようですね。

ショルティのアプローチに内在する価値を嗅ぎ取って「感心」するくらいの幅の広さは持ってもいいのではないでしょうか


録音クレジットを見れば、これはすったもんだのあったイスラエル・フィルとの初録音の時のものです。あの録音は様々なことが重なって非常にタイトなスケジュールを強いられたのですが、そのスケジュールの中でこのような小品も録音していたとは驚きでした。
カルショーもその自伝の中では、レスピーギの「風変りな店」の録音に関しては詳細に記述しているのですが、この「魔法使いの弟子」に関しては一言も触れていません。
どうして、そんな扱いを受けているのかと考えてみれば、この録音が明らかに「埋め草」だったことに気づくのです。

初出のレコードを確認してみれば、レスピーギのバレエ音楽「風変りな店」とデュカスの「魔法使いの弟子」がカップリングされています。つまりは、本命の「風変りな店」だけでは一枚のレコードを埋めるのは時間が不足だったので、その不足分を埋めるための作品として少ない時間の中で「魔法使いの弟子」も録音したのでしょう。
ショルティはタイトなスケジュールの合間を縫ってイスラエルにやってきていたので滞在期間を1日たりとも延長することが出来ませんでした。ですから、予定されていたセッションの一つでも流してしまうと録音計画が終了できなというギリギリの状態だったのです。さらに言えば、ショルティにとっても「Decca」の録音陣にしてもイスラエル・フィルとは初顔合わせであり、さらには録音に使用した映画館も初めてだったのです。全く余裕のないスケジュールのもとで、何から何まで始めてという「手探り」の状態の中で録音を強いられるというのは、指揮者にとってはとんでもないストレスを強いられる状況だったと言えます。

これは全くの想像に過ぎませんが、この「魔法使いの弟子」は残されたごく僅かの時間の中で録音されたのではないかと思われます。クナパーツブッシュのような指揮者ならばもとからリハーサルなどはほとんどしないのですから、なるようにしかならないと言う「いつものスタンス」を適用すればすむ話なのですが、ショルティという指揮者もカルショーというプロデューサーも、その様スタンスとは真逆の位置にいる人たちでした。彼らは、やるからにはそれなりの精度とクオリティをもった音楽を提供しなければ到納得できないスタイルの人たちだったのです。
ですから、この「魔法使いの弟子」は、そう言う困難な状況下においても発揮された、ショルティという指揮者のオーケストラに対する驚くべきコントロール能力の高さを示している録音だとも言えそうなのです。

もちろん、この演奏にケチをつけようと思えばいくらでもケチをつけることは可能です。何よりも、この音楽に必要な芝居気が希薄で、あまりにもこぢんまりとまとまってしまっていることに不満を感じるでしょう。
クナパーツブッシュ的な方法論を適用するならば、この作品が持っている芝居気を最大限に引き出して、その結果としてオケが崩壊しても気にもとめないでしょう。しかし、それはショルティの流儀ではありませんでした。
ショルティという人は「何度も繰りかえし聞かれる」というレコードの特質をよく理解していましたから、まずは何度聞かれても不満を感じない程度の精度とクオリティを第一義的に確保し、その上で可能な範囲で作品が持っている芝居気を表現しようとするのです。結果として、それがこぢんまりとした音楽になったとしても、それが与えられた時間内での限界だとするならば、それで良しとするのです。

おそらく、ショルティという指揮者に対して多くの日本人が批判的なのはその様なスタンスが生み出す音楽に対して不満を感じるのでしょう。そして、彼らの多くが愛するのは砕け散っても己の道を突き進むクナパーツブッシュのような音楽なのです。
もちろん、その見識は否定するものではないのですが、それでも音楽というものには多用なアプローチがあると言うこもを認めるべきではないでしょうか。
そう言えば、ある方はショルティの音楽を評して「感心はするけれども感動はしない」と語っていました。少なくとも、彼のアプローチに内在する価値を嗅ぎ取って「感心」するくらいの幅の広さは持ってもいいのではないかと思います。

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