クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~

ベートーベン:交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱」

カール・ベーム指揮 ウィーン交響楽団 ウィーン国立歌劇場合唱団 (S)テレサ・シュティッヒ・ランダル (A)ヒルデ・レッセル・マイダン (T)アントン・デルモータ (Bs)パウル・シェフラー 1957年6月20日~26日録音





Beethoven:Symphony No.9 in D minor, Op.125 Choral [1.Allegro Ma Non Troppo, Un Poco Maestoso]

Beethoven:Symphony No.9 in D minor, Op.125 Choral [2.Molto Vivace]

Beethoven:Symphony No.9 in D minor, Op.125 Choral [3.Adagio Molto E Cantabile; Andante; Adagio]

Beethoven:Symphony No.9 in D minor, Op.125 Choral [4.Presto; Allegro Ma Non Troppo; Allegro Assai; Presto; Allegro Vivace; Alla Marcia; Andante Maestoso; Allegro Energico Sempre Ben Marcato; Allegro Ma Non Tanto; Poco Adagio; Prestissimo]


何かと問題の多い作品です。

ベートーベンの第9と言えば、世間的にはベートーベンの最高傑作とされ、同時にクラシック音楽の最高峰と目されています。
そのために、日頃はあまりクラシック音楽には興味のないような方でも、年の暮れになると合唱団に参加している友人から誘われたりして、コンサートなどに出かけたりします。

しかし、その実態はベートーベンの最高傑作からはほど遠い作品であるどころか、9曲ある交響曲の中でも一番問題の多い作品なのです。さらに悪いことに、その問題点はこの作品の「命」とも言うべき第4楽章に集中しています。
そして、その様な問題を生み出した原因は、この作品の創作過程にあります。

この第9番の交響曲はイギリスのフィルハーモニア協会からの依頼を受けて創作されました。しかし、作品の構想はそれよりも前から暖められていたことが残されたスケッチ帳などから明らかになっています。
当初、ベートーベンは二つの交響曲を予定していました。

一つは、純器楽による今までの延長線上に位置する作品であり、もう一つは合唱を加えるというまったく斬新なアイデアに基づく作品でした。

後者はベートーベンの中では「ドイツ交響曲」と命名されており、シラーの「歓喜によせる」に基づいたドイツの民族意識を高揚させるような作品として計画されていました。
ところが、何があったのかは不明ですが、ベートーベンはまったく異なる構想のもとにスケッチをすすめていた二つの作品を、何故か突然に、一つの作品としてドッキングさせてフィルハーモニア協会に提出したのです。
そして出来上がった作品が「第九」です

交響曲のような作品形式においては、論理的な一貫性は必要不可欠の要素であり、異質なものを接ぎ木のようにくっつけたのでは座り心地の悪さが生まれるのは当然です。
もちろん、そんなことはベートーベン自身が百も承知のことなのですが、何故かその様な座り心地の悪さを無視してでも、強引に一つの作品にしてしまったのです。

年末の第九のコンサートに行くと、友人に誘われてきたような人たちは音楽が始めると眠り込んでしまう光景をよく目にします。そして、いよいよ本番の(?)第4楽章が始まるとムクリと起きあがってきます。
でも、それは決して不自然なことではないのかもしれません。

ある意味で接ぎ木のようなこの作品においては、前半の三楽章を眠り込んでいたとしても、最終楽章を鑑賞するにはそれほどの不自由さも不自然さもないからです。
極端な話前半の三楽章はカットして、一種のカンタータのように独立した作品として第四楽章だけ演奏してもそれほどの不自然さは感じません。
そして、「逆もまた真」であって、第3楽章まで演奏してコンサートを終了したとしても、聴衆からは大ブーイングでしょうが・・・、これもまた、音楽的にはそれほど不自然さを感じません。

ですから、一時このようなコンサートを想像したことがあります。
それは、第3楽章と第4楽章の間に休憩を入れるのです。

前半に興味のない人は、それまではロビーでゆっくりとくつろいでから休憩時間に入場すればいいし、合唱を聴きたくない人は家路を急げばいいし、とにかくベートーベンに敬意を表して全曲を聴こうという人は通して聞けばいいと言うわけです。
これが決して暴論とは言いきれないところに(言い切れるという人もいるでしょうが・・・^^;)、この作品の持つ問題点が浮き彫りになっています。

満開の梅の花のような潔さと剄さを持った音楽


ベームに関してはどこか奥歯に物が挟まったような物言いをしてきました。
しかし、50年代のモノラル録音からステレオ録音黎明期の彼の演奏を聴き直してみると、そう言う「留保条件」は吹き飛んでしまいます。

ベームは1894年生まれですから、50年代というのは50代後半から60代中頃までの時期をカバーします。
この時代の指揮者というのはどういう形にしろ戦争の影響を受けずにはおれませんでしたから、その影響を逃れ出て本格的に音楽に取り組めるようになった時代とも重なります。ベーム自身は1930年代のドレスデンの時代をもっとも幸福な時代だったと回顧しているのですが、ウィーンの国立歌劇場の音楽監督に再び就任した1954年は、彼のキャリアにおける頂点だったはずです。

そう言う意味でも、50年代こそは十分な経験を積み重ね、さらには精神的にも肉体的にももっとも充実した時期だったと言えるはずです。

ざっとそのようなことを、彼のリヒャルト・シュトラウスの録音を聞いたときに感じたはずなのですが、その後、なぜかそれ以外の録音を放置してしまっていました。

そして、20世紀前半の録音を掘り起こしている別のコーナーでベームの録音を聞き直しているうちに、彼が50年代に録音したベートーベンやブラームス、シューベルトというドイツ・オーストリア系のど真ん中の音楽を全く取り上げていないことに気付いたのです。
この事実には私自身もいささか驚いたのですが、それらの録音を久しぶりに聞き直してみて、なぜにリヒャルト・シュトラウスの録音を取り上げたときに同時に取り上げなかったのかの理由が思い出されました。

簡単に言えば、それらの演奏に対して、どういう言葉を呈すればいいのかがよく分からなかったのです。
もう少し分かりやすく言えば、聞き手の耳にある種のエモーショナルな感情を引き起こす事の少ない演奏なので、それを言葉に置き換えようとすると、どれもこれもがありきたりのつまらないものになってしまうのです。それならば、その演奏はそんなにもありきたりでつまらないのかと言えば、最初はそう言う感情が起こるかもしれないのですが(^^;、最後まで聞き通せば疑いもなく「立派な音楽」が鳴り響いていたことを確信させてくれるのです。

こういう音楽を言葉で表現するのは難しいですね。

ですから、リヒャルト・シュトラウスの録音に対しても「こうしてベームの録音をまとめて聞いてみると、一つの特徴が浮かび上がってきます。それは、どの録音を聞いても、オケの響きが透明で、なおかつしなやかな剄さを持っていることです。「つよさ」というのは「強さ」ではなくて「剄さ」という漢字を当てたくなるような「つよさ」です。」と書くのが精一杯だったわけです。

そして、それがベートーベンやブラームス、シューベルトみたいな音楽だとそこに積み重なってきている演奏と録音の数は膨大な量になりますから、その中でベームならではの特徴を適切な言葉で見つけ出すのはとんでもなく困難なのです。

確かに、こういうベームのような演奏を聞いていると、これに変わりうるものはいくらでもあるような気がします。
もちろん、だからといってそれは凡庸な演奏だというわけではなくて、それは疑いもなくベートーベンやブラームスを強く感じさせてくれる立派な音楽になっているのですが、それでも膨大に積み重なった落ち葉の中から自己を主張することの少ない音楽であることも事実です。
しかし、もう少し注意深く聞いてみると、「しなやかな剄さ」と書いたものの正体が少しずつ見えてきます。

口幅ったい言い方になるのですが、この世界には聞けばすぐに了解できる強い個性と、ある程度経験を積んだ耳でなければ気付きにくい個性とが存在します。ベームは典型的な後者の立場にある指揮者です。そして、この国でフルトヴェングラーやカラヤン、バーンスタインなどの人気が高いのは、彼らが典型的な前者の立場にある指揮者だからでしょう。

ベームという指揮者は徹底的に実務的な指揮者です。
それを「職人」という言葉に置き換えてもいいのかも知れませんが、個人的には「実務的な指揮者」の方がしっくりと来ます。

吉田大明神もベームの「ザ・グレイト」の録音でふれていたと思うのですが、ベームという人はオーケストラの前に立つ前から確固とした音楽のイメージが頭の中に存在している人だったようです。そして、そのイメージというのは実に細かい部分までクリアだったようで、ホンのちょっとしたアクセントやデュナーミク、そしてテンポの揺れのようなものまでが一切の曖昧さもなしに存在していたようです。

ですから、ベームのリハーサルは実にねちっこいものでした。
ベームという人は、目の前で鳴り響いているオケの音楽と、頭の中の音楽とを正確に比較検証できる並外れて優れた耳を持っていました。モネが「目」であり、ドビュッシーが「耳」だとするならば、ベームもまた「耳」だったのです。
彼は些細な部分の齟齬も見逃さず、執拗に指示を出し続けます。
その指示は一切の精神的な言葉は含まれず、ひたすら実務に徹したものだったようです。

ですから、練習嫌いで有名なウィーンフィルのなかにはそう言うリハーサルに反発するものもいたようですが、しかし、その指示は常に明確でありクリアであり、さらに言えばその結果として仕上がる音楽は立派なものだったのですから、その事を高く評価するものも少なくなかったのです。

おそらく、ベームの音楽の魅力として真っ先に数え上げられるのは、ドイツ古典派の真髄とも言うべき強固な構築性を土台としていることです。それがそれがもっとも効果を発揮するのはフィナーレの作り方で、その頂点に向けた歩みに内包された強い説得力は見事としか言いようがありません。
しかし、ベームが本当に素晴らしいのは、そこにしなやかな歌心をさりげなく、しかしこの上もなく効果的に忍び込ませたことでしょう。それは一見すれば何もしていないように見えながら、音楽にしなやかな生命力を与えています。

最晩年のベームがつまらなくなってしまったのは、おそらくは脳卒中によって身体の自由がきかなくなったためだと思うのですが、そう言う細部のしなやかさをオケに伝えることが出来なくなってしまったからでしょう。
それは、ほんの些細なことのように思えます。
しかし、そのちょっとしたテンポの上げ下げのようなものが実現できなくなった途端に音楽は明らかに硬直していくのが残酷なまでによく分かります。

大袈裟な身振りや強いエモーショナルというものは、年を重ねて衰えてきても、それがまた別の個性のように感じてもらえる「強み」があります。
しかし、ベームのような徹底的な「実務」によって成り立っている音楽は、その「実務」の些細な欠落は「音楽」そのものを大きく損なってしまうのです。

桜という花は満開を過ぎて散り始めた頃がもっとも美しいのに対して、梅の花は散り始めると痛々しいまでの欠落を感じさせます。
ベームという指揮者もまた、そう言う「梅の花」のような音楽家だったのでしょう。

そう考えれば、この50年代の録音こそは満開の梅の花のような潔さと剄さを持った音楽だっと言えます。

よせられたコメント

2020-10-21:コタロー


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