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Home|サヴァリッシュ(Wolfgang Sawallisch)|シューベルト:交響曲第8(9)番 ハ長調 「ザ・グレート」 D.944

シューベルト:交響曲第8(9)番 ハ長調 「ザ・グレート」 D.944

ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮 シュターツカペレ・ドレスデン 1967年録音



Schubert:Symphony No.9 in C major, D.944 "The Great" [1.Andante - Allegro, ma non troppo - Piu moto]

Schubert:Symphony No.9 in C major, D.944 "The Great" [2.Andante con moto]

Schubert:Symphony No.9 in C major, D.944 "The Great" [3.Scherzo. Allegro vivace - Trio]

Schubert:Symphony No.9 in C major, D.944 "The Great" [4.Allegro vivace]


ベートーベン的な「交響曲への道」にチャレンジしたファースト・シンフォニー

天才というものは、普通の人々から抜きんでているから天才なのであって、それ故に「理解されない」という宿命がつきまといます。それがわずか30年足らずの人生しか許されなかったとなれば、時代がその天才に追いつく前に一生を終えてしまいます。

シューベルトはわずか31年の人生にも関わらず多くの作品を残してくれましたが、それらの大部分は親しい友人達の間で演奏されるにとどまりました。
彼の作品の主要な部分が声楽曲や室内楽曲で占められているのはそのためです。

言ってみれば、プロの音楽家と言うよりはアマチュアのような存在で一生を終えた人です。もちろん彼はアマチュア的存在で良しとしていたわけではなく、常にプロの作曲家として自立することを目指していました。
しかし世間に認められるには彼はあまりにも前を走りすぎていました。
もっとも同時代を生きたベートーベンは「シューベルトの裡には神聖な炎がある」と言ったそうですが、その認識が一般のものになるにはまだまだ時間が必要でした。

そんなシューベルトにウィーンの楽友協会が新作の演奏を行う用意があることをほのめかします。
それは正式な依頼ではなかったようですが、シューベルトにとってはプロの音楽家としてのスタートをきる第1歩と感じたようです。彼は持てる力の全てをそそぎ込んで一曲のハ長調交響曲を楽友協会に提出しました。

しかし、楽友協会はその規模の大きさに嫌気がさしたのか練習にかけることもなくこの作品を黙殺してしまいます。
今のようにマーラーやブルックナーの交響曲が日常茶飯事のように演奏される時代から見れば、彼のハ長調交響曲はそんなに規模の大きな作品とは感じませんが、19世紀の初頭にあってはそれは標準サイズからはかなりはみ出た存在だったようです。

やむなくシューベルトは16年前の作品でまだ一度も演奏されていないもう一つのハ長調交響曲(第6番)を提出します。
こちらは当時のスタンダードな規模だったために楽友協会もこれを受け入れて演奏会で演奏されました。しかし、その時にはすでにシューベルがこの世を去ってからすでに一ヶ月の時がたってのことでした。

この大ハ長調の交響曲はシューベルトにとっては輝かしいデビュー作品になるはずであり、その意味では彼にとっては第1番の交響曲になる予定でした。
もちろんそれ以前にも多くの交響曲を作曲していますが、シューベルト自身はそれらを習作の域を出ないものと考えていたようです。

その自信作が完全に黙殺されて幾ばくもなくこの世を去ったシューベルトこそは「理解されなかった天才の悲劇」の典型的存在だと言えます。
しかし、天才と独りよがりの違いは、その様にしてこの世を去ったとしても必ず時間というフィルターが彼の作品をすくい取っていくところにあります。この交響曲もシューマンによって再発見され、メンデルスゾーンの手によって1839年3月21日に初演が行われ成功をおさめます。

それにしても時代を先駆けた作品が一般の人々に受け入れられるためには、シューベルト→シューマン→メンデルスゾーンというリレーが必要だったわけです。
これほど豪華なリレーでこの世に出た作品は他にはないでしょうから、それをもって不当な扱いへの報いとしたのかもしれません。


  1. 第1楽章:Andante - Allegro, ma non troppo - Piu moto
    冒頭、2本のホルンによって主題が奏されるのですが、これが8小節を「3+3+2」としたもので、最後の2小節がエコーのように響くという不思議な魅力をもっています。
    また、この主題の中の3度上行のモティーフが至るところで使われることによって作品全体をまとめる働きもしています。

  2. 第2楽章:Andante con moto
    チェロやコントラバスというベースラインが絶妙に揺れ動く中でオーボエのソロが見事な歌を歌います。ベートーベン的な世界を求めながらも、そこにシューベルトならではの「歌」の世界が抑えきれずにあふれ出たという風情です。
    そして、シューベルトには申し訳ない話かも知れませんが、それ故に聞き手にとっては最も美しく響く音楽でもあります。

  3. 第3楽章:Scherzo. Allegro vivace - Trio
    同じスケルツォでも、ベートーベンのような諧謔さではなくて親しみやすい舞曲的性格が強い音楽になっています。

  4. 第4楽章:Allegro vivace
    「天国的な長さ」とシューマンによって評された特徴が最もよくあらわれているのがこの楽章です。
    第1主題に含まれる2つの音型が楽章の全体を通して休みなく反復されるので、それがその様な感覚をもたらす要因となっています。
    しかし、それこそがベートーベン的な「交響曲への道」を求めていたシューベルトの挑戦の表れだったと言えます。




古典派という枠を自らに課しながら、その枠の中においてシューベルトの歌謡性を可能な限り引き出している

昔の巨匠には「コンプリート」という概念はほとんどなかったようです。
例えば、フルトヴェングラーのベートーベンやブラームスの交響曲全集というものは存在しているのですが、それはあちこちで録音されたものをかき集めて「全集」に仕立てあげただけの話で、フルトヴェングラーにしてみれば「コンプリート」という意識は全くなかったはずです。

しかし、世の中には必ず「例外」というものが存在するわけで、その例外の一番手は、ベートーベンのピアノソナタを世界ではじめて「コンプリート」したシュナーベルです。30曲を超える膨大なソナタが偶然の産物として「コンプリート」するはずもなく、それはシュナーベルの血に滲むような執念の産物として完成したものでした。
そして、指揮者で言えば、これもまた世界で始めてベートーベンの交響曲を「コンプリート」したワインガルトナーの名をあげるべきでしょう。

そして、時代が下がるにつれて、少しずつ「コンプリート」という意識が広がっていったようで、1950年代にはいると、バックハウスやナット、ケンプなどがベートーベンのピアノソナタを「コンプリート」するようになります。
ギーゼキングによるモーツァルトのソナタやドビュッシーへの取り組みも指摘しておく必要があるでしょう。

交響曲で言えばトスカニーニやカラヤン、シェルヘンなどが50年代の早い時期に全集を完成させています。

特に、カラヤンはあらゆるジャンルにおいて満遍なく高いレベルで録音を残した人であり、実にたくさんの作曲家の作品を「コンプリート」しました。そして、そのカラヤンが「帝王」と呼ばれるポジションを占めることで、指揮者というものは昔の巨匠のように自分の得意な作品だけを演奏していればいいというスタイルを過去のものにしてしまいました。
つまりは、指揮者というものは基本的に「コンプリート」すべき存在になっていったのです。

それでも、ライナーやムラヴィンスキー、ストコフスキーのように、そう言う意識が希薄な人は存在し続けました。
新しいところでは、ジュリーニやクライバーなども「コンプリート」という意識は希薄です。(クライバーは皆無^^;)
しかしながら、「コンプリート」出来るならば「コンプリート」したいという指揮者が多数を占めるようになったことは事実です。

そして、ここで取り上げているサヴァリッシュは明らかに「コンプリート」する人でした。
そして、その「コンプリート」も、「そう言う時代だから取りあえずはコンプリートしておこう」と言ういい加減なものではなくて、戦前のシュナーベルやワインガルトナーに通ずる「コンプリート」しなければ気が済まないという必然性を持っていたように思われます。

ですから、この「コンプリート」という概念で演奏家を分類すれば、「コンプリートする人」と「コンプリートしない人」に二分されます。
もっとも、「みんなコンプリートしているから取りあえず自分もコンプリートしておこう」とか、「コンプリート」したいんだけれども、実績がないので「コンプリート」させてもらえない人もいるでしょうが、そう言うのは意味がないので除外しておきましょう。)

「コンプリートしない」人の言い分は容易に理解できます。
たとえ、それがベートーベンの交響曲であっても、全9曲に対して演奏する価値と喜びを見いだせるかと問われれば、どこかしっくり来ない作品があったとしてもそれは逆に自然なことのように思えるからです。
そう言う「正直な人」にとって、そう言うしっくり来ない作品を「コンプリート」するためだけに演奏するのは時間の無駄、もっと言えばそれほど人生は長くないと言うことなのでしょう。

それでは「コンプリート」する人の言い分はどこにあるのでしょうか。
それは、そう言うしっくり来ない作品があったとしても、そう言う作品も含めて演奏してこそ、その作曲家の全容が見えてくるというスタンスです。そして、そう言う作品も演奏してみることで「しっくり来る作品」への理解もより深まるというスタンスです。

つまりは、「コンプリートしない人」は我が儘で、「コンプリートする人」は生真面目だとということです。
もしくは、「コンプリートしない人」自分の感性に正直であるのに対して、「コンプリートする人」は感性よりは論理を優先するとも言えそうです。

ですから、「コンプリートしない人」の演奏を聞くときには、その我が儘ゆえの魅力を味わうべきであって、それは往々にしてきわめて感覚的なものであるがゆえに受容されやすいという側面を持っています。

それに対して、「コンプリートする人」の演奏を味わうには、その一連の演奏に通底している「論理」みたいなものを解き明かしていく必要があります。
しかし、注意が必要なのは、外面的には「コンプリート」していても、その内実が「みんなコンプリートしているから取りあえず自分もコンプリートしておこう」みたいな演奏だと、いくら考えてもそこに通底している「論理」が見いだせるはずもないので、ただただ膨大な時間を浪費させられるだけということになります。

ただ、幸いなのは、クラシック音楽の世界にとって50年代は黄金の時代であり、60年代は概ね銀の時代でした。

その時代に「コンプリート」されて21世紀まで生き残っている録音というものは、ほぼ、それなりの意味を持った録音だと言い切っても大丈夫なはずです。
その時代は言葉の真の意味における「豊かさ」に恵まれていて、その「豊かさ」の中から時間という絶対的な審判者によって選び出されたものには、それを信じてもいい十分すぎるほどの信頼性があります。

シューベルトの交響曲というものは、どう考えても「コンプリート」したいと思える課題ではありません。
マゼールもこの時期にかなりまとまった数の交響曲を録音しているのですが、結果としては1番と9番が欠番になっています。(後にバイエルンのオケを使って「コンプリート」しています)
そんな、いささか困難の伴うシューベルトの「コンプリート」にチャレンジしたサヴァリッシュの録音は、「取りあえず」という中途半端なものではなくて、それは疑いもなく「コンプリートする人」によチャレンジでした。

シューベルトにとっての交響曲は、アマチュアからプロの作曲家に成長していくためには、避けて通れない大きな壁でした。そして、それは非常に困難な課題でもあったわけです。
ベートーベンは交響曲の世界において「歌謡性」をバラバラに解体することで、それまで誰も考えなかったような巨大で深い世界を築いてしまいました。そんな交響曲が生み出された後の時代において、基本的に「歌」の人だったシューベルトが「交響曲への道」を辿るというのは途轍もなく「困難」な課題だったのです。

サヴァリッシュがここで追求しているのは、その様なシューベルトの「交響曲への道」の中で彼が求め続けたものを最大限に引き出すことでした。

それは、ともすれば歌謡性に引っ張られて構造的に弱い部分が露呈しても、そこに古典派交響曲という枠をはめることで実に立派な引き締まった造形物として提示してみせたのです。
そのために、サヴァリッシュは強めのアーティキュレーションで、例えばアクセントの部分をまるでスタカートかと思うほどのメリハリでアウトラインを引き締めています。

結果として、基本的には習作の域を出ないと思える初期の交響曲でも、とりわけソナタ形式を適用した第1楽章や最終楽章に関してはかなり立派な交響曲として立ちあらわれてくることになります。
逆に、「未完成」のような作品では、そんな「古典派」の枠からはみ出そうとする作品のパワーと、強固な造形感覚によって古典的な均衡の中におさめきろうというサヴァリッシュとがせめぎ合うことで、実に素晴らしい音楽が立ちあらわれることになったりもします。
おそらく、全8曲の中で、この「未完成」の演奏が一番素晴らしいのかもしれません。

しかしながら、それは良く糊のきいた服のような、パリッとしたスタイルに仕上げたことに一番の価値があるわけではありません。
サヴァリッシュはそう言う「古典派」という枠を自らに課しながら、その枠の中においてシューベルトの歌謡性を可能な限り引き出している事こそが素晴らしいように思われます。

そして、その時に大きな力を発揮しているのがドレスデンのオケの響きの美しさです。
「未完成」のような強い緊張感に満ちた演奏ではそう言う響きの美しさまでは気が回らない部分はあるのですが、初期のシンフォニーでみせるシューベルトの歌心の見事さ描き出す場面ではその響きは大きな貢献をしています。

なお、この一連の録音は、私が調べた範囲では、1967年には5枚組の「ボックス盤(Philips 802 797 LY / 802 801 LY)」としてリリースされたようです。
そして、67年から68年にかけて、ETERNAから分売されています。

普通は一枚ずつリリースしてから全集盤をリリースするものなのですが、これはその逆です。
また、全集と分売ではレーベルが異なるというのも不思議な話です。
しかしながら、このように「コンプリート」への強い意志を持って録音された演奏ですから、それが、まずは「全集」としてリリースされたのは実に相応しいことだったと言えます。

この演奏を評価してください。

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